番外編 ナミさんとフェロモン魔人 1
「とうとう、やったか」
「はい、とうとうやってしまいました」
久しぶりに呑みに来な、と誘ってくれたかつての上司・川谷の店を訊ねると、ナミの顔を見て開口一番、店主は核心をさっくりとついて笑った。
カウンターのみのスッキリとした店内は、まだ開店して間もないので客は無く、ナミは川谷の真向かいに座ると、眉をひそめ、まあ、我慢した方です。と短く言った。
〝つね左〟という店で三年働いていた。蕎麦と日本酒を出す店だったが、一流店で修行した店主の見立てで、まぁ良い物を出していたが、いかんせんプライドが高く、客にまで店の作法を強要させる店だった。
板場にいた川谷がその姿勢を諌めると、生意気だと言って接客へ移動させ、従業員への見せしめとする悪質さ。
幸いにもその時期に新人として店に入ったナミは、川谷の元、正しい接客のいろはを学べたのは良かったとは思うが、川谷が店を去った後のしわ寄せは全てナミに来た。
何度言っても変わらない殿様商売に嫌気がさし、三行半を叩きつけて辞めたのは先週の話だ。
風の噂で聞いたのだろう、くさくさとしているナミに、携帯で電話をかけてきてくれた。
「長くはねぇなとは思ってたさ、俺の弟子だしな」
「お前は川谷に仕込まれたからなって散々言われました。ひどい言いがかりです」
川谷の指導から学び、実際に接客に立って培った経験を元に進言をしても、その言葉で切られる。しかもニヤニヤと下世話な目で見られて、振られて残念だったなぁと嗤われるのだ。たまったものじゃない。
「仕方ない。客に気持ちよく過ごしてもらう為のいろはを仕込んだ。あいつらにとってお前さんは〝目の上のたんこぶ、その二〟だっただろうさ。よく我慢したよ、お疲れさん」
そう言って、ことりと出されたお通しには乱切りしたキュウリが形良く入っていた。
「キュウリのワイン漬けだ。結構甘めに仕込んだ。これに勧める酒、お前さんならどうする?」
「今日はねぎらいの日じゃないんですか?」
「いいじゃねぇか。不肖の弟子の出来た姿を見たいんだよ。わかるだろ?」
にやりと笑うが、川谷の表情は緩やかだ。
昔と比べると格段に丸くなったその強面の顔を見て、変わったな、とナミも思うが、川谷の下で働いていた記憶は未だ新しく、店で一緒に働いていた時に、突然質問されダメ出しをされるテストを思い出し、ナミは鼻にシワを寄せた。
食べてもいない料理に合う酒を見つくろうだなんて、新人のナミに出来る筈もなく、見当違いな酒を選んで散々叱られたのだ。
あまりに何回も続くので、そんな想像するしかない料理にぴったりのお酒を選ぶなんて出来ません、と思わず反論をすると、店で出すモノを接客が食べられる事なんかない。色と形、匂いでどんな味か想像して提供するんだ。客も料理も待っちゃくれない、その場でピタッと合うもの出さなけりゃ、次から客は来ない。とバッサリ正論を言われてぐうの音も出なかった苦い思い出が蘇ってくる。
「今日のお酒からでいいです?」
「いいよ」
レギュラーで入れているお酒とは別に、その時々で出す酒を川谷は大事にしていた。
ナミは濃紺のお品書きに挟まれた白い紙をすっと抜くと、ざっと斜めに見て、また、お通しの中身をじっと見た。
キュウリの緑の表面に深いシワが入って、浅漬けではなくしっかり漬かっているのが分かる。味付けが塩ではなくワインだとすると、かなり甘めの味付けだ。
少し辛めの酒で強すぎない方がいい。
ナミはざっと見た五酒ある内の一つを迷いなく指で指す。
「磯自慢、甘辛なのでワイン漬けの甘さを内包しつつ、後味がすっきりすると思います」
「おぉ、俺と一緒だ。成長したなぁ」
川谷は深く刻まれた眉間のシワをそのままに、嬉しそうに笑った。
「正解なら、出して下さい。いつまで客を待たせるのです?」
「はは、違いねぇ。今出すよ」
そう言ってカウンターから出ると、江戸切子の落ち着いた紫色のグラスを取り出し、日本酒が入った冷蔵庫から黒ラベルの磯自慢を取り出すと、なみなみと注いでくれた。
いただきます、と手を合わせて一欠片のキュウリを口に含むと、芳醇なワインの甘さと冷たいキュウリの食感が口に嬉しい。
その甘みを残したまま、磯自慢を一口飲むと、甘さはワイン漬けに軍配は上がれど、その後からついてくるキリッとした酸味が爽やかでそそり、やはりもう一口、続けて酒を飲んだ。
「正解です」
「だな」
自分の選択に間違いがなかったのを頷き、さらにくいっと杯を開けるナミの様子に、川谷も満足そうに頷き、合格だ、とカウンター越しに名刺を差し出した。
「なんです?」
「次の働き口の勧めだ」
「……試すために呼んだんです?」
それだったらひどい仕打ちだ、と眉をひそめるナミに、いや、そうじゃなくて頼まれたんだよ、と川谷は苦笑いした。
「俺が一番初めに修行に行った料亭の息子さんでね。小さい頃からちょろちょろと板場に来てたんだが、店を継ぐかと思ったら自分の店を構えたんだよ。この間寄ってみたんだが、腕はいい、店の構えもいい、だが酒に疎くてね」
話しながらことりと、いつの間に仕込んだのかししゃも焼きを三つ並べてナミの手元に置いた。
「接客が出来て酒に詳しい人を探しているんだそうだ。賄いが美味い事は保証する。一度見に行ってやっちゃくれないか」
腹が膨れて美味しそうな焼き色をつけたししゃもが、ナミの好物だとなぜ知っているのか。これは賄賂なのか、とちろっと川谷を見ると、奢りだ、食え、と川谷は苦笑する。
ナミは黙って、ししゃもを頭からかじる。
独特の苦味と共に磯自慢をまた一口飲むと今度は甘い香りが鼻をくぐらし、口元が緩んだ。
「……見に行くだけですよ?」
「ああ、お前さんの眼鏡に適わなかったらうっちゃって構わん。それも勉強だ」
「随分と入れ込んでいますね」
川谷はこいつだ、と目を掛けた者しか声をかけない。物事に対して真摯に向き合う者でないと掛ける言葉もおざなりだ、そのはっきりとした区別も〝つね左〟でナミを孤立させた一因でもあるが、ナミは気にしなかった。
べたべたと馴れ合って仕事をするつもりは無かった。全てはお客様の為に、何が出来るか、という意識の元で働きたかったので、従業員からの嫉みも物ともせずに働いてきた。
しかし先週、売り上げの勘定が一万円合わず、その日接客を三人で回していたにも関わらず、二人が結託してレジはナミしか触っていない、と言い張ったのだ。
それを聞いた店主が頷いて弁償しろと言ってきた。板場からは店内が見える。その日三人がレジを触っていたのは板場に居た全員が分かっている事実なのにも関わらず。
ナミは黙って従業員控え室に行き、財布から一万円を出すと、店の机にバシンと叩きつけ、辞意を示してその場を立ち去ったのだった。
もうこんな所で働いて居たくはない、と辞めた事に悔いは無いが、すぐに次の店を探そうと思う気力は無いぐらいには落ち込んでいた。
三年しか続けられなかった、というのはナミにとって辛い事だった。どんなに辛い事があっても、三年続けりゃモノになるよ、と言って送り出してくれた郷里の祖母に顔向けが出来ない。
幼くして両親を亡くしたナミにとっては、母方の祖父母が親代わりで、厳しくも優しく、昔ながらにしつけられていた。
そうだなぁ、という川谷の言葉に思考の波に取り込まれていた意識を上げる。
「まぁ、親元に居ず自分で店を構える気概もやるじゃねぇか、と思うしな。勘当同然で飛び出したみたいで、実家からの援助はまったく無いのも、俺の中でグッと来た」
「……川谷さん、まさか」
「俺はこっちじゃねぇ。気骨のある奴が好きなだけだ」
「そうですか、残念です」
「どういう意味だ」
「知り合いに居なかったので、いたら面白いかな、と思っただけです」
「そうか」
「そうです」
パチチと火が爆ぜる音と共に香ばしい匂いが漂って、ししゃもを食べ終えた皿の隣に焼き鳥が二本、レモンが添えられて出て来た。
ちろっと川谷を見ると、しつこい、今日は奢りだっ! と鬼瓦になったので、ありがとうございます、と律儀に頭を下げて一口食む。
鶏肉は塩……
目を細めて黙々と食べるナミを見て、川谷はぼそりと呟く。
「フェロモンにはこれぐらいの鉄女じゃねぇと御せねぇしな」
「なにか?」
「や、なんでもねぇよ。食いな」
続けて出てきたネギマの甘いネギ汁にまたも目を細めたナミは、ゆっくりと美味い酒と肴を楽しみながら、カウンターに置かれた名刺に目をやる。
〝すずや〟村瀬力
シンプルな飾り文字もない名刺は好感が持てた。
「上野毛なんですね」
「駅からちょっと歩くが、良い所だったな」
行ってみます、とナミは名刺を財布に入れるのを見て、ああ、よろしくな、と川谷は笑ってからりと焼いた鶏皮巻きを二本、今度はカボスを添えてさし出した。
〝すずや〟の二人をずっと書きたいと思っていました。
本編よりも昔の話です。
しばしお付き合い下さい^_^




