27 大井町〜自由が丘 ータエ子ー
タエ子は走って大井町駅の改札を抜け右に曲がり、ダダダと階段を降りてすぐの太い柱に身を隠す。横断歩道を渡って来た人がちらりとこちらを見たけれど、関係ない。
たとえ表通りからは丸見えであっても、今のタエ子にとっては気にならなかった。
駅員に、あの人にさえ、見られなければ。
柱に背中を付けて、息が整うのを待つのだが、心臓がどっどっと、どんどんせり上がってくるようで、タエ子はシャツの襟元をクシャッと掴んだ。
「うそ……」
柔らかい声が、がらっと変わった。
眼鏡は……かけていなかったけれど、あの顔は、あの少しだけ掠れた低い声は。
「うそぉ……」
信じられなくて今度は前髪をくしゃりと掴むと、カバンの中でメールの着信音が鳴った。
タエ子はビクッとしながらも、携帯を開けると、新着メールの文字。震える親指でカチ、カチ、とメールを開ける。
件名 すずや
タエ子様
先程は失礼致しました。
また、先日は申し訳ありませんでした。
お詫びに食事を。
今週末の土曜、午後7時、等々力の駅にてお待ちしております。
片桐ケン
ケン、と書かれた画面を食い入るように見た。
すずやで大将に紹介された時、あの人はこちらの顔を見なかった。
ぶっきら棒に飲んでいて、大将が車掌さんに声をかけて見たらと言ったら、わっと話し出したのだ。
仕事の邪魔をするな、って。
迷惑だって、って。
なのに……
どうゆう事? 同じ職種だから怒ったの?
まって、あの人は、いつからすずやに居たの? もしかしてあの時が初めてじゃないの? まってまって、それよりも何よりも……
タエ子は今日の自分の行動を思い出した。
私が、あの人の事、好きだって、分かった、よ、ね。
ぶわぁぁと顔の熱が上昇した。
「あーーーーどうしよう!!」
今更違うなんて言えな……え? 違う事はな……い?
タエ子の頭の中で車掌さんの顔とすずやで見たケンという男の顔がぐるぐると回る。
どちらも同じ人なのに、全然印象が違う。気持ちが、追いついていかない。
ブルブルブルと携帯が震えた。
ひっ、と慌てて画面を見ると、アラームだった。会社に戻る時間を逆算してこの時間にかけてあったのだ。
「と、とにかく戻らなきゃ」
慌てて大井町のきっぷ売り場に並ぶ。
タエ子の定期は自由が丘までだから、大井町から自由が丘までのきっぷを買って、改札に向かったら、丁度、あの人と運転手さんが並んで控え室から出て来る所だった。
タエ子は慌てて身体を返して、またきっぷ売り場の横の端に隠れる。
「なんで今からの電車!」
休憩がこんなに短いだなんて聞いた事がない、と思うのだが、駅乗務員のシフトなど、一般のタエ子が知るはずもない。
左腕の腕時計を見ると、この電車を逃すと確実に午後の出社時間に間に合わなかった。
「あーーーー!! もう!!」
ばっと改札を通ると、ダダダと走る。
発車のベルが鳴った。
最後尾の車内に、なんとか駆け込んで入ると、車内アナウンスが入った。
「ご乗車ありがとうございます、この電車は二子玉川行きです。お客様にお願い申し上げます。ご乗車の際の駆け込み乗車は、大変危険です。お客様のお怪我にも繋がりますので、お控え下さいますようお願い申し上げます」
いつもより丁寧かつ長い注意のアナウンスに思わず車掌室を見る。
すましてさらにアナウンスしているが、明らかにいつもより声のトーンが違う。明るいというか、笑いぶくみというか!
ばちっと目が合うと、車掌は笑ったように目を細めた。
タエ子はぶわぁぁと顔が赤くなる。
なにその顔……なにその声……
やだやだ私が好きな車掌さんなのに
やだやだ私の好きな声なのに
中身、あの人なの?
タエ子は慌ててうつむき、車掌室から見えないように左手で顔を隠すように手すりを持つ。頬のほてりが止まらない。
なんで赤くなるの?
なんで??
アナウンスは相変わらずタエ子を魅了する声で続き、混乱の中、自由が丘に着いたのでそそくさと降りた。
走り去るように東横線に乗り換えて出社し、午後の仕事には間に合ったが心ここにあらず。同じデータを何度も見直しているタエ子の様子を見た上司が、体調不良と見なし、定時帰すがきっちり休んで明日には今日の分も取り戻せるように、と一言苦言をつけて帰してくれた。
帰宅の電車にはケンとかぶらず、安堵しながらふらふらと自宅に帰り、ケトルに火もかけずにキッチンの椅子に座る。
携帯の返信画面を出して、書いては消し書いては消し、何度も繰り返した後、やっとの思いでカチカチとメールを返す。
件名 すずやの件
片桐さま
ご連絡ありがとうございました。
土曜日、よろしくお願い致します。
工藤タエ子
送って数分後、すぐにこちらこそよろしくお願いしますと短い返信が来た。
ただそれだけで顔が赤らむ。
「うう……」
本当の所どうしたらいいのか分からないまま、タエ子は携帯と共に机の上でつっぷした。
****
土曜日までの数日間、タエ子は毎月やってくる伝票と金額を合わせてデータ化する仕事のピークと重なり、幸いな事にあまり余計なことを考えず、仕事に追われる事で平静を装って金曜日の夜を迎えた。
たまには飲みに行かない?という同僚の誘いに、まだ体調が戻ってなくて、ごめんね、と丁寧に断って帰路につく。
体調なんかとっくの昔に戻っているけれど、土曜日の事がチラついてそれどころじゃない。
乗り換えの自由が丘に降りた時、あ、服、と思わず改札を出て小さなお店を見て回ったが、ぴんとくるものは無くて、とりあえず明日の朝ごはんにフォションのお店で硬いクルミの入ったスティックパンだけを買ってまた駅に向かう。
「や、大丈夫よ、デートって訳ではないし。
私としては事情を知りたい気持ちの方が大きいに……決まっているし」
ぶつぶつと言い聞かせて駅に入ってきた二子玉川行きの電車に乗ると、車内アナウンスにまた顔が赤くなった。
な、なんでまたあの人の電車にかち合うの?
聴きたいと思っていた時には全然会わなかったのに……
もう聞き分けられるようになってしまったタエ子の耳には正しくケンの声は入ってくる。
タエ子は車両の前から二番目に乗ったので直接ケンに顔を見られた訳ではないのだが、ぶわぶわと赤くなっていく自分の顔を必死でいましめた。
落ち着いて、落ち着くの!本当にあの人の事を好きだなんてまだ決まってない。
「次は〜等々力〜 次は〜等々力〜」
相変わらず柔らかくて、優しくて、心地よすぎる声。喋る声と違ってワントーン少しだけ高く、それなのに金切り声じゃなくて、タエ子は初めて聞いた時から、あ、と顔を上げていいな、と思ったのだ。それ以来ずっと心に留めていて。
その声…… 本当に反則……
どう、否定してもタエ子の耳はケンの声を拾う。そして聞けて嬉しいというどうしようもない心を灯し、今は顔に赤らみまでつけてくる。
等々力に着いて乗客と共に降り、タエ子は通勤カバンをぎゅうと握って改札へ歩く。発車の合図と共に車両が動き始め、タエ子の左側を滑るように走っていく。
意識しない意識しない。
あの人は私が乗っている事なんて気がついていない!
まるで中学生のようにドキドキしてしまう胸に勘弁してと右手で叩いていると、残暑がまだ残っている生あたたかい風とともに、ブワッと車両が通り過ぎていった。
あの人が車掌専用の小窓から少しだけ顔を出し、まっすぐ行き先だけを見て通り抜けていく。
タエ子の胸がドクッと鳴った。
右手はもう、叩かなかった。




