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24 等々力 ーカエー

 

 カチャンと鍵を閉めて靴を脱いでいると、リビングの方から、おかえりー、という声だけがした。カエは、ただいま、とぽつりと言う。

 いつもは真っ直ぐリビングに行くのだが、今日はそんな気分にはなれなくて、玄関のすぐ脇にあるピアノ室に向かう。サイドボードに楽器を置くと、ピアノの椅子に腰かけた。

 行儀が悪いがピアノの蓋に両腕を置いて突っ伏す。カエは重いため息を吐いた。





 ************





「はい、止めて」


 一曲目の半分も吹いたか吹いてないかという所だった。


「山本さん、今週は体調でも崩した?」

「いえ、そんな事は……」

「そうですか」


 カエはフルートを胸の所で持ち、少し俯きがちに中村先生の言葉を待った。練習不足を指摘されている。

 今週末はデートに行ったり、平日でも夕方に電話をくれたりして、練習で取れない時でも不在着信に気付いたらすぐ電話してしまって、練習棟が閉まる時間まで話してしまった。

 ショウゴとの時間を優先するがあまり、練習時間を削ってしまった。

 先生は多分、それに気付いている。


「山本さん、以前に僕が恋をしなさい、と言った事は覚えていますか?」

「あ、はい……」


 突然の話題に顔を上げる。

 入学して間もない頃、中村先生との3回目のレッスンの時に今の様に突然言われたのだった。

 第二志望で滑り込んだこの大学には、カエが受験生時代に師事をしていた先生は居なく、この先生なら間違いないから、と紹介されてついたのが中村先生。

 物腰の柔らかいおじいちゃん先生で、カエは一目で好きになり、以来全幅の信頼を寄せてレッスンに臨んでいる。

 その時、中村先生は、沢山とは言いませんが、あなたは恋をした方がいいですね。と言われたのだ。

 レッスンには全く関係のない話で、ぽかんとしてしまったカエを見て、優しく微笑むと、中村先生はまた普段通りにレッスンを開始したのだった。


 中村先生は、あの時と同じように優しく微笑んでいる。


「音色が豊かになっています。良い出会いがあったかな? しかし、いかんせん練習不足が否めない。自分でも分かっていますね?」

「はい、すみません」


 しゅんとするカエに、中村先生は笑みを深くすると、


「僕は痛くも痒くもありませんよ? 謝るのなら、あなた自身に謝る、と言った所でしょうか。今日のレッスンはお終いにしましょう」

「え」

「今のあなたの吹く音楽はレッスンに値しないので、今日はもう帰ってよいですよ?」

「あの!」

「お帰りなさい、そして、時間の使い方について、自分とよく相談しなさい」


 中村先生はそう言うと、こちらに背を向けて机で書き物をし始めてしまった。


 カエは震えながら楽器を片付けると、ありがとうございました、と蚊の鳴くような声で挨拶をした。

「はい、また来週ね」

 中村先生は頷いてそう、応えてくれた。


 防音になっている重い扉をガチャンと閉めると、ぶわっと視界が揺れた。


 ダメ! こんな所で!


 カエは足早にレッスン室の前を通り過ぎ、階段を降りていく。終始俯いて練習棟の自分が取り置きした個室の練習室に駆け込んで扉を閉めると、せきを切ったように涙が溢れだした。


 悔しかった。

 自分が情けなくて、情けなくて、ぼろぼろと涙が止まらない。

 嗚咽を漏らしながら、楽器を組み立てていく。いつもはすぐに入る末端と胴体の部分がカチャカチャと音を立てた。

 震えながらそれでも入れていく。

 一番大事なマウスピース……ここだけは、息を止めて、楽器が震えでぶつからない様に入れた。


 泣きながら、吹く。

 音なんて、途切れ途切れだ。

 それでも、吹く。

 ワンフレーズだけ、何とか吹いた。



 ……意味が無かった。

 こんな音を吹いたって、意味が無い。



 カエはフルートをアップライトの上に置いた。

 そしてピアノの蓋につっぷす。


 嗚咽を殺して泣いていると、着信音が鳴った。

 はっと顔を上げ、カバンに手をかける。


 音だけで、誰から来たのか分かる。

 機械音の中でも、カエが一番好きな音。


 すがるように手に持って……

 でも、携帯を開けることが出来なかった。



 となりではサックスが気持ち良さそうに音を奏でている。

 携帯を持ったまま、ただ泣いた。

 泣き切るまでは楽器が吹けない事を、初めて知った。



 結局、ろくに練習出来ずに片付けて、練習室を探してちらちらと小窓を覗き込む他の学生に譲る。ただ座っているだけのカエに、練習室を使う資格などない。


 足取り重く練習棟を出ると、演奏会ホールの前のベンチが目についた。


 ショウゴくんと初めて携帯番号を交換した場所……


 ぎゅっと肩にかけたカバンを握る。


 今、携帯を触ったら、絶対に電話してしまう。そしたら、私は……


 カエはきゅっと唇を噛むと、俯いて足早に正門へ向かった。




 ****




「カーエ! ちょっとお願い!」


 廊下から声がする。

 防音になっているにも関わらず聞こえてくる母の声に、のろのろと身体を起こした。


 力無くドアを開けると、電話の子機を肩挟んだ陶子が小さな片手鍋を持って敷物と共にカエに差し出している。


 これをどうすればいいのか、と陶子の顔を見ると、ええ、分かった、と陶子は電話口の相手に言っていた。その砕けた口調に、電話の相手は父だなとぼんやりと思う。

 なかなか受け取らないカエに痺れを切らして、陶子は、ちょっと待ってね、と断ってカエに片手鍋を押し付け、

「303号室のタエ子さんの所に持っていって、お願い」

 と早口に言った。


 戸惑っていると、早く! 冷める! と陶子が口パクで言ってくるので、カエは押し切られるように玄関を出た。

 エレベーターまでの廊下を歩きながら透明な蓋の中を覗き込むとおじやが入っている。


(タエ子さん、病気……?)


 緩んでいた足を早める。

 この階に止まっていたエレベーターに乗り、三階を押した。

 開くと同時に少し小走りになった。



 タエ子の部屋は奥から三番目、見慣れたインターホンを押すと時間がだいぶ経ってから、はい……と掠れた声がした。


「あの、801号室の山本です。母から頼まれて、お届けに上がりました」


 初めて訪問するタエ子の部屋の前で少し緊張しながら声をかける。

 あ、少しお待ち下さい、と声が切れると、しばらくしてカチャリと音がしてドアが開いた。

 青い顔をしたタエ子が微笑んで迎える。

「ごめんね、カエちゃん。配達させてしまって」

 チェックのパジャマに水色のカーディガンを羽織ったタエ子は、カエから片手鍋を受け取ると、嬉しそうに中を覗いた。

「わ、美味しそう……」

 そう言ったタエ子は、少し黙った後、ねぇ、カエちゃん、と少し眉をハの字にした。


「もし時間があるのだったら……少しだけお茶していかない? 今日は誰ともお話していなくてね」


 少し寂しかったのよね、と苦笑して言った。

 こんなに弱ったタエ子を見たことが無くて、カエはもちろんです、と頷いた。





(大変、大変、お待たせしました。大井町、再開です。またよろしくお願い致します)

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