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25 等々力 ーカエ・タエ子ー

 

 お邪魔させて頂いた部屋は、カエが住んでいる部屋とは少し違ってまっすぐに廊下があってリビングダイニングだった。


 ふわっと香る香水ほどではない良い香りに、カエはドキドキする。

 カエの背丈ほどの観葉植物があったり、ブラウンの追いついた色調で固められたローテーブルローソファー、キッチンに寄り添うようにつけられた机も椅子が二人分なのが、わぁ……と胸が踊る。

 そこには、カエが一人暮らしを想像した理想の部屋そのものが存在していた。


 ここに座って、といって案内されたのはローソファーの方だった。お見舞いに来たのはカエの方なのに、何だか自分の方が癒されていく。


「ハーブティ飲める? ローズヒップティーだけど」

「はい、嬉しいです」


 タエ子は先ほどの気弱そうな顔から少しだけ元気そうな顔になっていた。たぶん、誰かと一緒になると少し自分を取り戻せるのだろう。カエもそんな所がある。カエにはナズナがそんな存在なのだが、今日はナズナはレッスンの日で、レッスンの後は決まって先生と打楽器研究会の仲間たちで飲み会に行ってしまうので、相談しようにも出来なかった。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 タエ子はカエにティーカップを渡すと、自分は湯飲みに緑茶を淹れてきてカエが持ってきたおじやを温めなおして持ってきた。


「ごめんね、私、食べさせてもらうね」

「どうぞどうぞ」


 木のスプーンではふはふと食べるタエ子を見て、カエはほっとする。母から何も聞いていなかったから、なぜタエ子がこんな状態なのか聞いていいか迷った。確か数年前にマンションの理事を一緒にやってからの付き合いだといっていたけれど、タエ子がこんな風に弱った所を見せたのは初めてだった。


「ああ、美味しかった! ごちそうさまでした」


 ゆっくりとだが、完食をしたタエ子に、よかったです。と微笑んでローズヒップティーをまた一口飲む。それでも心配そうな顔が出ていたのだろう、タエ子の方から苦笑して、ごめんねカエちゃん、と言った。


「心配かけちゃったね」

「いえ……でも、珍しいな、とは思いました」

「病院から帰ってきた所に、陶子とうこさんと鉢合わせてしまって」


 マンションの玄関でいつもは居ない時間にいるタエ子に後ろから声をかけたのはカエの母の陶子だった。あれ? タエ子さん? と顔を覗き込まれて、あ、こんにちは、といったらもう体調が悪いのを看破された。

 問答無用で今日起きた事を言わされると、とにかく寝なさい、という事と、後からスポーツドリンクと経口補水液を買ってきてくれて、とにかく少しずつでも気がついた時に口に含んで、と言われて夕食時におじやを持っていくから、と約束してくれたのだという。

 カエの母は元来おせっかいな気はあるのだけれど、タエ子は特別なのだろう。ほら、三階のタエ子さんが、と今でもたまに食卓で話題になる。


「昨日、一昨日と余り眠れなくてね。体調崩しちゃった」


 あは、っと苦笑して笑うタエ子に、カエも、私は……私も、今日、眠れなさそうです、と思わず言ってしまった。

 え? カエちゃんも? とタエ子が驚いた顔をする。

 カエは、あ、と一瞬おし黙った。

 それを見たタエ子が、眉をハの字にすると、じゃあ、今日は話し合いっこしようか、と言った。

 えっ、と顔を上げると、私も、聞いて欲しくなっちゃたな、とタエ子はにっこり笑った。



 ****



「大井町線の車掌さんの声が好きだったの」

「大井町線の」

「その人の声色こわいろっていうのかな、優しくて耳に心地よくて、仕事の行き帰りに、その人の電車にかち合うとラッキー、みたいな」

「ふふっ」

「笑っちゃうでしょう? 私にとってはアイドルみたいなものだと思ってたの、密かな楽しみ、みたいな」

「ええ、分かります。耳障りな声の人もいれば、優しい円やかな声の人もいますよね」


 そう!私が好きな車掌さんはね〜


 優しくて〜

 温かくて〜

 柔らかくて〜


 タエ子は歌うように言った。


「でも、この間ある人に言われちゃって」

「え?」

「行きつけの飲み屋の大将にね、そんなに好きなら声かけたらって背中を押されたのね。でも私……尻込みしちゃって。煮え切らない態度を取ってしまって、そうしたら……言われちゃったの。たぶん、本気じゃないなら仕事の邪魔をするな、みたいな事を」

「大将にですか?」

「あ、ううん、大将の友達って人に」

「厳しい言葉……」

「そうね、本当に。でも、その通りだな、とも今は思えて、どうしようかな、ってね」


 タエ子は冷たくなった湯呑みを持って苦笑する。


「その人に言われてカッとなってお店飛び出しちゃったんだけど、気付かされたというか、何というか……かなり、好きみたいだったのね」

「タエ子さん、あきらめるの、です?」


 カエは気付いていた。タエ子がずっとその車掌さんの事を過去形で言っている事を。


 タエ子は、んー……と苦笑してくぴりと冷え切った苦い緑茶を飲んだ。

 実は、とタエ子は今日の出来事を話した。


「じゃあ! お話出来たのですね!」


 カエが目を輝かせて言うと、


「ううん、ほとんど何も。体調悪かったし答えられなくて」

「そう、ですか……」


 自分の事のようにしゅん、となったカエを微笑ましく思いながら、タエ子は少し笑って言う。


「駅で寝させてもらって、救急車が来て揺さぶられて起きた時、彼、居なかったのよね」

「お仕事ですから……」

「そうね。でも、少し……期待してしまって。……バカみたいでしょ? 告白もしていないのに」


 タエ子の自嘲にカエはふるふると首を振る。


「お仕事、なんだよね……」


 タエ子は呟くように言った。

 タエ子の好きな人は、車掌さんで、お仕事でタエ子を駅の控え室に連れて行ってくれただけで。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 だだの乗客。


「っタエ子さん!」


 カエの大きい声にタエ子ははっと顔を上げる。


「タエ子さん、好きなんですよね、まだその車掌さんの事、好きなんですよね」

「あ……」

「好きなら、好きって言わないとだめです!」


 カエが、顔を真っ赤にして言った。


「私、今付き合っている人がいます。その人との出会いも大井町線で……偶然が重なって、会えていたのですけれど、いざ、自分が行動を起こそうとした時に、全く会えなかったんです。私、恥ずかしいのと、何となく会えるかもと思って、連絡先交換してなくて……」


 何週間も大井町線の車内を見た。ショウゴくんがどんな顔をしてたかも、俯いてばかりでしっかり覚えていなくて、ジーパンに手をかけた腕とか、黒い携帯とか、そんな事ばかり覚えていて。

 あの等々力の駅で、途方にくれて座った時の、寂しさったらなかった。

 何で連絡先交換しなかったの、って、すごく、すごく後悔したのだ。


「私はまた偶然会えましたが、ナズナちゃんが、私の親友が言ってくれたんです。

 東京には何千万人の人がいて、昨日会えたからって今日も会えるとは限らないんだよって。だから、ちゃんとええっとつかまえなさい、みたいな事を言ってくれたんです」


 タエ子はじっとカエを見た。


「今日、私、少し辛い事があって、その原因は、彼との付き合い方が原因だったりして……その事、言うの怖いな、って思って……まだ、今日電話出来なくて……電話くれても、言えなくて取れなくて……」


 カエはきゅっと両手を自分の胸の前で握った。


「でも、逃げていてもどうしようもなくて、正直わたしにはお付き合いって無理なのかなって頭によぎったのですけれど……でも、別れるの、やなんです……」


 ぎゅうっと爪が白くなるまで握られる。


「やっぱり、好きなんです。フルートも好きです、でも、ショウゴくんも好きなんです……」

「うん、それを、伝えなきゃね」


 タエ子の温かみのある声に、カエは顔を上げた。

 タエ子がにっこり笑っている。


「カエちゃん、分かったよ」

「え……」

「私も伝えてみる。……車掌さんに」

「タエ子さん!」

「うん。だから、カエちゃんも、伝えるんだよ? ちゃんと、自分の気持ちを包み隠さず」

「……はい」

「……怖いけれどね」

「怖いです」

「私も」


 カエとタエ子は笑い合った。


「決戦は明日」

「私は……今夜」

「お、攻めますね、カエちゃん」

「この気持ちのまま行かないと、たぶん私、萎えちゃうので」

「そうね、それがいいと思う」

「ありがとうございます、タエ子さん」

「こちらこそ、勇気をもらいました。おじやも、ありがとうございます、カエちゃん」


 じゃあ、また明日連絡します、と言ったカエに、タエ子は連絡先交換しよっか、と言った。

 はい! と嬉しそうに頷いてポケットをパタパタすると、何もない。


「すみません、忘れて来たみたい」


 しゅんとしたカエに、タエ子は笑ってメモに自分のアドレスと携帯番号を書いた。


「空メールでいいから」

「いえ、ちゃんとメールします。……決戦の後に」


 ぐっとアゴを引いたカエに、ん、頑張れ!とタエ子はエールを送って見送った。

 パタンとドアが閉まった後に、パタパタパタと走り去る足音を聞く。


「頑張れ、カエちゃん。私も頑張る」


 タエ子はそう呟いて、ドアに鍵をかけた。




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