地井先生の思い出
窓の外からは運動部が練習に励む声が聞こえる。
扉の外からは時折通りがかる生徒の足音や話し声が聞こえる。
でもこの教科準備室の中だけは、とても静かだった。
はいどうぞ、と先生から手渡された小振りのマグカップには、なみなみと珈琲が入っている。零さないように気をつけて下さいね、と言葉を添えてくれるのもいつもの事だ。
ありがとうございます、いただきます、と静かな空気を壊さない程度の声で返すのも、またいつもの事である。
「卒業おめでとうございます」
「ありがとうございます。地井先生も定年お疲れ様でした」
「はい、ありがとう。僕の方はまだ少し先ですがね」
少し色黒で皺の多い顔を、更に皺くちゃにして先生が笑う。その姿は柔和という言葉をそのまま擬人化したようだ。
私も笑みを返して、そっとマグカップに口を寄せた。猫舌の私にはまだ熱いその珈琲は、少し苦味とコクが強い味をしている。先生の御宅の傍にあるお店の豆だそうで、僕のお気に入りです、と自慢気に振る舞ってくれたあの日が遠い過去のようだ。初夏の頃だから、まだ一年も経っていないというのに。
「先生」
「はい?」
「今まで、お世話になりました」
「どういたしまして。僕の方こそ、藤野さんにはお世話になりました」
「えっ?」
「重い物持って貰ったり、棚の片付け手伝って貰ったり、重い物持って貰ったり……」
先生の中で力仕事を手伝った事はとても大きいらしい。大した事じゃないのに、と思わず笑うと、とっても大事なことですよ、としみじみ頷いた後、茶目っ気たっぷりの瞳を私に向けた。
「でも本当に、丁度腰を痛めた時期だったのでとても助かりました」
「先生の為でしたらその程度、いくらでもお手伝いしますよ」
「珈琲も飲めるし?」
「はい」
初めて手伝った際、荷物運びの御礼として先生は珈琲を飲ませてくれた。以来、御用聞きのように私は先生の元へ訪れ、先生も細々とした作業を私に言いつけては御礼に珈琲を振る舞った。
同じ国語科の先生の中には、生徒が入り浸るのに良い顔をしない人も居たけれど、先生は良いじゃないですか、と言ってくれた。
『僕は藤野さんの組を受け持ってないから成績には関与出来ません。それに試験前後に入らせる程、僕だって考えなしじゃありませんよ。藤野さんだってそのくらいの弁えはあります』
私は私で、クラスで浮いているから居辛くて先生の厚意につい甘えてしまって……と萎れるフリをみせたら、あっさりと同情を買え、見逃してもらえるようになった。
クラスで浮いているのも先生の厚意に甘えているのも事実だが、一人でいるのが苦痛で先生のもとへ逃げているわけではない。
消極的な理由ではなく、積極的な理由。私は先生の傍に居たいだけだ。
先生の話は面白い。
若い頃の話や奥さんとの遣り取り、先生が知っている様々な雑学、最近話題になっているニュースの解説。色んな事を話してくれた。逆に私へテレビで取り上げられるような流行について聞いてくる事もあった。
私は先生の話を理解する為に色んな本を読み、情報を仕入れ、人との会話にも耳をそばだて、分からない事について教えを請い、その為に人の会話の輪の中にも少しずつ入るようになっていった。
明日の卒業式を迎える今。やっぱり友達は居ないけれど、挨拶や軽い会話をする程度にはクラスメイトたちと馴染めた。これも全て先生のお陰である。
「大学は……」
「東京です」
「一人暮らし?」
「はい」
「親の目がないからって羽目外して遊んじゃ駄目ですよ。まったく遊ばないのも良くありませんが」
「留年しない程度には真面目に勉強します」
「……教師としては、流石にもうちょっと勉強してもらいたいなぁ」
「はぁい」
「間延びした返事をしない」
「はい、すみません」
ぴしりとお叱りの言葉を投げた後、一転して優しい声で
「藤野さん」
と私を呼んだ。
「色んな事を学んで下さい。色んな経験をして下さい。貴方は若い。どんなことでも出来る。良いことも悪いことも、みんな糧にして成長して下さい。貴方ならきっと出来ます。僕のちっぽけな手助けが無くても貴方はもう大丈夫でしょう」
「先生……」
「これからも、頑張ってください」
細い目を更に細くして、垂れた目尻を更に下げて、皺くちゃな顔で先生が笑う。
私は頭を下げて、泣きそうになるのを必死になって堪えた。
もう先生とは一緒に居られない。こんな風に優しく笑ってもらうことも、言葉をかけてもらうことも、珈琲を入れてもらうことも出来ない。
ねえ先生、本当は不安なんです。大学でちゃんとやっていけるのか不安で仕方ないんです。先生に会えない事が辛くて辛くて仕方ないんです。
……もしそう言って縋り付いたら、きっと優しい先生は困ったことだと言いながら甘やかしてくれるだろう。そうしてしまえば楽だろう。
でも先生は、頑張ってくださいと言った。
だから私は顔を上げた。
「はい」
胸を張って、誇るように。
先生が、眩しそうに目を細める。
「先生」
「何ですか?」
「私、先生が好きでした」
「おや、それは有難うございます」
「私いつか先生の奥さんみたいになりたいんです。先生みたいな素敵な人に愛される、そんな大人に」
「僕よりもっと素敵な男性はいっぱい居ますよ」
「そう?」
「ええ。でも僕より素敵じゃない男性もいっぱい居ます。そんな男に藤野さんはやれないので、僕の奥さんみたいな見る目を養って下さいね」
「そうします」
それから二人で、クスクスと顔を見合わせて笑った。
冷めて飲みやすくなった珈琲とともに暫く雑談を続ける。飲み終わった私のカップを先生は取り上げ、軽くゆすぐと私に戻した。
首を傾げる私へ、卒業のお祝いです、と先生が言う。有り合わせで申し訳ないけれど、とも。
此処で飲む珈琲は、いつもこのカップに入れて差し出された。有り合わせだなんてとんでもない、何よりの記念品だ。
両手でカップを抱きしめて立ち上がり、勢い込んで御礼を言う。私の様に驚いた先生を見て恥ずかしくなった私は、そのまま九十度に近い程に腰を折って頭を下げた。顔が見られない。
ふ、と息を吐く僅かな音が聞こえた。ついで頭の上に乗る重み。
撫でられている、と気付いて顔を上げれば、先生はとても優しい顔をしていた。
その掌はそのまま数回、ぽんぽんとあやすように叩き、するりと私の頬を撫ぜて離れていった。
「そろそろ帰らないと、バイトの時間に間に合わないんじゃありませんか? 藤野さん」
今日はバイトありません、とは言えななかった。はい、と頷くと、鞄にタオルで包んだカップを仕舞い扉へ向かう。
「さよなら、地井先生」
「はい、さようなら。藤野さん」
先生へ向き直り、会釈と共に別れを告げて準備室を後にした。
そういえば先生に触れたのは初めてだ。
頬に触れた先生の掌は、カサついていたけれど温かかった。
思わず頬に手を伸ばす。緩みそうになる涙腺は数回の瞬きでやり過ごした。
先生への恩と、ささやかな失恋の痛みと、これからへの不安と期待を抱え込んで。
私は明日、卒業します。