1 忘れ物 ーカエー
オムニバスみたいに書けたら、と思っています。
夕暮れ時の二子玉川行きの車内は混み合っていた。
カエはつり革を拠り所にしながら、少し揺れる車内で楽器が人に触れない様に身体の前に入れ込む。邪魔にならぬ様に。
いつもの様に見るともなしに前を向き、車窓から見る街並みをぼんやりと見る。
「次は〜尾山台〜 次は〜尾山台〜」
カエが降りる一つ前の駅に到着し、家へ帰れるのももうすぐ、と気持ちが緩んだ時だった。
斜め前にうとうとしながら座っていた人が、降りる駅なのか慌ててホームに降りて行った。
その先に黒いケータイが一つ、落ちていた。
(あっ…)
たぶん近くの人誰もがそう思ったと思う。
しかし誰も手を出さなかった。
(…どうしよう)
と思うか思わないかの所で、発車のベルが鳴った。
(!!)
黒いケータイを取り、
「すみません! 降ります!」
掠れた様な声しか出なかったが、事情を察していた周りの人が直ぐに道を開けてくれた。
プシューーーー…
後ろでドアが閉まる音がして、カエは前に走り出した。
(若い男の人で…ジーンズ履いてて…)
どんな顔かも覚えていない。
でも改札へ向かって足早に歩いていくサラリーマンが多い中で、ジーンズを履いている人は数人しか居なかった。
(違ったら…でも…!)
「あ、あの…!」
声をかけても、振り向いてくれない。
カエはこの時、どうしてこんなに大きな声が出たのかも分からなかったが、普段では考えられない声で言った。
「あのっ、ケータイ落としませんでした?」
カエの周りにも居た半径2、3メートルの人達がザッと自分のケータイを確認した。
「あ、もしかして俺のかも」
思いの外周囲の注目を浴びた事が恥ずかしくて縮こまっているカエの前に、ジーンズの足が見えた。
前を向くと、茶髪にメッシュが入ったカエが今まで喋った事もないようなタイプの男の人だった。
「こ、これ、電車の席に落ちてました」
慌てて手に持っていたケータイを差し出す。
「ありがとう」
手渡すと、ピョコンとお辞儀小走りにホームへ戻るカエに、
「ホント、ありがとな。助かった」
と後ろで声をかけてくれた。
カエは少し振り向いて、またピョコンとお辞儀をした。
お読みくださり、ありがとうございます。
約10年前設定です。
スマホまだ誕生しておりません。
大井町線も現在は溝の口まで伸びていますが、設定では二子玉川までしか伸びていません。
楽しんで頂けたら幸いです。