きゅう!
おにいちゃん。大好きなおにいちゃん。好きで好きでたまらなくって、でも私の思いは一方通行。わたしはおにいちゃんが大好きで大好きで大好きなのに、報われることは無い。その事実を噛み締めると、心臓がぎゅうとなる。前に飛び出すような、後ろへ引っ込むような、不思議な感覚が張り詰めて心を痛くする。そして、それを不愉快な靄が覆っていて、両肩から胸骨に嫌に倦怠感をもたらす。
いやだよおにいちゃん。
きゅるきゅる、するよ。心もお腹も全部全部、身体が悲鳴をあげるんだよ。やだよう…。
おにいちゃんの、おにいちゃんが、だから、代わりになりたくって。欲しいから。偽りでもいい。明日が無くなったっていい。賢いとかなんとか、言ってられない感情が支配するよう、感情に支配されちゃうんだよう…。
ねえ、わたしのかっこ可愛いおにいちゃん。わたしを代わりにして? お願いだから……。
そうして私は眠るように、というか眠ったまま、それっきり。
「…まあ、満の容態を聞く名目で行けばいいか」
枝子は誰に言うでもなく、しいて言うなら自分に呟き掛けて食堂へ向かった。
満が学校を休んだ。別におかしい事ではないが、枝子にとって満が休むのは割と問題である。彼が居ないと困る問題を抱えている彼女だが、一日二日なら、いやもしかしたらもう既に満の存在を克服しているかもしれないと思い直した。
どんな具合か確認してみようと後輩に合流したが――。
「こんにちは」
「こんにちは――あれ、あのう、お兄ちゃんは?」
兄が休みで。
「体調不良で休みらしい。夏子ちゃんも、新居ちゃんはどうした?」
「あう、あのう、お休み、かな?」
妹も休み。
「かな? とは」
「あ、んや、お休み、ですっ」
まさか、とは思うが二人は遂に…? 新居ちゃんがデレたのか…?
〜
朝早く。部屋の襖がすっと開いて満が部屋へ入ってくる。
そのまま寝ている新居に覆いかぶさり、違和感に気づき起きた新居の耳元でこう囁く。
「大好きだよ」
甘く、優しく、頭骨の裏が痺れるような声で。満は、見てくれは非常にいい。それが真面目な顔で口説きに来るのだ。ぶっちゃけたまったものではないだろう。
寝起きで抵抗の気力の少ない状態だ。新居だって女の子、イケメンの魅惑ボイスで告白されたらいちころでもなんら不思議はない。
「あに、き」
「お兄ちゃんって、呼んで」
「あ、う、…」
言葉に詰まるのを許さず、さらに耳に吹きかけるように催促する。
「新居」
「お、…おにい、ちゃん…。あ」
つい声にしてしまった自分に恥らいながら、何処かそれを喜んでいる新居。
それに応えるように唇を耳から頬へ移す満。柔らかくピンクに染まったそこへ一度キスし、そのまま新居の唇へ。
「んぁぅ……む」
ねとりと絡み合う互いの舌。普段なら何とも思わないはずの粘度の高い唾液。
初めてのことを楽しみながら、二人の距離は次の段階へ移行し始めていた。
満の指が新居の寝巻のボタンにかけられる。
〜
それは困る。非常に困る。
枝子の中で要らない考えばかりが巡っていく。不安が募り、枝子は昼食を放棄した。
「夏子ちゃん。私は早引けして様子を見に行こうかと思う」
「ほえ、あ、…あ、じゃあ私も」
困った妄想でいっぱいの枝子は口数少なに食堂を出て、早退の手続きをしに歩みを進めた。
早退しての、二人。
アパートに近づくにつれ、ひやりひやりと硬くなる夏子の表情。
対照的に、顎に左手を添え顔を赤らめている枝子。
会話もせずに扉の前まで着くと、枝子がインターホンを押した。
「…?」
返るものはなく、沈黙のみが居住まいを直すでもなくそこにある。
ノブに手をかけると、回る。
「鍵閉めてないのか? 入るぞ」
「え、先輩!?」
「構わんだろう」
がちゃり。
と引いて覗けたものは、手で頭を抱え、さらにそれを膝で挟む形で蹲っている満だった。掻き毟られてぼさぼさになった頭髪が、異常な空気を醸し出している。一目でおかしいことに気づいた枝子が、乱暴に靴を脱いで満に駆け寄る。
「おいどうした!?」
遅れてその様子を目にした夏子も慌てて満のもとへ。
ベルが鳴ろうが枝子が声をかけようが反応しなかった満が夏子の、お兄ちゃん、と呼びかけに反応した。
ちらり二人を盗み見るようにして、それでも顔を上げることは無かったが、満は細々と枯れた声で喋った。
「にーちゃんが」
「新居ちゃんがどうした!?」
それきり口を開かない満に痺れを切らし、枝子は立ち上がった。
「夏子ちゃんこいつを頼む」
枝子はすぐに新居の部屋へ向かって、襖を開け放した。
即座に鼻を突き喉を引っ掻く
臭い。
生の鉄の、濃い濃い臭気。立ち込めるそれに咽返るような胸焼けを覚え、同時にそれを超える衝撃的な視覚刺激を受けた。
新居が惨殺されている!
布団の上の新居には、胸を中心に刃物のような傷跡がぐしゅぐしゅと舞い、心臓の周りからは血が泡になって吹き出し乾いて固まった痕があった。
これはなんだ。夢か。違う、違わない、現実、いや違う、夢であってほしい、夢じゃない、夢だけど夢じゃないんだけど夢じゃないのか夢だ夢そうだこれは夢だ何かの冗談でドッキリでそう今すぐドッキリカメラが。
…カメラ?
ちらりと後ろを振り返る。
夏子と目があった。不安と恐怖に歪んだ目顔に枝子が告げる。
「夏子ちゃん。こっちに来てはいけない。すぐに…警察を呼んでくれ」
「え、え。あの、警察は…」
「早くするんだ」
枝子は襖を閉め、酷い臭いに吐きそうになりながら盗撮用のカメラを見上げた。つい先日取り付けたばかりのカメラ。もしかしたら何か映っているかもしれない。
何度か跳ねカメラを回収し、スカートのポケットに入れる。不自然に膨らむが、気にしている余裕はない。
枝子は再び後輩の…夜の恋人の酷い死体を見て踵を返した。
「あの、先輩」
「呼んだか?」
「…」
「そうか、私が呼ぼう」
顔面蒼白に、夏子が涙をこぼした。
夜遅く。警察から解放された二人がアパートへ戻ってきた。立ち入り禁止を表す黄色いテープが張り巡らされた安樂家の扉。
泊まる場所を無くした満は放心状態で、事情聴取はおろか会話もまともにせず、仕方なく警察に世話をされることになった。夏子は軽い混乱状態とされたがそのまま自宅へ返され、唯一まともに受け答えの出来た枝子も、家に帰ってからも涙を溢さずにはいられなかった。
「まいった、な。あうあう…泣いちゃうよ、あうあ、う、ぅうぅぅ…新居ちゃん、お兄ちゃぁん…」
亡き兄を想い、自然滂沱する枝子。
自分よりも三寸ほども背が高く、落ち着いていて、優しさがぶっきらぼうな言葉の端々に表れていて、それこそ理想の兄であった新居。
彼女がクラスメイトに、ふざけてお兄ちゃんと呼ばれているところを見てしまってから。新居は枝子の望む兄であり恋人だった。
…それが殺された!
誰に。何故。
警察から隠し通したカメラ。枝子にはそれを見る義務があるように感ぜられ、精神を疲弊させている己に鞭打ちテープを再生した。
タイマーが働き、二十三時からカメラが回り出す。
早送りをし、ざらざらとした倍速の映像を見つめる。
そこに、犯人は映っていた。
一旦止めて、巻き戻し通常速度で再生をする。
三時前。画面外の襖の開く音がし、犯人が入ってくる。手には、包丁のような刃物。
「あうあう…誰?」
暗視用にも暗くて見えない箇所はある。
ゆっくりと牙を振りかざし、突き刺す瞬間。どすりという低い音とびくんとはねる新居の身体。抜いて液体にぬらりとした牙。ぶくぶくとした血の泡。ひくひくと痙攣する新居に何を思ったか、犯人は殺傷行為を続行した。
どすりどすりどすり。
半分以上は骨に弾かれているのだが、最初の一撃が持ち手部分ぎりぎりまで刺さっている為に全てが全て必殺だった。
どすりどすりどすりどすどすどすどす。どすどすり。
ミンチ手前の状態の肉。服が剥がれ刺し痕がはっきり見える肉。溶けたように血と混ざりあう肉。
そこで犯人は、はっと気が付いたかのように得物を取りおとした。誰も居ない辺りを誰か居ないかと確認するように見回し、不意に枝子と目があった。液晶越しの犯人の顔は、カーテンから漏れる月明りに照らされてはっきりと見えた。
夏子。
カメラは見えなかったのだろうか。犯人、いや夏子は部屋を飛び出す。玄関を開閉する音が聞こえ、静寂が咲いた。
「嘘だ、よ。…あうあ、うあ」
巻き戻し、こちらを見る夏子で停止。
何度見ても、それは夏子。
ああそうか。
枝子は理解した。
自分が新居を兄として恋人として慕ったように、彼女もまた満を、実の兄か、やはりそれ以上に慕い添いたかったのだ。
そして、そのためには新居が邪魔だった。
だから殺した。
ふと枝子が気が付けば、暗闇と夏子が目の前に横たわっていた。
昼過ぎに嗅いだのと同じ酷い臭いと共に、新居と同等かそれ以上に惨い死体となった夏子。手に持っているねっとりと濡れた包丁。滴る粘着性のある液体。暗くて見えないため、判断に遅れが生じる。
思考する前に、疑問が口をついて出た。
「え、なんだこれ」
小声であったそれは、短いこだまを作る。驚く程に響いた自分の声にはっとして、枝子は誰も居ないはずの辺りを見回した。
枝子がいるのは、見た事が無い部屋、夏子の部屋だった。
夜の帳が。外で鳴く虫の音が。今いる場所の静けさを表している。心臓の音が聞こえるくらいに。耳まで上ってくるのが分かる血液を感じながら、夏子の死体を見下ろした。
未だ溢れ続ける生鉄の臭い。むき出した白目。汚く皺が寄り、だらしなく開いた口元。そこから垂れる血。
どうしよう――急いでここから離れなくては。
ばれたらとんでもないことになる。これはあってはいけない事件だ。逃げなくては。
迅速に、決して間違わずに。唾を飲み込み自分を責める闇と静寂とを打ち壊そうと行動を起こしかけた枝子だが、
がちゃり。
開いた玄関。
ばくり! と痛くなった心臓、ぎょっとして振り向くと、開け放たれた襖を越え今開いた扉越しに満と目があった。荒い息を極力抑えるが、興奮は醒めやらない。
「…夏子ちゃん」
靴を脱いであがってくる満は、枝子を夏子と勘違いしている様だった。
「ごめん、夏子ちゃん、あのさ、……!?」
臭いに気が付いたか。
「え? 夏子ちゃん、なに、この臭い?」
「み、満――」
口を開いてしまってから悟ったが、もう遅い。
「え? 枝子? じゃあ、え?」
「違う、待て落ち着いて聞いてくれ」
満は。
「おい、お前、新居を?」
「違うんだ新居はこいつが」
「じゃあこの新居はなんなんだよ」
「はあ? おい待てこいつは新居じゃない聞け」
「枝子お前がやったんだな…!?」
「違うというに私は」
「てめえ二度も新居を殺しやがって…!」
「何を言っている聞けというのが分からないのか!」
枝子の手元に気が付き。
「!? お前、それ包丁か」
「いっ! いや違うんだ! 本当に、頼む話を」
「おい! うわ危ないやめ、あっ!」
枝子の手から得物を奪うと。
「よくも、よくも新居を…。俺の妹を…一度ならず、二度までも…!」
「危ない止めろ! やめろったら待て! 話を」
「しっ…! し―――」
枝子を新居や夏子と同じようにころした。
そして夏子を…新居を抱き犯し泣きながら。
うつ伏せに、新居に覆いかぶさるようにして。
二人の胸の間には、兄に剥く牙。




