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番外編 ナミさんとフェロモン魔人 3

 


 次の週、ナミは平日の少し遅い時間をねらって店に行った。

 ナミの事を覚えていたのだろう。若者の従業員はすぐに奥のカウンターへ案内してくれた。

 相変わらず、美青年の大将が作る物全てが美味しくて、お酒だけが残念だった。

 平日でも変わらなく良いものを出してくる姿勢に、ナミは心の中で頷いて、客が自分一人になった所で、あの、と大将に声をかけた。


「なんでしょう?」


 大将は例の不思議と耳に残る声で柔らかく聞いてくれる。

 ナミはその穏やかな顔を見て、はっきりと言った。


「私を、ここで雇ってもらえませんか?」


 少し驚いたように目を見開いた大将を見て、ナミは、あ、しまった、と思った。

 川谷(かわたに)さんからの紹介で、とか、私は接客をやっていまして、とか、先立つ言葉なしに言ってしまった。

 突然何を言いだすんだと言われても仕方がない。やってしまった、とじんわり冷や汗をかきはじめた時、大将が、じっとナミを見て、ちょっと待って下さいね、と店の奥へと続く暖簾(のれん)をくぐった。


 小林くん、今日はもう上がっていいから、と言う声がして、また大将は板場へ戻って来ると、ナミの前へことり、とカクテルグラスに入ったデザートを出してくれた。

 逆三角形の磨き上げられた器に隙間なく入ったゼリーは、透明な(うぐいす)色が綺麗で、中央には刻まれた薄緑の梅があしらわれている。


「梅酒ゼリーです。よかったら」

「……ありがとうございます」


 二言目(ふたことめ)がなかなか出てこなかったナミは、助かった、とほっとして、四角いケーキスプーンでゼリーをすくった。

 ぷるんっと弾力のあるゼリーはもちろん手作り仕様で、デザートまで手を抜かないとは心憎いと心の中で唸る。

 口に含むと冷たさと共にしっかりとパンチのある梅酒のゼリーに、口元の緩みが止まらない。一瞬にして当初の目的を忘れ、ゼリーに舌鼓を打っていると、大将が、もしかして仲倉(なかくら)ナミさんですか? と聞いてきた。


「ご存知でしたか……!」


 食べていた手を止めてナミが目を丸くすると、大将は苦笑して、実は川谷さんから、と言い出した。


「色よいお返事を頂いた時に、川谷さんから釘を刺されたのです。たぶん本人が見定めに来るからしっかりやれよ、と。どなたかは分かりませんでしたが、ここ一週間、私も小林くんも気合いを入れていました」


 いつもはここまでしっかりしていないんですよ、と首をすくめて白状する大将に、ナミは、そうだったんですか、と小さく呟く。


 では自分が見たものは特別だったのか? と自問自答してみるが、ナミの中で、否、と心が答える。


 このお店の柔らかくすっきりとした雰囲気は、一朝一夕で出来るものではない。

 このお店が、大将が、開店から培ってきたものだ。


 ナミはきっちりと余さずデザートを食べてから、ぴっと背筋を伸ばして大将を見た。


「お料理もお店の雰囲気もとても気持ちよく、好感が持てました。ただ、お酒だけが残念に思ったのです。私にお手伝いさせて頂ければ、料理に合ったお酒を提供させて頂きます。雇っては頂けないでしょうか」


 あまり口が達者でないナミの精一杯の言葉を、大将は嬉しそうに頷いて、こちらこそです、と例の良い声で言った。


「願ったり叶ったりです。よろしくお願いします」


 すっと差し出されたカウンター越しの右手に、ナミも手を差し出す。


 握手した手はひんやりと冷たくて、食材を持つ手に相応しい、良い板前の手だ、とナミは改めて思った。




 ****




 大将から明日からすぐに来てほしい、との事だったので、ナミは仕込みの時間にお邪魔して現状で出来る事をした。


 グラスを冷蔵庫で冷やす。日本酒は提供出来る全ての銘柄を冷蔵庫に入れる。

 店内に置いてある冷蔵ケースに入れてみるのだが、グラスのスペースを確保しようとすると、小さくて間に合わない。

 仕方なく大将にお願いして厨房の大型冷蔵庫の一角に一部、酒を置かせてもらったのだが、二日目でそれもやめた。

 食材の匂いが酒瓶に付いてしまったからだ。

 きっちりと蓋は閉めてあるので中身にまでは付かなかったが、注ぐ時に微かに匂ってしまった。


 この小さい冷蔵ケースで何が出来るか考えると、冷やせる日本酒は店が提供している七酒の内、五酒。

 ナミは店の残酒と、小林くんにご贔屓さまのお好きな銘柄をリサーチして一晩持ち帰り、翌日、レギュラーもイレギュラーもシャッフルして、日替わりにしましょう、と進言した。


 〝すずや〟が揃えている日本酒の中でも、よく出る銘柄と、あまり出ない銘柄がある。

 なるべく出る銘柄を五酒の内四種類入れて、残りの一種類を少しクセのあるお酒を入れて提供する。

 最近来店するリピーターの好みに合わせてそのお酒を必ず入れるようしつつ、在庫が出ないように残酒を見ながら日替わりのおすすめメニューを毎日作ってお品書きに挟んでいくことを提案し、大将に了承を得た。


 仕込みの時間に来て、せっせと日替わりメニューを紙に書いて作っているナミに、大将はすみません、と手は止めないで声をかけてきた。

 ナミは、そうですね、とにべもなく受け流すと、やはりこのままでは難しいです、と紙に向かっていた筆を止めて、大将に向き直った。


「先行投資にはなってしまいますが、お酒専用の冷蔵庫を設置する事をお勧めします。今、五酒を基本に回していますが、やはり二杯、三杯と飲む方には淋しいですし、いくら日替わりにしているとはいえ、ラインナップが一緒ではお客様も飽きてしまいます。レギュラー五酒、期間限定などのイレギュラーを同じく五酒は入れたいと思うのですが」


 グラスも同じ冷蔵庫の中に入れたいと思うと、今ある冷蔵ケースの二倍は欲しい。

 六桁は下らない買い物になるので、こればっかりは大将の懐具合と裁量になる。


 大将は仕込みを切りのいい所までやり、一旦手を止めて、うーん、と唸った。


「もし入れて頂ければ、酒造元にお願いして、もっと良いお酒を下ろしてもらうことも出来るのです。店での品質管理が出来ていないと、販売自体してくれない蔵元さんもいますので」


 ナミの言葉に、大将は大きな目をさらに見開いた。それは知らなかったです、とナミをまじまじと見る。

 ナミはなんとか冷蔵庫が欲しい、と一生懸命、言葉を紡いだ。


「もしあれでしたら、私のお給料は半分にして頂いて構いません。入れていただけませんか?」

「いや、さすがにそれは……」


 大将はナミの言葉を冗談だと思ったのか、苦笑いをして首を振ると、板場のへりに手を付いて、清められ今は何も載っていないまな板を見る。

 そして、一つ眼を瞑ると、ナミを見て、頷いた。


「分かりました。業者に発注します。ただ、サイズ感とか、実際どんな物がナミさん、小林くんが使いやすいのか見て頂きたいので、カタログから一緒に見てもらってもいいですか?」

「もちろんですっ」


 ナミの珍しく弾んだ声に、大将は大きな買い物だなぁ、とこれまた珍しくぼやいたので、ナミは満面の笑みを浮かべて、任せて下さい、とちょっとだけ胸を張った。


「絶対、後悔はさせませんから!」


 そう力強く言うと、嬉しくて口元が緩みながら、また筆を持って日替わりメニューをさらさらと書いていった。







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