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35 それぞれの道

 



 珍しく早起きができた。

 一房だけ広がろうとする寝癖もなく、ゆるいパーマを手櫛で整えられた事に、タエ子は気分を良くする。


 おろしたてのパンプスを履いて、鍵を閉めてから二回、ドアノブをチェック。


 よし。ちゃんとかかってる。


 いつもよりゆっくりとしたテンポで階段を下がって行くと、一階に到着と同時にエレベーターが開いた。


「カエちゃん!」

「タエ子さん!」


 同じマンション内の住人、全ての方を知っている訳ではないけれど、会ったら会釈は交わすもの。そう思ってエレベーターをみると、ひょんな事からゆるくメールでやりとりしている年下の恋バナ仲間、カエちゃんと出会った。

 本人に会うのは久しぶりだ。


「おはよう、カエちゃん! 珍しいね、いつもこの時間では会わないけれど」

「おはようございます、タエ子さん。今日、大学内のオーディションで、時間調整の為にこの時間帯です」

「へぇ、時間調整なんてあるんだ」

「私……つい心配で吹きすぎちゃうので、当日はあまり早めに行かない方が、一番良い状態で臨めるみたいで」


 少しだけ緊張した顔は、いつものカエの柔らかい表情を削いでいて、ピリッとした雰囲気を醸し出している。

 タエ子は一緒に環状八号線と並行する歩道を下りながら、ふーん、とよく分からないなりに頷く。

 音楽の事は分からないけれど、大事な事に臨むに当たって自分のコンディションがどうなるのか分かっているのは、凄い事だ。

 就職面接に近いのかな、とタエ子は薄っすらと自分の事を思い出しながら感心する。


「カエちゃんは自分の事がよく分かっているみたいだから凄い。私はこの歳になってもまだまだだもの」

「タエ子さん、そんな事ないです! タエ子さんはご自分の心にちゃんと向き合って……しかも私にまでアドバイスしてくれて……この間はありがとうございました。いろいろあったけれど、音楽にも彼にもちゃんと向き合えました」


 ぺこりとお辞儀する姿に、いえいえ、もう、そんなの気にしなくていいの、とタエ子は顔の前でぶんぶんと手を振ると、にっこり笑った。


「カエちゃん、良い顔してるから、今日のオーディションもきっと大丈夫だよ?」

「ほんとですか?」

「うん、落ち着いてる。大丈夫」


 タエ子がそう言うと、カエはふーっと大きく息を吐いて、にこっと笑った。


「嬉しいです。タエ子さんにそう言ってもらえると、力になります」


 まだ緊張は拭えないが、少しだけ和らいだ表情に、タエ子は頷いた。


 等々力(とどろき)駅前の踏み切りに着くと丁度大井町行きがくるようで、遮断機が下がっていた。


 カエがあっと小さな声を上げて、遠慮がちに等々力駅のきっぷ売り場近くの制服の男の子に手を振っている。


 茶髪の男の子は、カエにちょっとだけ手を上げると、タエ子の方を見てひょこっと会釈した。タエ子も笑顔で会釈する。


「ふふっ、私の事も知ってるんだ? 嬉しいな」


 タエ子が思わず呟くと、カエはあー、うー、はい、と顔を赤らめて照れた顔をした。

 きっと二人でいろんな事を話しているのだろう。その中にタエ子の話が出たのはとても嬉しい事だ。


「私もカエちゃんの事、話したりしてるから、お互い様だね」

「えっ?」


 カエが驚いた顔をした時に、大井町行きの電車が入ってきた。


「おっと、まずい、乗らなきゃ。じゃ、またね! オーディション、がんばって!」

「あ……ありがとうございますっ」


 カエはきっと何を話しているか聞きたいだろうけれど、この電車を逃すと乗り換えの関係で会社まで走らなければいけなくなる。

 タエ子は遮断機が上がると同時に走り出し、カエちゃんのイケメン彼氏にもう一度会釈をして改札を定期で抜ける。


 駅前の踏み切りに捕まると、走って改札を抜けなければ乗車に間に合わないのが等々力駅のたまにキズな所だ。


 発車ベルと同時に乗り込み、ドア近くの手すりにつかまってやれやれ、と思っていると、ご乗車ありがとうございます、という良い声にビクンッと身体が跳ねてしまった。


 ぶわぶわと顔が赤らんでくるのが分かる。


 そんな風になってしまう自分がたまらなく恥ずかしくて、どうしよう、とにかく顔が見えない所に逃げようか、と車内を見回そうとしたら、うっかり目が合ってしまった。



 笑ってる、絶対笑ってる。



 マイクを片手にすましてアナウンスしているけれど、目だけが面白そうに笑っているのが分かる。


 ケンが大井町線に勤務するのはあと二ヶ月だと聞いた。次に勤務するのが東横線になるとも聞いて、会社に通うのにその線も使うので、この声が聞こえるのは嬉しい、と単純に喜んでいたのだが、付き合うようになって、声を聞くだけで顔が赤らむようになってしまった。


 良い声の、この大好きな車掌さんが、自分の彼氏なのだと思うと、なんだか恥ずかしくて、赤面が止まらなくなってしまったのだ。


 等々力駅から大井町方面に乗り込むと、大概改札から近い最終車両に乗ってしまうので、必然的に車掌室の近くに乗車することになる。タエ子の様子は車掌室から丸見えである。


 タエ子はうう、と思いながら、なるだけ車掌室を見ないようにする。

 きっと今度〝すずや〟で会う時に突っ込まれるだろうな、と思うと、ますます顔を見る訳にはいかない。

 行き道で話が出るならいいけれど、店内で話されると大将と一緒にからかわれるから参ってしまう。

 酒の肴は美味しいけれど、自分が酒のサカナにされるのは勘弁してもらいたい。

 うう、どうしよう、と思っていると、タエ子は大将に言われた言葉を思い出した。

 この間〝すずや〟に行った時に、ケンがトイレに立ったのを見計らって大将がにこにこして言ったのだ。


 〝タエ子さん、もしケンが調子に乗ってたら、黙ってじっと見つめてやれば良いですよ。それだけで十分効きますから〟


 その時は、大将の意図が分からなくて、うーん、そうですか? と言うに留めておいたが、もしかしたら今がその時かもしれない。


(うん、ケンさん、今調子に乗ってると思う)


 タエ子はうん、と頷いて心を決めると、車掌室を見ないようにしながら、すすすっと近づいた。


 九品仏(くひんぶつ)駅を過ぎ、自由が丘駅への乗り換えのアナウンスが流れ出した。お仕事の邪魔をするのは本意ではないので、じっとアナウンスが終わるのを待つ。


 終わってマイクを戻した所でケンを見た。

 ケンも何かあったかとこちらを見ている。

 その真剣な目に、やっぱりダメだと思った。



 やっぱり、好き。

 じっと見つめることなんて出来ない。

 降参。



 そう思って、へにゃりと笑った。



 途端に、車掌さんはガタタッとのけぞった。


 ええ?! 大丈夫?!


 何事とケンを見上げると、ケンは顔を真っ赤にしながら、後でなんちゃら、と早口で何かを言ったみたいだった。


 そしてすぐに制帽を被り直すと、ドアの開閉の為にタエ子の近くから離れる。

 自由が丘に着くのだと思って、タエ子も入り口付近に移動した。


 静かな制動で大井町線が自由が丘に滑り込んでいく。


 あ、もしかして今日は上さんが運転しているのかも。


 等々力駅から乗ってずっと緩やかに動いていく大井町線の運転に、運転手がケンさんとよく組む上原運転士かもしれないと、自由が丘まで来てやっと気づく。


 いつか、上さんともお話したいな、今度ケンさんにお願いしてみよう。ケンさんの事を良く知ってそうな上さんと呑んだら、きっと楽しい。


 そう思ったら、心がくすぐったくなるような嬉しさがこみ上げてきた。


 前を行く乗客と共に少し跳ねるように電車を降りると、ちょっとだけ振り返ってケンを見る。


 ケンはもうタエ子の方は見ていなくて、ずっと先の車両を見据えて乗客をチェックした後、発車ベルが鳴り終わると同時に指差し確認をしてドアを閉めた。


「いってらっしゃい」


 タエ子は呟いて、大井町線が駅からゆっくりと離れていくのを見守る。



 いつも、ありがとう



 そう、車両を見送ると、タエ子はまた、乗り換えの為に少しだけ足を早めて歩き出した。








 完






一年の長きに渡り、大井町を読んで頂きありがとうございました。


思いつきから始まったこの物語が、きちんと完結まで結べたのは、ひとえに読んで下さっていた読者様のおかげです。


更新のたびに声をかけて下さった方、サイレントに読んで下さっていた方、レビューまで書いて下さった方、本当にありがとうございました。


本編完結致しましたが、フェロモン魔人組の番外編を用意しております。

もう少しお付き合い頂ければ幸いです。


支えて下さった全ての方々に感謝を。

ありがとうございました。


なななん

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― 新着の感想 ―
読み終わってこんなに幸せな気分になれたのは久しぶり・・・ 普通の人の何気ない日常のドラマは、昭和生まれの私にとって 昔見ていた「木下恵介」のドラマの様でした。
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