プロローグ
二年前、私は魔神から鼠に堕とされた。
きっかけは些細なミスだった。NGC2770銀河の端の星で空間を発掘していたところ、機器の操作を誤って空間が崩壊。すぐに対応すれば丸く収まったのだが、私は万が一にも崩壊に巻き込まれて死ぬのを恐れてつい逃亡してしまった。それがマズかった。
初期対応が遅れたため被害は加速的に酷くなり、光速の数万倍という速度で連鎖的に空間崩壊が広がった。私がいずれバレると観念して事態を報告し、対応部隊が派遣されて崩壊が鎮静化する頃には、銀河が一つ消えていたのだ。
もちろん、裁判に発展した。魔神五十名から成る、ここ百年で最大規模の大法廷が開かれた。勝てる訳のない裁判だった。
一応抗弁はしてみた。
NGC2770銀河は魔神社会の主な活動圏である天の川銀河(太陽系)から8800万光年離れているのだから実質的損害は少ない、神的被害は無かった、1700億ある銀河の内の一つぐらい大した被害ではない、などという駄目元の抗弁はやはり駄目だった。星や恒星系一つ程度ならまだしも、銀河は規模が大きすぎる。
それでも何人かの友神の弁護のおかげで消滅刑だけは免れた。下された刑罰は『畜生道:鼠の刑』。魔神としての権限、財産、体を失い、鼠の体に押し込められ、野生の中で生きていく事になってしまった。誠に遺憾である。
どことも知れない森の中に放り出されて最初の二、三時間は「畜生、畜生になるなんて思ってもみなかった」と下らないジョークを思いつく程度には心に余裕があったが、すぐに呑気にジョークを飛ばしていたら首が飛ぶと気付いた。
鼠講や鼠算という言葉があるように、鼠は凄まじい勢いで増える。しかし凄まじい勢いで死んでいくため、世界に鼠が溢れる事はない。そう、鼠は圧倒的弱者なのだ。
病気にかかれば死ぬ。怪我をすれば死ぬ。肉食獣に狙われれば死ぬ。餌がとれなければ死ぬ。とにかくすぐ死ぬ。
私はちょっとしたオヤツを食べようと襲いかかってくる狐やイタチから必死に逃げ回り、安全な寝床を死に物狂いで探し、血眼になって餌を探し、今を生き延びる事だけを考えて一年以上を浪費した。生きるためには必要な浪費だったが、一年という時間は長すぎた。鼠は寿命が短いのだ。
野生の鼠の寿命は二~四年。私は鼠にされた時点で成獣だったから、一年が過ぎればもう鼠生の折り返しを過ぎている。しかしこのまま惨めに食物連鎖に飲み込まれて死ぬのは絶対に御免こうむる。私は生きたい。ここで素直に寿命に任せて死ぬ性格だったら銀河を崩壊させる事もなかっただろう。
一年の浪費と引換えにそれなりに安定した生活サイクルを確立できた私は、なんとか生き延びるために考え始めた。
魔神だったころの力の全ては没収され、かつての友神達を頼ろうにも私への干渉を禁じられている。頼れるのは魔神時代から唯一引き継いでいる知識のみ。
人間はよく勘違いをしているのだが、魔神もピンキリで、能力に大きな個神差がある。生命創造専門の魔神もいれば、テラフォーミング専門の魔神もいるし、ほとんどなんでもできる魔神もいる。私は考古学専門だ。鼠の体を人間や魔神の体に作り替えたり、不老化処理をしたり、という事はできない。
考古学知識の中に延命に活かせるものがなかったかと記憶を漁っている内に、ふと思い出した。遺跡のアーティファクトが利用できるのではないか。
考古学者としての私の仕事の一つに、遺跡の捏造があった。魔神のスタンダードな娯楽には人間観察がある。特別な舞台や道具を用意して人間に与え、反応を観察して楽しむのだが、昔、遺跡シリーズが流行った事がある。トラップ満載の遺跡の奥に財宝やアーティファクトという餌をぶら下げ、人間を呼び寄せて攻略に四苦八苦する様子を観る、というものだ。
本格的でリアリティの高い遺跡を用意するために、私も随分と遺跡捏造設計に関わった。未だ攻略されていない遺跡に設置されたアーティファクトの中に延命系のものあったはずだ。
自分が設計した遺跡の位置や内部の間取り、罠についての知識は全て頭に入っている。あとは私の四足歩行でたどり着ける場所に遺跡があるかどうかなのだが、不幸中の幸いで、たった一ヶ月森の中をうろつくだけで見つける事ができた。しかもまさに目当ての延命系アーティファクト、それも最高のものが置いてある遺跡――――イン=ディ遺跡。
狂喜した。不思議な事にかなり頑丈に造ったはずの遺跡が随分と崩落していたが、今は気にしていても仕方ない。老い先短いこの命。早速遺跡攻略に乗り出した。
イン=ディ遺跡正面入口の石の扉にはパスワードが設定されている。特定の順番で突き出た石を押し込む事で開き、その順番は扉に古代語で刻まれている。
私は古代語を読むまでもなくどの順番で石を押し込めばいいのか知っている。が、残念ながら鼠の筋力では石はぴくりとも動かなかった。鼠でも動かせるように設計しておけば良かったと後悔するが、設計当時はこんな目に遭うと想像できるはずがない。
しかし私は諦めずに遺跡の周りをちょろちょろ駆け回り、内部に繋がるようやく鼠が入れるくらいの小さな亀裂を見つけた。怖いぐらいの幸運だ。友神の誰かが私が延命できるように遠まわしに手を回してくれていたのかも知れない。
亀裂に体をねじ込むようにして入ると、遺跡内部も崩落が進んでいた。壁が崩れ、装飾は剥げ落ち、ところどころに黒い穴が空いている。
頑丈に設計したつもりだったが、遺跡シリーズの流行が去ってメンテナンスもされなくなればこんなものか。
そんな事よりアーティファクトだ。崩落に巻き込まれて瓦礫の下敷きになっていたらこの体では掘り出せない。
そう考えている内にも、どこかで何かが崩れる音が通路を反響して聞こえてきた。びっくりして全身の毛が逆立つ。急いだ方が良さそうだ。
坂道を転がる大岩も落ちてくる天井も水責め部屋も全て攻略法を知っているため簡単に突破できた。遺跡捏造の依頼を受けていて本当に良かった。神生何が幸いするか分からない。
拍子抜けするほどアッサリ宝の間にたどり着いた私は、祭壇に五つのアーティファクトが全て置かれているのを見てほっとした。まだ誰も攻略できていなかったようだ。
ここにあるアーティファクトは水筒、指輪、篭手、仮面、首飾り。正直どれも欲しい。欲しいが、あの小さな亀裂を通って持ち出せるのは大きさ的に指輪――――ウタウスの指輪しかない。
なんとか他のものも持ち出せないかと考えていると、またどこかで何かが崩れる音が聞こえてきた。思ったよりも急速に崩落が進んでいる。欲をかいて生き埋めになるよりは安全第一。他のアーティファクトはまた今度、だ。それにウタウスの指輪だけでも、上手く使いこなせば魔神に返り咲く事すら可能かも知れない。私はトラップが発動しないように指輪に繋がった細い糸を噛み切ってから指輪を咥え、遺跡を脱出した。
意気揚々と遺跡を出た私が思い浮かべていたバラ色の未来は一瞬で枯れ散った。
目の前で毛づくろいをしていた狐と目があったのだ。
最悪の遭遇だった。狐というヤツは好奇心旺盛で悪戯好きな生き物で。食べもしないのに面白半分にか弱い鼠を追い回す残虐非道な森の悪魔だ。遺跡のトラップを抜けたと思ったらまさかの攻略後デストラップ。通りでここまで上手く行き過ぎていると思った。
この危機を乗り越えるため、刹那の間にかつてないほど考えた。
亀裂に戻るか? いや、体をねじ込んでいる間に尻尾を前脚で捕まえられて死ぬ。
逃げたら狩猟本能を刺激して絶対に追ってくる。ここは刺激しないようにゆっくり移動して、いや、毛づくろいしているほど暇ならどうあがいても暇つぶしに追ってくる。
腹を見せて降伏しても丸呑みにされる未来しか見えない。
戦うのは論外だ。あんな超巨大生物に勝てる訳がない。
指輪を使うか? 一度ウタウスの指輪を装備してしまえばまず死ぬ事はない。いや駄目だ。口から指輪を落として指に装備完了するまでの二、三秒で狐の前脚に潰される。
命乞いをしようとしても言葉が通じない。
ああ不味い狐の前脚に力がかかった。来る。
決断しなければ。死んでたまるか。どうすれば生きられる? 一番生存率が高いのは何だ?
逃げる事だ。
本当にそうか? 逃亡が最善手なのか? 他に手はないのか?
もう考えている時間はない。
来る、
来る。
来る!
狐が飛びかかってきた瞬間、私は狐に向かって突進した。狐の前脚、腹、尻尾の下をくぐって背後に抜ける。そしてそのまま一目散に森に向かって駆けた。
獲物に真後ろに逃げられた狐は180度方向転換しなければならない。その僅かな時間が自然界では命運を分ける。
落ち葉をかき分け全速力で走る。背後から獰猛な追跡者の足音が聞こえても、私は振り返らなかった。
ジグザグに走り、倒木や小さな茂みを何度もくぐり抜ける命懸けの逃走劇。
走り走り走り続け、スタミナが切れそうになる頃にはかなり引き離す事ができた。あと少しで振り切れる。いや、先に指輪を嵌めてしまうか? これだけ距離があればいけるはずだ。
その迷いのせいか、それともスタミナ切れのせいか。私は木の根に前脚を引っ掛けて空中に投げ出された。
世界がスローモーションに見えた。口から指輪が離れ、鮮やかな放物線を描きながらゆっくり回転し、遠くへ落ちていく。
落ち葉の上に投げ出された私は呆然とした。
そんな馬鹿な。あと少しだったのに。
前脚から恐ろしい熱さを感じる。鼠の脆い骨はたったあれだけでポッキリ逝ってしまったらしい。
もう走れない。背後から死神の足音と、興奮した荒い息遣いが聞こえる。私は無様に這いつくばってなんとか近くの木の根の隙間に潜り込もうとした。体の半分も入らないような小さな隙間だったが、藁にも縋りたかった。生きたかった。何がなんでも生きたかった。ほんの一秒でもいい、生きながらえたい。なんでもする。
だから誰でもいい、私を助けてくれ。
私は生まれて初めて何かに祈った。
もう生暖かい息を感じられるほど近づいていた狐が突然止まった。ゆっくりと倒れ、ぴくりとも動かなくなる。
狐の首に、一本の矢が突き刺さっていた。
痙攣する狐の死体を持ち上げた二足歩行の巨大生物が、不思議そうに私を見下ろす。
「なんだこの鼠」
私を助けたのは魔神ではなく、人間の少年だった。