15 祐天寺 ーケンー
蕎麦呑みの話
祐天寺駅の界隈は蕎麦屋が多い。
新そばが出る時期は、何処に入ろうか非常に迷うんだ、と言いながら上さんに連れていかれたのは〝かなめ〟という店だった。
からりと戸を開けると、いらっしゃいませ、と言う声と共に店の奥のカウンターに案内された。
蕎麦屋で呑もう、と言われて気後れしていたケンだが、桟敷には家族連れも居て、店内も比較的明るく町蕎麦屋という雰囲気で少しほっとした。
元来新しい店を探して見つける、というたちでは無いケンは、気に入った店に通い詰める方だ。初めて入る店が無いわけでは無いが、何となく緊張してしまい、固くなるのだが、この蕎麦屋はどんな客も受け止める懐の深さを感じさせた。
上さんは黒ビール。ケンは鳥飼という焼酎のロックを頼む。板わさと舞茸の天ぷら、季節のお造りを頼んで乾杯した。
「蕎麦屋なのにビールなんですね」
「そうなんだよ、蕎麦好きなら酒か焼酎だろって言われるんだが、どうにも身体に合わなくてな」
「それは仕方ないですね」
「正直、俺は蕎麦が食えればいいんだ。ビールはついでだ」
ついでと言いながらも美味そうに飲む上さんを見て、ケンは苦笑した。
駅係員にとって飲み食いの合わせは非常に重要で、誰も無理に勧めたりしない。入社以来体調管理の徹底を叩き込まれるからだ。
上さんはビールを3杯までしか飲まないし、ケンも焼酎は2杯まで。うっかり、という事がない数で止めている。
「で、東横の圧を上回る出来事はなんだったんだ?」
板わさをつつきながらおもむろに聞いてきた上さんに、ケンはため息をついて観念した。
「知り合いの店で、告られたんです」
「お前そういうの、歯牙にも掛けないんじゃないのか?」
「俺と知らなくて、告ってるんです」
「なんだそりゃ」
ケンはほんのりと香る舞茸の天ぷらを頬張り、鳥飼をこくっと煽ってから、乗務中のアナウンスの声が好きだと言われた経緯を話した。
「そりゃまた……」
「東横の件が通ったら3ヶ月後には大井町には居ないですし、気にしなきゃいいんですけれどね」
ふぅん、と言って黙った上さんを見て、今さらながら自分の言葉の薄っぺらさに気付く。気にしてなきゃここには来ていない訳で。
「お前からは行かないのか」
「え?」
「話しかけて見ないのか?」
「乗務中ですよ?」
「馬鹿、その知り合いの店でだよ」
「すみません。……話しかける、ですか……」
なんて話しかけたらいいんだ、
俺があなたの好きな車掌です。とでも?
「いや、無理ですね」
「お前がどんな想像したかしらんが。ふぅん」
「……何ですか」
「ふぅん」
「〜〜〜〜じゃあ、上さんなら行きますか?」
「ふむ」
上さんはアジの刺身を食べ、こっこっとビールを飲み干した。ビールの追加と、店内のお品書きから白えびのかき揚げを二つ注文する。
「白えび、この時期しか出ないからな、見つけたら食っとけよ」
「はい」
「でだ。まあ、俺ならば行くね」
「……後ろに大仕事控えていてもですか?」
「仕事はいつだって控えてるもんだろ」
「……」
「命を預かっているんだ。今日も明日も、三ヶ月後の東横も変わらない」
ケンははっとして上さんを見る。
上さんは前を見ながら赤らんだ顔でまたビールを飲んだ。
「いつも通りのお前でやれば三ヶ月後だって変わりない。平常心を取り戻すには慣れるしかない」
「慣れる……」
「その彼女の存在に慣れる。どんなアプローチになるかは話して見ないと分からない。だから行く」
「……」
「ま、これは俺の場合だ」
「……俺の場合?」
「俺の時は運転士試験と重なりそうになった」
上さんをまじまじと見る。
上さんは苦虫を噛み潰したような顔であんときゃ酷かった、と唸ってジト目でケンを見た。
「俺から言わせりゃ研修期間までに3ヶ月もあるんだ。悩むまでもないね」
「う、上さん……ちなみに……」
「会って、口説いて、ひん剥いて、力技だ」
か、神か、この人……
「まあ、多かれ少なかれ鉄道員はそんなもんだよ」
上さんはさらりとそう言って、揚げたての白えびのかき揚げを頬張って美味そうにビールを上げていた。
ケンは呆然としながら白えびを頬張る。軽い塩気と上品なえびの香りに、抜かれた魂が戻って来た。
〆の二八蕎麦はつるりとした食感と噛むたびに蕎麦の香りがして美味しかった。上さんはわさびが本わさびだからまた美味いんだ、と通な事を言っていた。
今度は十割の美味しい店に連れて行ってやるよ、と声をかけてもらって駅で別れた。
「とりあえず、行くか」
上さんの様にはならないとは思うが、彼女の存在に慣れようとは思った。
……平常心を取り戻す為に。
う、上さん……公私共に師匠と呼ばせてください。




