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16 上野毛〝すずや〟 ータエ子ー

屋号、付きました。

幻の酒、入りました。

 

「大将、こんばんは!」


 逸る気持ちを抑えて〝すずや〟の暖簾をくぐる。こんなに土曜日を待ち焦がれたのも久しぶりだ。時間もいつもより早く来てしまった。


「いらっしゃい、タエ子さん。あれ? 前に3週間後って言ってませんでした?」


 大将はちょっとびっくりした顔で迎えてくれた。お店はお座敷の方に赤ちゃん連れの家族が居るだけで、混み合う前のぱりっとした新鮮な空気に満ちている。


 こちらへどうぞ、とセッティングしてくれたのは、大将のど真ん前。


「わぁ、いいんですか?」


 タエ子は特等席に案内されて、さらに気分が沸き立つ。


「もちろん。早くから来て下さって、ありがとうございます」


 座ってカウンターに肘を掛け店内を見ると、店全体が見渡せていつもとは違った景色に口元が緩んだ。

 村瀬さんが奥の暖簾からぱっと出て来てこちらを認め、ちょっと目を見開いて直ぐにいらっしゃいませ〜 と言ってくれた。


 お通しの胡瓜ともずくの小鉢を貰って、村瀬さんが今日は何にしましょう〜 と聞いてくれた。


「十四代にして下さいっ」


 にこにこで頼むと、おお、と言って村瀬さんがガラスケースに入っている冷蔵庫から一升瓶とグラスを出してくれた。


 ふふ、村瀬さん、いつものかしこまりました〜 を忘れてる。


「何かいい事、あったんですか?」


 大将が柔らかく振ってくれた。


 よくぞ聞いてくれました、大将!

 大有りです!


 タエ子は例の車掌さんが大井町線に戻った事を告げた。


「大将の言う通りでした。待ってたら戻ってきてくれたのです。あの時は疑ってすみませんでした!」


 がばっと頭を下げると、いやいややめて下さい、と大将は慌てて言った。


「嬉しくて祝杯を上げに来たのです。この喜びを分かち合いたくてっ」


 タエ子がそう言うと、大将くすぐったそうにそして何故か眉をハの字に下げて柔らかく笑った。

 村瀬さんがあの〜 祝杯を注いでもよろしいでしょうか〜 と声を掛けてくれる。

 あ、すみません、お願いします、と前のめりになっていた身体を起こす。


 コースターが置かれ、青の釉薬が掛かった信楽焼のグラスに十四代愛山(あいやま)が注がれた。

 表面張力ギリギリ一杯。村瀬さんがいつもより慎重に注いでくれる。


「じゃあ、これは僕からのお祝いです」


 十四代は少し甘めなので、と置いてくれた小鉢の中には、ホタルイカの沖漬けが入っていた。


 大将、本当にバーテンダーさんじゃないんですか……


 大人の色気と心遣いに当てられてくらくらしながらどちらを先に手を付けようと迷い、

 やっぱり十四代! と唇をそーっと器に近付けた。


 芳醇な甘み、でも後味は絡まない。

 美味しい……と顔が綻ぶ。

 ホタルイカも一口。塩気を口に残したまま、十四代をまた飲むと、上品な甘みが更に増して口元がぷるぷるした。


「美味しいです!」

「ありがとうございます」


 大将は破顔して今日のお品書きを勧めてくれた。

 タエ子はカンパチの塩焼きとキスの天ぷら、南瓜の冷やし煮を頼む。


 少し混み合った来た店内を、村瀬さんがスイスイと泳ぐ様に注文を取ってくる。いつの間にか他の店員さんも来て、〝すずや〟はいつもの賑わいになって来た。


 大将は数々の注文を手早くこなしながら、それで、どうだったんですか? と水を向けてくれた。

 キスの天ぷらをはむっと食べて頬を緩ませながら、タエ子は少し酔いが回ってきた頭を回転させ、あの時の状況を思い浮かべる。


「私、急いでいて改札から一番近い車両に乗っちゃったんですよ。大井町行きの最終車両って、車掌さんに丸見えなので、不審者に見られない様に必死に顔を下に向けました」


 大将がふんふんと面白そうに聞いてくれる。


「でも、私、本当に嬉しくて、我慢してたんですけれど一瞬だけ、にへっ、と笑ってしまったんですね」

「ええ」

「そしたらアナウンスも一瞬だけ止まったんです」

「……」

「その時は何とも思わなかったんですけれど、後からもしかしたら私の変顔を見られてたんじゃ……ってあれ? 大将? 村瀬さん?」


 大将は横向いて震えてるし、村瀬さんは一升瓶抱きしめて震えてるし、何事?


「うん、そうですね、もしかしたら、見られていたかも、知れませんね」


 笑いを堪えながら大将が言葉を区切りつつ言った。


 やっぱり? とタエ子はかくっと(こうべ)を垂れた。

 後ろで村瀬さんの、すみません、お待たせしました〜 の声がする。


「まあ、いいんじゃないですか? もし、見られてたとしたら、印象に持ってもらえたと言う事で」

「え?」

「ほら、青春の続き」


 大将はそう言ってカンパチの塩焼きを、お待たせしました、と出してくれた。


「えー……」


 うろ、と目が泳ぎながら、出されたカンパチに箸を付ける。旬ならではの脂の乗った身に、ほくほくと舌鼓を打った。

 十四代が空になり、村瀬さんが今日、〆張鶴(しめはりづる)の濁り酒が入ったんですよ、どうですか〜? と勧めてくれた。

 タエ子は、ぜひ、それにします、とお願いする。


 カンパチを攻略していると、村瀬さんが直ぐに持ってきたくれた。

 緑色の半透明な一升瓶に白濁のお酒が入っている。

 綺麗だ、と思っていたら、失礼しますね〜 と村瀬さんが注ぐ前に一升瓶をゆっくりと揺らした。

 彼女の一定した揺らぎの中で、白濁のお酒が更に白みを増した。

 村瀬さんはいつもとは違い、高台のある透明なグラスに慎重に注いでくれる。

 グラスの中で回っている濁り酒が綺麗だった。

 村瀬さんが満足そうに頷いて、どうぞ〜と言ってくれた。


 〆張鶴の濁り酒は十四代よりは少し甘辛口。でもいつも飲んでいるお酒よりかは甘い。今日は甘めで攻めましたね〜 と村瀬さんがにこにこしていた。これはもしかしたら南瓜の冷やし煮と合うかも?と合わせて食べてみると、〆張鶴の甘辛とに、南瓜煮のお出汁と醤油の味が引き立って、これはこれで美味しかった。


「美味しいなぁ〜」

「ありがとうございます」


 大将の柔らかい声に、ああ、まだ返事してなかった、といよいよ回ってきた頭で考える。



 声が好きで、勝手に癒されていて、

 正直実在の人物とは思ってなかったというか、ヒーリングボイスにしてたって言うか……



「んー……やっぱりピンとこないなぁ」

「何がです?」

「車掌さん」


 そうですか、と大将は微笑んで、それ以上は何も言わなかった。


 他愛ない話をして、沢山笑って、〆張鶴はやっぱり美味しくて、大満足の祝杯だった。


「ご馳走様でしたー」

「ありがとうございました。タエ子さん、次回は3週間後ですか?」


 またまた大将が次回を聞いてきた。

 タエ子はんーと考えて、前の通り2週間後に来ます、と言った。


「だって、大将がそれだけ気にかけてくれると言うことは、その時期にしか入らない美味しい物が出るんでしょう?」

「あ、はい。そうなんです」

「だったら最初に言った時期に来ます。2週間後ですね」

「はい、お待ちしています」

「は〜い、おやすみなさ〜い」


 タエ子は機嫌よく店を出た。 

  てくてくと店から駅までの細い路地を歩きながら考える。


 車掌さんと恋?

 全然ピンと来ないなぁ。

 そもそもどうやって会うの?

 お仕事中に声なんか掛けれないし。


 ナイナイ、と思っていると上野毛の駅に着いた。改札を入ってホームで待つ。

 何となく最終車両を避けて真ん中の車両停車位置で待つ。

 先に二子玉川行きが入ってきた。


 扉、しまりま〜す


 駅係員の声まであの人の声に聞こえてきて何だかドギマギした。


 大井町行きが入ってくる。

 車内に入ると、等々力の駅のアナウンスは間違いなくあの人の声じゃなかった。

 何だかその事にほっとして、ほっとするのも変な気もして。


(もう、大将が茶化すから変に意識しちゃうじゃないかー)


 もーもーと心の中で呟きながら、ま、いっか、と思う。

 出会いなんてないし、私が勝手に声を好きでいるだけだ。今まで通りヒーリングボイスとして堪能させて頂こう。

 そう自分で話を畳むと、丁度等々力の駅に着いた。


 来週会えるかな。

 また月曜からの通勤の楽しみにさせて下さいね。


 三日月を見ながら、知りもしない車掌さんに向けて、ナムナム、と心の中でお願いした。



〆張鶴の濁り酒ですが、現在は出荷してないそうです。残念。。。

濁り酒がこの時期に出ていたかちょっと記憶が定かでないのですが、タエ子の祝杯という事でお許し下さい。

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