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21 〝すずや〟前

 

 鍵を開けて入ると、もう奥から板場の気配がした。何時もより早い。

 ナミは従業員用の小部屋で荷物を置き、手早く黒のエプロンを付けた。

 エプロン以外に着用義務は無いので、いつも無地のTシャツとジーンズ。動きやすい様に足元は突ッかけ。

 店の洗面台で髪を整えて、内暖簾を潜る。

 店は午後五時から開店するので、ナミが下準備の為に入るのは大体一時間前なのだが、今日は気が早って三時過ぎに来てしまった。


「おはようございます」

「おはようございます、早いね」

「大将こそ」


 仕込みの為にナミより早く来ている事には変わらないが、仕込みの進み具合が早い。


「ニギスの新物が入ったんだ。ちょっと試したくてね」


 そう言いながらニギスであろう魚を三枚に下ろしている。

 ナミは割り箸を〝すずや〟と銘打った箸袋に入れながら「新物が入ってよかったですね」と声を掛けた。


 ああ、と大将は短く答えて下ろしたニギスをすり鉢で潰している。

 ドンドンという音を背に入れ終えた箸のセットを所定の袋に入れた。


 座敷から清め、フロアの掃除をしていると、出汁の良い香りがして来た。

 板場を見てみたい衝動に駆られるが、ナミは努めて我慢する。

 大将の声がしないのは集中している証拠だ、邪魔をしてはいけない。

 調子が良いときは五月蝿いぐらい話し掛けてくるが、新物、新作を扱う時は恐いぐらい口を開かない。

 そんな時に限って、ナミは板場を見たくなる。何と言っても新作だ。どんな調理をしているのか、気になる。


「ナミ」


 大将が珍しく仕込みの時に名前を呼んだ。

 冗談の時はきちんと仕事中だと釘をさすが、声が真剣だった。

 ナミは黙って手を洗ってカウンターに向かうと、板場から椀を出してくれた。


 薄口の出汁の中にツミレになったニギスと、細切りの生姜が上に添えてある。


 ナミは小さくいただきます、と言うと、汁をこくりと飲んだ。続いてツミレを食べる。二口目は生姜と共に。

 ずっと真剣な表情をしていたナミが椀を置いて大将を見た。

 大将は黙って腕を組んでいる。


 ナミの表情がふわっと綻んだ。

「美味しいです」

 そう言って、置いた椀を上げ、残りの汁をすすった。


 大将は一つ頷いて、また仕込みに戻る。

 ナミはその姿を見て、椀を啜りながら少し胸を熱くする。大将が真剣な時が、実は一番好きだ。仕込みをしている姿が一番、この人が輝いている時だと思う。そしてその姿を見れるのは自分だけ。


 顔が別の意味で綻んでしまうのを気付かれないように、ご馳走様でした、と椀を洗い場に持って行った。

 少しでも隙を見せると後から酷いことになりかねない。あの時本当はこう思ってたんだろ、とか、隠したって無駄だよ、とか、あの手この手で暴かれてしまう。


 先週の花火の日は酷かった。

 混雑を避けてかお客様が皆早めに帰られて、店も早く閉める事になって。

 お前はケンに優しすぎるとか、ケンがほだされたらどうするとか…

 散々そんな事は無いと言わされて、口では何とでも言えるとかなんとか…

 私は貴方が付き合ってきた人達とは違うのに…

 逆に怒れてきて口も聞かなかったら宥められて、でも最後は泣いて許しを乞うまで攻められて次の日の午前中は使い物にならなかった。


 今日こそは、そんな目には合わないのだ。絶対に。その為にはケンさんに頑張ってもらわなければ。

 ナミはぐっと決意を持って、自分の仕事に戻っていった。







 ************






「こんばんは」

「こんばんは、いらっしゃいませ」

 柔和な顔が出迎えてくれた。

 いらっしゃいませ〜と村瀬さんが案内してくれたのは、カウンターの大将の正面、ではなく向かって右隣。正面は誰もいないけれど、左隣には男の人がいたから気を使ってくれたのかもしれない。

 それでもいつもの端の席よりは近いから特等席には違いない。


 お通しが置かれ、村瀬さんが今日は何にしましょう〜と聞いてくれた。

 先日、十四代(じゅうよんだい)を頼んだので、少し伺う形だ。

 タエ子はにこっと笑って、今日は立山(たてやま)にします。とお願いした。

 かしこまりました〜、とにこやかに笑ってすぐに立山を注いでくれた。

 喉に流れ込む冷たさと、後からくる熱さに嬉しくなる。


 今日のお通しは胡瓜の、なんだろう?

 味噌と明太子と……パク。

 ん……梅干しもある。青紫蘇もほんのり。

 くぴりと飲んで、また一口。


「美味しいです、止まりません!」

「ありがとうございます」

 大将がにこやかに応えてくれた。

「今日、お目当の新物はお椀物なのですが、如何いたしましょう。焼き物の後にしますか?」


 お椀物は大体終盤で食べるのが常なので、大将は気を使って聞いてくれたのだが、タエ子は最初に食べるとハナから決めていた。

 新物なのだ。まだ酔いが回ってない最初に食べるべきなのだ。セオリーなど度外視。誰もとがめやしない。

 案の定大将は笑ってかしこまりました、と承ってくれた。



 どうぞ、と出してくれたお椀に気を取られていると、大将は黙って左隣の男の人にも出していた。あれ? この人も注文してたかな、と薄く疑問に思うが、すぐに目の前の椀に目線を戻す。

 使い込まれ、木目が薄く透ける漆物のお椀の中に、つみれと細切りの生姜が乗せてあった。

(これが三週間待った新物?)

 正直、思ってたのと違った。

 綺麗な麩が入ってるわけではないし、つみれだとも思ってなかった。

(てっきり新鮮な刺身か焼き物だと…)

 でも、大将が新物ですと出してくれた物に今まで外れはなかったから…

 どんな味か全く想像出来ずに口をつけると、芳醇な出汁の味に言葉を無くした。

 思わず大将を見ると、にっこり笑って、

「ニギスの新物です。この時期にしか取れないんです」

 と説明してくれた。

 頷いて、つみれを食べて見る。

 長芋にニンジン、小ねぎ、どれも当たり障りのない食材なのに、このニギスと合わさると……出汁と共に絶妙なバランスで喉を通って行った。


「美味しいです!!」

 驚きと共に感動を伝えると、ありがとうございます、と安定のフェロモンスマイルを送ってくれた。

 ほんと美味しい! と呟きながら食べていると、そう言えば、と大将が水を向けた。

「例の車掌さん、健在ですか?」

 タエ子は綺麗にお椀の中身を平らげてから、ええ、と頷いた。

「いつも通勤の時に当たるわけではないですけれど、前みたいに居なくなったりはしてないみたいです。それにしても大将があんな事いうから……私、変に意識しちゃって車掌さんが居る車両乗れなくなっちゃいましたよっ」

 カタッと隣の人のグラスが鳴った。

 大将はあぁ、と苦笑して、それはすみませんと肩をすくめた。

「車掌さんだって人間ですから、こんなに意識してくれている人が居ると知ったら、恋の一つや二つ始まるんじゃないかと思いまして」

 大将の物言いに、ロマンチストですねぇ〜と返して、立山をくぴりとまた飲む。

「そもそも車掌さんがフリーとは限らないし」

「フリーかもしれないし」

「既婚者かもしれないし」

「独身かもしれない」

「もーー大将、どうしても私に何かさせたいんですね?」

 ちょっと拗ねたように言うと、すみません、と大将は良い顔で笑った。

「でも、声だけとは言え、こんなに想われたら男だったらぐらっと来るんですよ。なあ、ケン」

 大将は最後にタエ子の左隣の男の人に振った。


 振られた男の人はう、とか、ぐ、とか言葉にならない声を発した。

「ああ、すみません。僕の同級生なんですよ、ケン、こちらタエ子さん」

 男の人は何故か大将を睨みつけた後、どうも、と低い声で言った。

 タエ子も小さくどうも、と会釈した。

「何とか車掌さんに連絡取る方法ないですかね」

 大将はどちらに言うでもなく言った。

 ちらっと左を伺うと黙ってグラスを空けているので、タエ子が応じる。

「お仕事しているから、無理じゃないですか?」

「お仕事終わった頃を見計らって声をかけるとか」

「いつお仕事が終わるか分からないし」

「大井町駅で交代の時を見計らったらどうです? 僕、見た事あるのですよ、交代したら……」


「迷惑ですよ、仕事中なんて」

 隣の男の人が口を割った。

 はっとタエ子が左を見ると、男の人は板わさをつつきながら頬杖をついて言った。

「自分達に省みて考えてみろよ、集中して仕事してる時に余計な事話しかけて貰いたくないだろ? 車掌だってきっと同じだよ」

「ケン」

「そもそも声だけが好きだなんて信じられないな、その車掌から見たら迷惑千万。自分のアイデンティティは無視されてただ声だけ?その車掌のどこを見てんだって話。実際は捻くれて、疑心暗鬼で、休日も一人で呑んだくれるしか能がない……」

「あのっ!!」

 タエ子はガタっと立ち上がると男の人に向いた。今度は男の人がはっとした顔をした。眼鏡の奥の瞳が揺らいでいる。

「……私の事を非難するのは甘んじて受けますが、車掌さんの事を知らないのに非難しないで下さい。私も車掌さんの事を知っている訳ではないですけれど、いつもしっかりとお仕事されています。私達乗客の事を見ていて、日々変わらず見守って下さっています。車掌さんを悪く言わないで」

 タエ子が激昂するでもなく淡々と訴えると、男の人は酷く複雑な顔をした。

 顔を赤らめて、口をへの字にしてるけど、頬が震えてる。

 しんとなった店内に気付き、タエ子はしまったと思った。

 慌てて荷物を持ち、お金を多めに置いて、すみません、お騒がせして、と大将に謝る。

 男の人にも、すみません、詮無い事を言いました、と一応謝って逃げる様に出てきた。

 大将や村瀬さんが何か言いかけていたが、居た堪れなくてそれどころじゃなかった。



 走って、走って走って、店からだいぶ離れた電柱の所で荒い息をつく。

 やった、やってしまった。

 酒の席とはいえ、見ず知らずの人に。


 手をついて前屈みになりながら、ぱたた、とアスファルトに落ちたシミに気付く。


 やだ……泣けてくるなんて……


 そう思った途端、ぐぐっと胸の底から想いが溢れてきた。



 〝そもそも声だけが好きだなんて信じられないな〟

 ーーー分かってる……



 〝車掌から見たら迷惑千万〟

 ーーー分かってるわよ……



 〝自分のアイデンティティは無視されて声だけ? 車掌のどこ見てんだ〟

 ーーーだって知らないんだものっ



 苦しくて、苦しくて、ひっと声が出てしゃがみ込んだ。鞄を抱き締めた指が白くなる。



 声が好きだった。

 ただそれだけだった。

 一時、大井町線から居なくなって、本当は、本当は、全ての線を探しに行きたい程、焦がれていた。


 戻って来てくれて、浮かれてた。

 また聞ける。

 癒しの声。

 それだけでいい。


 そんなの嘘だ。

 本当は、知りたい。

 本当はどんな声なの?

 普段どんな話をするの?

 ご飯、何が好き?

 私は……



 乗り換えの自由が丘で、去って行く大井町線をいつも見ていた。

 声をかけたくても、かけれなかった。

 いつも、いつも。




 辛辣な言葉を投げた男の人の声が、少しだけあの人の声に似ていた。

 まるで本人に言われた見たいに、刺さって、涙が溢れて溢れて仕方なかった。







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