29 上野毛 ーケンー
上野毛の駅を出ると、お互い何も言わずに右に曲がった。ケンは、すずやへの道を同じ道程で歩いていた事に気付いて、その事を話すと、タエ子はそうみたい、一緒だったんですね、とまたあの顔で笑った。
真面目に勘弁して欲しい。
その顔が、俺のツボだとは気付かずに連発するのをやめて欲しい。
最初に会ったすずやの時からそうだった。
この人はたぶん、嬉しくなったら笑うのだ。普段もちょっとした事で笑っているようだが、あの顔はたぶん、本当に嬉しい時に笑うのだ。
無意識に。
こちらの事なんて関係なく、
へにゃりと。
その度ごとに咳き込む振りをするのは、もう限界だった。今日、等々力から上野毛に移動するだけで、何度無防備に笑われたのだろう。
これ、だめだ。
こんな短時間でこんな風に笑うんだったら、絶対ツトムに突っ込まれる。
ああ、くそっ、飯食っていい雰囲気になれたら言おうと思ってたのに、無理じゃねぇか。
ケンはたまりかねて、すずやの店の前で止まった。タエ子も合わせて立ち止まって、少し小首をかしげてこちらを見ている。
すずやの木戸門はまだ開店前で閉じてはいたが、上側の格子戸から店内の淡い光がさして、タエ子を柔らかく照らす。
タエ子の不思議そうな、でも穏やかな表情を見て、ケンはぐっと拳を握った。
「あの、ですね。たぶん、店に入ると、つつかれると思うんですよ」
「つつかれる?」
「ツトムに。あ、ここの店主に」
「あ、はい。大将……」
タエ子はよく分からないのか、ケンの言う事をおうむ返しに繰り返している。
「俺としては、あいつに混ぜっ返される前にはっきりしておきたくてですね。つまり、その、俺があなたにとって付き合う人間に値するかって話なんですが」
「付き合う人間に値する?」
「あー、つまり、あなたは、俺の声だけが好きなんですよね?」
「あっ」
タエ子が慌てて何かを喋ろうとしたのを、いいっす、いいっす。とケンはさえぎった。
「車掌の時と違って普段の俺は、口は悪いわ、デリカシーは無いわ、自分の事しか考えてないわで、まあ、ひどい人間なんです。思った事は口に出してしまいますしね。あー……やべぇ、いいところがねぇ」
喋れば喋るほどドツボにはまっていく気がして、ケンはだんだんと冷や汗が出てきた。
手汗もひどい。何度も手を握っては広げる。
一方、タエ子は一言も喋らない。ただ黙ってこちらが言うのを聞いている。
ケンはじりじりと追い詰められていく気持ちになりながらも、またぐっと今度は親指も手の中に入れて握りしめた。
「まあ、でも、俺としては、きっかけはなんですが、あなたの事を好ましくは思っていてですね。あー……つまり」
何だ、好ましくと思っているとか、情けねぇ。
そうじゃねぇだろ。
ビシッと言え、ビシッと!
鉄道員だろう!
ぐっと唇を引き締めると、ケンは意を決してタエ子をじっと見た後、ぴしっと四十五度のお辞儀をした。
「先日は度重なる非礼、大変失礼致しました。こんな俺でよかったら、付き合って下さい」
中学の時に見た見合い番組みたいに、よろしくお願いします、などと手なんか出せなかった。
そんなの柄じゃねぇ。
男は黙って待つもんだ。
待つ。
……長ぇ。
自分なりに最上の告白をしたものの、そのまま顔を上げられずにだらだらと冷や汗だけが顔を伝っていく。
タエ子はしばらく黙ったままだった。その間に生温かい風がさぁと吹き、後ろの方でカランカランと空き缶が転がる音がした。
うあ、だめか。
余りにも声も無く、身じろぎをしないタエ子の様子を察して、どうする、冗談とは言えねぇし、今日はもうここで解散して俺は帰るべきか? あー、やっぱ素の俺じゃだめか。やべぇ、へこむどころじゃねぇ。と目の前が真っ暗になった時、コツン、と黒のショートブーツが見えた。
次の瞬間、ふわりと甘い香りがして、タエ子がしゃがんだ。
こちらを柔らかな顔で見上げている。そして、ちょっと目を細めた後、唇がふわりと緩んで、ケンの息の根を止めるへにゃりとしたと笑顔を満面にさらして笑った。
そして小さく、私もです、と言った。
「え?」
「ケンさん、しゃがんで貰えますか?」
「あ、はい」
こわれてそのまましゃがむと、タエ子は一瞬目を伏せて、すぐにまたそのつぶらな瞳をこちらに向けて微笑んだ。
「私もケンさんに……失礼をしました。申し訳ありません」
タエ子はしゃがんだ膝の上に両手を重ねて、ぺこりとお辞儀をした。
「勝手に憧れて、否定されたら怒って出て行ったりして、もう、子供みたいで」
「あ、いや、それは俺が悪いので。すみません」
「いいえ、 なんて言ったらいいのか……一面だけみて憧れられても、困っちゃいますよね」
「あー、まあ、そうとも言いますが。でも、いいきっかけにはなりました」
「あ……」
暗に出会いのきっかけなった、と言うと、タエ子はぱぁっと頬を染めた。それを目の前でやられたものだから、ケンは仰け反りそうになる。
タエ子はそんなこちらの動揺は知らずに、さらに顔を赤らめながらこちらを見て、きゅっとその小振りの唇をつむってから、あの、と言った。
「私、最初は憧れだったし、声もそうですけれど……車掌さんとしてのケンさんが好きだったのです。それは否定しません。
でも、今は、ちゃんとケンさんが好き、だと、思います」
「だと思います」
「だって」
ケンが思わず語尾を指摘してしまうと、タエ子はその小振りの唇を少しだけ前に出した。
「まだ、車掌さんではないケンさんとお話をするの、今日が初めてですし」
「や、前にもここで」
「そうですけれど、そうなんですけれど、もう、ケンさんって、揚げ足取りさんなんです?」
「すみません」
もう、と怒った風の顔が眉を八の字にして苦笑する。
「そういうのも含めて、付き合って下さい。
私、ケンさんの事、知りたいです」
タエ子はにっこりと笑って言った。
自然に、まるで時候の挨拶みたいに。
ケンは一抹の不安がよぎった。
これは、もしかして、友達からって奴なのか? それは俺は無理なのだが。上さんじゃないけれど、その日のうちにひん剥く事はしないが、俺、友達としては、見れねぇぞ。
「あの、俺、友達としては付き合えないんですが、いいですかね」
ケンはそこだけは確認を取りたかった。
鉄道員の性だ。
視認、確認、行動。
承認を得ねば、行動に移せない。
タエ子はさすがにこちらの意図が分かったのか、みるみる内に首元まで真っ赤になった。
「あの、その、そのように……ケンさんと同じで……お願いします……」
最後は蚊の鳴くような声で応答した彼女に、思わず手が伸びそうになった所で、あの〜 と声がかかった。
ばばっと二人、横を向くと、村瀬さんが申し訳なさそうに木戸の向こうから声をかけてくる。
大変申し訳ないのですが〜 看板を出したくて〜 そろそろよろしいでしょうか〜
「はい! もちろんです!」
「すみません」
ささっと立ち上がって木戸に向かって返事をすると、かたん、と戸が開いてエプロン姿の村瀬さんがにっこりと出迎えてくれた。
いらっしゃいませ〜
そして、小さな看板の木戸の前に置き、さっと戻って店内への戸を開けると、中に通る声で告げた。
ご予約二名様、入られま〜す
「いらっしゃいませ」
中から大将の良い声が聞こえた。
ケンは気まずそうに首に手を当て、入りますか、と隣に声をかけると、タエ子はくすぐったそうに笑って、はい、と言った。
う、と声を上げそうになり、慌てて横を向き、ごほっと咳き込む。
大丈夫です? 本当に、風邪じゃないです? とまた心配そうにのぞき込むので、大丈夫、大丈夫、と気休めにもならない言葉を言って、厨房で肩を震わせている奴に睨みをきかせながら、どうぞ、と先にタエ子を入らせる。
カウンターにはもうすでに青い小鉢のおとおしが二つ仲良く並んでいた。
並んで座るの、初めてだな。
嬉しそうに予約席に座るタエ子を眩しく見つめながら、ケンはタエ子の隣にゆっくりと座った。




