26 等々力〜大井町 ータエ子、ケンー
翌朝、タエ子は少しだけ早く起きた。
仕事は半休を取った。私事で休みを取るなんて、とも思ったが、たぶん、ここが大事な所だとは自分でも感じていた。
半休にしたのは、どちらに転んでも午後には仕事で通常通りに頭が動くように。
泣かないように、保険だ。
朝食はおにぎりとお味噌汁で手早く食べた。
後で仕事に行くからお化粧も仕事用にきっちり。顔を触った手が冷たかった。緊張してる。
出かける前に、キッチンテーブルに置いてある手紙を取ってカバンの中に入れた。
時間が無くてゆっくり話せないから、このご時世にラブレター……
そう思うと気持ちが萎えるのだが、タエ子はきっと軽くウエーブした髪をかき上げる。
「いい、渡すだけ! お礼に、食事でもと言えなくても、これを渡せば! ……あとは野となれ山となれ!!」
ガチャっとドアを開ける。鍵をキチンと閉めて、タエ子は思わず走り出した。
昨日の、カエみたいに。
****
等々力の駅につくと、とりあえずまだ電車は来ていなかったので駅の中程まで歩いた。車掌室から見える最後尾に乗る勇気はさすがになかった。それに、どの電車に例の車掌さんが乗っているか見当もつかなかったし、一先ず大井町まで乗って待っていようと思った。
駅のアナウンスが入って、大井町行きの電車が入ってくる。タエ子は電車のベンチの近くのポールを掴んだ時だった。
「ご乗車、ありがとうございます」
ドクッと胸が波打った。
「この電車は大井町行きです。各駅に停車いたします」
次は、尾山台といっているだろうが、動悸が激しくて聞こえてこない。
落ち着け、深呼吸だ!
まだ会ってもいない、顔も見てもいない。
まだ、渡すのは、あと何十分も後の大井町。
胸に手を当てて、ゆっくりと深呼吸する。
動揺している間に、九品仏も通り過ぎて自由が丘に着いた。人がごそっと降りる。
タエ子の近くの乗客が降りたので、タエ子は座席に座った。
昨日くったりと座った座席に、今日は緊張で気分が悪くなりそうになる。
何か、何か気を紛らわさないと…
ふと思い出して携帯を取り出し、ぱかっと開けてカチカチとボタンを押すと、昨日連絡先を交換したばかりのカエからのメールをもう一度見る。
昨日は長いメールを、そして今朝は短いメールをくれた。
タエ子は眉をハの字にして困った顔で笑う。
カエちゃん、優しいね。
タエ子があのマンションに引っ越して次の年に理事を一緒にやったご縁で、山本家とは懇意になった。カエの母である陶子さんとはよく話したが、いつも習い事で忙しい高校生のカエちゃんとは二言三言話すぐらいだった。
大学生になったら少しだけ会話も増えて、彼氏いないの? いないですよ、なんて事も気安く話すようになってはいたが。
「まさかカエちゃんと恋バナして、しかも背中まで押してもらえるとは……」
あどけない感じだったカエちゃんは恋をして綺麗になった。気遣いのメールをくれる程、大人になっていた。
そして勇気を持って行動できる芯の強い女性に、これからなっていくんだろうな。
自分をかえりみてうらやましくも思ったが、でも勇気を貰った。
今からでも、遅くない。
一歩踏み出して、当たって砕ける。
それでいい。
何度も繰り返した呪文をまた唱える。
電車はいつの間にか戸越公園を抜けて、下神明に向かっていた。あと一駅過ぎたら、大井町。
ドクッ ドクッ
また動悸が早まってくる。
静まれと思っても静まる訳がない。
ふーーー……
ああ、着いて欲しいような着いて欲しくないような。
「次は〜大井町……」
いい声が終着のアナウンスをしている。
JRへの乗り換えもアナウンスするので、所用で大井町まで乗るときにかち合うと、いつも最後までアナウンスを聞いてから立ち上がって降りていたのだった。
電車が大井町駅に滑り込んだ。
扉が開く。次々と降りていく乗客を見ながら、タエ子は座って、車掌を待った。
****
ケンは大井町に到着して規定の所作をすると、急いで車掌室から出た。
タエ子が等々力から乗った姿が見えたのだ。
そしていつも降りる自由が丘で降りた気配がなかった。
車掌室から目を凝らしながら車内を見るのだが、座っているようで姿が見えない。
もしかしたらまた体調を崩したのかもしれない。
杞憂かもしれない。自由が丘で降りたのかもしれない。しかし昨日のぐったりとした姿が頭から離れなかった。
今日も倒れていたら、もしかしたら深刻な病気かもしれない。二日も連続して倒れるのであれば……
はやる気持ちを抑えて、忘れ物落し物がないか素早くチェックしながら足早に歩く。
遠目に、座っているタエ子が見えた。
顔色は見えない、俯いている。
「……っ!」
もはや我慢は出来ずに走った。
「大丈夫ですか? また具合が?」
お客様、と声をかける事も忘れて顔を覗き込む。
「あ!」
タエ子は思いの外大きい声をだして、だ、大丈夫です。と言った。顔が異様に赤い。
「熱? 顔が赤い」
さっと額に手を当てて測る。本当は越権行為だが、そんな事知るものか!
大丈夫なのか。熱なのに出てきたのか。
タエ子はまたさらに顔を赤らめて、あの、大丈夫です、あの、お話があって、と小さな声で言った。
片膝を付いているケンは、話? と見上げる。
タエ子は意を決したように言った。
「あの、昨日はありがとうございました。おかげで一晩寝て回復しました。それで、あの、とても、ありがたかったので、あの、お礼に、あの……しょ、食事でも……」
ケンはぽかんとタエ子を見た。
顔を真っ赤にしているのは、熱ではなかった。
目が潤んでいるのも、熱ではなかった。
唇が震えているのも。
「なんだよ、びっくりさせんなよ……」
「え?!」
急にぞんざいな言葉になったケンに、タエ子は目を丸くする。
「ああ、びっくりした。また昨日のように倒れたかと思った。心臓に悪いわ」
「しゃ、車掌……さん?」
「お礼? お礼に食事? いいですよ? すずやでよかったらいつでも行きますよ?」
「え? え? なんですずや知って……」
タエ子は呆然とした後、ゆっくりと、じっくりと、車掌の、ケンの顔を見た。
「……ああっ!!」
タエ子がやっと気付いたので、ケンはにっこりと自分を取り戻した。
「お客様、大変申し訳ないのですがこの電車は折り返し運転の為に一旦下車して頂くことになります、お降り下さいますでしょうか」
「は、い……もち、ろん」
「そして大変失礼ですがご連絡先等を書いたメモなど頂けましたら私からまた折り返しご連絡させて頂きますが、ありますでしょうか」
「あ、はい、お忙しいと、思って、かいて……き、ました……けれど……」
「頂けますか? それとも、俺じゃ駄目ですかね」
最後の素のしゃべりに、タエ子はぷるぷると震えてしまう。でもにっこり笑っているのは紛れもなくタエ子の好きな車掌さんで。
タエ子はカバンに手をつっこむと、バシンと手紙をケンに渡した。
「ありがとうございます、お客様。そして勤務中にこのような行為は本来致しませんので、出来ればご内密に」
にやりと笑った車掌に、タエ子は耐えきれなくなったのか、ばっと立つと、ただっと車内を駆け抜けて降りた。
ダダダっと走って改札を出て行くのを見送ると、ケンは小さく拳をよっしゃ、と握った。
「元気になったようだな」
背後から上さんの声がした。
ケンは上さんと並んで歩き出しながら、その様です、と短く言った。
「進展あったか?」
「報告しませんか?」
「状況による」
「……」
「冗談だ。ほれ、言え」
「連絡先、頂きました……っいって!」
頂きました、と同時に上さんからひじ鉄を食らった。
「よし、会って……」
「いやっ、流石に会ってその日には……いってぇ!」
「当たり前だ」
「いや、上さん、前に蕎麦屋で」
「あんな可愛いお嬢さんにそんな事したらば、俺が親でもぶん殴る」
「いや、上さん……棚上げっすよ……ってぇ!」
車掌の引き継ぎを待ってでもひじ鉄をしたかったのか、とにかく駅控室に行くまでに何度もひじ鉄を食らった。乗客に見えない様に裏を狙ってやってくるのでタチが悪い。
肋骨折れたらパワハラで訴えますよ!
と言うと、折れとけ、といい顔をして言われた。
まったくいい鉄道員である。




