22 〝すずや〟後
からからと戸を閉める音。
ありがとうございました〜
お気を付けて〜
戸の向こうから村瀬さんの声が聞こえる。
やがて、かたかたという音と共に、静かに戸が開き暖簾と共に村瀬さんが入ってきた気配がした。
見てはいない。
ケンはカウンターで突っ伏している。
「ナミ、上がっていいよ」
ツトムの声がした。
店以外で聞く素の声だ。
はい、と言う村瀬さんの声もいつもの声と違って、柔らかかった。
お先に失礼します、と言ったその声は労わりを伴っていて、これはツトムに言ったのではなく自分に掛けられた言葉だとは思ったが、ケンは応える事が出来なかった。
内暖簾を潜る布ずれの音に、
ナミ、とツトムの声がした。
暖簾の奥で小声で話している。
先に……連絡……お前も……メール……
村瀬さんの声は聞こえない。
やがて奥の戸が閉まる気配がして、ツトムが戻ってきた。
「送ってけば」
ケンは掠れた声で言った。
「いいよ、家に着いたらメールする様に言った」
「俺の事なんか、ほっときゃいい」
「ばーか」
笑いながら軽く言ったツトムは、高校時代に戻ったような気安さだった。
薄く目を開けると、傾いたカウンターの中でツトムが何か作っている。
こと、と置かれたカクテルグラスには二層のゼリーが入っていた。
下が乳白色、上が透明な紅琥珀色。
同じものが二つ。
ツトムが暖簾の奥に消えて、戻ってきた時には細身のTシャツにジーンズだった。
ケンの隣に座る。
自分で作ったであろうゼリーに口を付けて、うまっ、俺天才だわ、と自画自賛した。
ケンものろのろと身体を起こす。
猫背のまま自分のゼリーを確保し、一口食べた。ほろ苦さと甘さと相俟って、まるで今の自分を映した様な味に、苦く笑った。
「悪かったな」
今日の新物も、このゼリーも、たぶんケンと例の人の為に作られた筈だ。
「ばーか」
相変わらずの一言に、やっと浮上した。
「謝れよ?」
「分かってる」
「勤務中は、難しいのか?」
「乗客の命を預かってんだ」
「……悪かったな」
いや、と髪をぐしゃっと掴んだ。
「上司の受け売りだ」
そう嘯くケンに、ツトムは苦笑した。
不器用な男だ、と思う。
ツトム達の話に、軽く加わればいいのに、自身の信条を曲げることが出来ない。
そんな不器用な男が恋に落ちている。
どうにも手を貸してやりたくなってしまう。今回は失敗したが。
タエ子はまたこの店に来てくれるだろうか。
転がる様に帰ってしまった姿を思い出してまたふっと笑った。
お互い知らないだけでこの二人は、貝合わせの貝殻みたいだ、とツトムは柄にもない事を思い浮かべた。
「何とでもなるな、会えれば」
「あん?」
「大丈夫だ、って事だ」
「何だ、それ」
「とにかくお前、うちに通え」
「……それ、営業入ってないか?」
「当たり前だろ、通って金落としてここで待て。勤務中は声かけれないんだろ?」
ツトムはニヤリと悪い顔をした。
ケンは苦虫を潰した顔で、通う訳ないだろ、と言ったが、ツトムは喉で笑うだけだった。
嘯く事も、この男の信条だ。
信条を曲げない事も。
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送るというツトムを断って、店で別れた。
実際一杯しか飲んでないのだ、酔っている訳ではない。それに村瀬さんの事もある。
普段絶対一人では帰さないツトムが、村瀬さんを先に帰らせたのだ。よく見ると美人の村瀬さんを夜道に送り出して心配しない訳がない。
ケンはのろのろと駅への道を歩き出した。
ぼんやりと浮かぶ電柱のライトを点々と潜りながら心を無にして。
何個目かのライトの下で、浮かび上がる声。
〝私の事を非難するのは甘んじて受けますが、車掌さんの事を知らないのに非難しないで下さい〟
ーーーあんたの事を非難した訳じゃない……
〝私も車掌さんの事を知っている訳ではないですけれど、いつもしっかりとお仕事されています〟
ーーーどこ見て言ってんだ……
〝私達乗客の事を見ていて、日々変わらず見守って下さっています。車掌さんを悪く言わないで〟
ーーー俺はそんな大層な車掌じゃねぇ……!
仕事は勿論プライドを持ってやっている。
東京の動脈を担っている自負もある。
でも本当の自分は。
東横の圧に負け、慄いている、矮小な男。
今の自分の現状を知るはずも無いのに、八つ当たりをした、卑怯な男。
本当の俺はここにいるのに。
俺の前で車掌の俺を話す事が耐えられなかった。
紹介され、どうも、と言った声の余所余所しさに腹立ちを覚えてしまった。
車掌の俺を話す時は、あんなに柔らかく嬉しそうに話すのに。
俺を知って欲しかった。
声だけではない、本当の、自分を。
ぐしゃりと前髪を掴んだ。
ぎっと前を見る。
どうするかなんて、分かりきっている。
通うしかないのだ。
今の俺は、見かけても声をかけられない。
ぎゅっと両手で前髪を上げた。
その腕をぶんと払って意思を持って歩く。
上野毛の駅の灯りが見えて来た。
ケンは早足になり、やがて走り出した。




