処刑される前に三問だけよろしいですか? 前世弁護士の私は、絶対に嘘をつかない死者を反対尋問します
殺された令嬢の幽霊が、私を指した。
「エレナ・フォルス様が、私を殺しました」
この国で、正式に呼び戻された死者は嘘をつけない。
だから王立法廷に集まった誰も、幽霊の言葉を疑わなかった。
フォルス伯爵令嬢であり、王太子の婚約者である私自身を除いて。
「聞いたな、エレナ」
王太子レオン殿下が立ち上がった。私を見下ろす顔には、悲しみと怒りより先に、もう判決があった。
「ミレイユ・アーヴェルを殺した者を、王太子妃に迎えることはできない。ここに婚約を破棄し、王国法の最重刑を求める」
左手の薬指が冷えた。
そこには、つい先ほどまで未来の約束だった指輪がある。触れようとして、やめた。鎖につながれた手が震えていると知られる方が、まだましだった。
半透明のミレイユは、召喚陣の中央に立っていた。文書塔から落ちて亡くなった若い子爵令嬢。王宮の救恤金を扱う文書係で、私が予算会議で何度か話を聞いた相手でもある。
彼女の顔にあるのは勝ち誇った笑みではない。
恐怖と、私へのまっすぐな憎しみだった。
嘘ではない。
だからこそ、厄介だった。
「殿下」
喉が乾いて、最初の声は少しかすれた。
「私の弁明を聞くおつもりは、ないのですか」
「死者が名を告げた。何を説明する」
死者は絶対に嘘をつけない。殿下には、私の弁明を聞く理由がない。
疑われたことよりも、私の答えは要らないと決められたことの方が痛かった。
傍聴席の視線が一斉に変わる。王妃教育で予算の数字に口を出し、陰では悪役令嬢とまで呼ばれていた私だ。厳しすぎる女なら、人を殺しても不思議ではない。そんな筋書きが、音もなく出来上がっていく。
「記録官。死者の証言を確定せよ」
殿下の命令に、召喚陣の脇にいた黒衣の男はすぐには従わなかった。
侯爵家の次男で、宮廷死霊術師兼記録官でもあるエドガー・ラング卿。
彼は銀の記録針を、死者の声を刻む反響晶へ触れさせたまま、落ち着いた声で確認した。
「ただいまの質問は、『あなたを殺した者は誰ですか』。回答は、『エレナ・フォルス様が、私を殺しました』。第一回答として保存します」
「余計な復唱はよい」
「逐語記録が私の職務です」
晶石の脇に「召喚経過要約」がある。魂の定着から正式質問までを含む、今日の召喚記録の要約だ。
前世の裁判実務では、法廷前に証人と話を整理する「証人テスト」があった。必要な準備だが、質問者の筋書きが記憶に入り込む危険もある。
まして死者は嘘をつけない。誰も打合せを疑わない。その前提を崩さなければ、私の未来はない。
「その要約を見せてください」
殿下の首席書記官が、私と書面の間へ入った。
「被告人に閲覧権はありません。要旨は、死者があなたを識別した。それだけです」
「要旨ではなく、質問文を伺っています。正式な第一問より前に、ミレイユ様へ何を見せ、何と話しましたか」
「言葉遊びで死者を侮辱するおつもりか」
「質問が分からなければ、答えの意味も分かりません」
首席書記官の眉がわずかに動いた。
エドガー卿が初めて私を見た。灰色の目には同情も信頼もない。ただ、私の言葉を聞き落とすまいとする注意があった。
「完全な逐語原記録は存在します」
「ラング卿」
首席書記官の声が硬くなる。
「今は要約で足りると、殿下がお決めになった」
「逐語原記録を消せとの命令ではありませんでしたので、封印保存しています」
王命とは、異議申立て先のない依頼書に近い。前世でも厄介な依頼人はいたが、首を落とす権限まで持つ者はいなかった。
「王国古法に、死霊証言だけで死刑または身分剥奪を受ける者の質問権があったはずです」
首席書記官が笑った。
「百年以上使われていない死文です」
「廃止されたのですか」
「使われていないと言った」
答えになっていない。嘘をつかない死者へ、質問を重ねる者はいなかったのだろう。だが、こちらも問えるなら望みはある。
私はエドガー卿へ顔を向けた。
「技術上、残りの回答はありますか」
彼は反響晶の環を確認した。
「正式な回答は七つまで。今の告発が第一回答です。残りは六つです」
「古い質問権は、今も有効ですか」
「条文は現行法典に残っています。死霊院の技術規則とも矛盾しません」
「ならば、そのうち三つだけ使わせてください」
「残る三つは?」
「一つはミレイユ様自身のために。二つは使いません」
幽霊の目が揺れた。
殿下が机を打つ。
「時間稼ぎだ」
「三問で終えます」
私は震える指を握り込み、召喚陣の中の被害者を見た。
「ミレイユ様に、三つだけ質問させてください」
◇◇◇
白い窓口の向こうで、とんがり帽子の神は、私の書類に「凡人枠」と判を押した。
『弁護士ですか。異世界では使いどころがなさそうですね』
『誰も話を聞きたがらない人の隣に座り、記録を読み、質問を削る仕事でした』
神――ツクヨとか名乗ったその青年は「地味ですねえ」と首をかしげた。
同じ言葉の違う意味を分ける地味な技能が、今は命綱だ。この事件の成功報酬は私の命だった。
短い記憶から戻ると、エドガー卿が召喚陣の結界を調整していた。
「一問につき、一回答です。複数の事柄を尋ねる場合も、答え方が曖昧にならないようにしてください」
「承知しました」
「急ぐ必要はありません」
殿下の苛立ちを背に受けながら、彼はそう言った。
急かさない。
それだけのことが、今はひどく珍しかった。
私はミレイユの名を呼んだ。
「ミレイユ様。おつらい記憶を尋ねます。答えられる範囲で結構です」
「私は、あなたに殺されたのです」
「その思いを否定する前に、確かめさせてください」
第一問。
「落とされる前に、犯人の顔を直接見ましたか」
ミレイユはすぐに答えなかった。
薄青い指が胸元へ上がる。何かをつかもうとして、すり抜けるように止まった。
エドガー卿は沈黙を埋めなかった。記録針まで静止させ、彼女の言葉を待った。
「……いいえ」
法廷のどこかで椅子がきしんだ。
「顔は、見ていません。文書塔の回廊は暗くて、相手は背を向けていました。振り返った時も、襟と影に隠れて……」
第一のひびが入った。
死者は私を名指しした。
けれど、私の顔を見てはいなかった。
「それでも、エレナだと分かったのだろう」
殿下が言う。
「次を聞かせてください」
私はミレイユから目をそらさなかった。
第二問。
「誰だと思ったかは後にして、実際に見たもの、聞いた言葉、感じた香りを、その順で教えてください」
ミレイユは目を伏せた。
「見たのは、濃い青の儀礼外套です。王太子妃になる方が式典で着るもの。肩に銀の紋章、胸に月形の留め具がありました。聞いたのは、『二冊目の帳簿をどこへ隠した』という言葉です。高い襟越しの、くぐもった声でした。私は答えませんでした。腕をつかまれて、留め具を握って……それから、足が浮きました。感じた香りは、鈴蘭に似た花の油です。あなたが通った後にも、同じ香りがしたことがありました」
ミレイユの輪郭が乱れた。
私は質問を続けず、彼女が落ち着くのを待った。
私の外套だ。王家の婚約者として仕立てられ、祝祭以外は宮廷衣装庫に預けてある。儀礼用の直線的な仕立てで、肩から足元まで身体の線を隠す。
見たのは外套。
聞いたのは帳簿を探す言葉。
嗅いだのは花油。
そこに私の顔も、私の声もない。
ミレイユは、同じ第二回答の続きを自分から付け加えた。
「私は、外套と香りで、あなただと思いました」
「それから、呼び戻された時に、あなたの絵を見て……そうだと」
幸運だ。前世で、容疑者一人だけを見せる「単独面通し」は暗示が強く、記憶をその顔に結びつける危険がある。この国は私の肖像だけを見せた。
第三問の答えが、半分出た。
けれど私は、曖昧なまま終わらせなかった。
「私からの最後の質問です」
首席書記官の唇が薄く結ばれる。
「あなたが死後、初めて私の名を口にするより前に、その名を告げ、肖像を見せた生者は誰ですか」
ミレイユの顔が上がった。
視線が私を通り過ぎ、法廷中央の書記官席へ向かう。
「首席書記官様です」
誰も声を上げなかった。
その静けさの中で、反響晶の記録音だけが小さく鳴った。
「首席書記官様が、青い外套を着られるのはエレナ様だけだと説明し、肖像を見せて、私を襲ったのはこの方かと尋ねました。私は……そうだと思う、と答えました」
「そんな質問はしていない!」
首席書記官が初めて声を荒らげた。
「死者は嘘をつけないのでしょう」
私が返すと、彼の顔から色が引いた。
ミレイユは両手を震わせた。
「では、私は、間違えて……エレナ様、私はあなたを――」
「謝らないでください」
私は鎖の音を立て、一歩だけ召喚陣へ近づいた。
「殺されたあなたが、殺されかけている私へ謝る必要はありません」
「でも、私の言葉で」
「あなたは、見たものと、そこから本当だと信じたことを答えました。責任があるのは、あなたの記憶に私の名を置いた生者です」
ミレイユの憎しみが消えたわけではない。
その中に、初めて迷いが差した。誰かに与えられた名前から、彼女自身の記憶を取り戻すための迷いだった。
「死者を辱める詭弁だ」
殿下の声が震えている。
エドガー卿が静かに首を振った。
「三問とも技術規則と古法に適合し、知覚、記憶、本人の判断、評価を分けています」
前世の尋問規則にも沿う。
「お前はエレナを信じるのか」
「結論を決めてはおりません」
エドガー卿は、私ではなく反響晶を見た。
「ただし、死霊院記録官として、逐語原記録を確認せず刑を執行することには反対します」
味方だとは言わない。
それでも、私の質問する権利を奪わせない。
その違いを、私はよく知っていた。
法廷を預かる老裁判官が、長い沈黙の後に木槌を一度鳴らした。
「執行を停止する。被告人の鎖を外し、死霊院と王宮の記録を封印せよ。次の審問まで、エレナ嬢は監視下に置く」
鉄が手首から外れる。
私はまだ震える指で婚約指輪を外し、法廷書記へ渡した。
「殿下へお返しください」
左の薬指には、白い跡だけが残った。
エドガー卿は反響晶を布で覆い、ミレイユへ一礼した。
「あなたのための一答を保全します」
幽霊は、今度は私ではなく、彼の言葉を確かめるように見つめた。
◇◇◇
王立死霊院の記録室は、墓地より書庫に似ていた。
老裁判官の検証許可状により、二名の監視官に加え、調査先ごとの管理者が立ち会った。
棚には反響晶、質問票、封印簿、召喚回数台帳が並ぶ。魂を呼ぶ魔法が改良されても、質問票は百年前のままだった。
「閲覧前に説明します」
エドガー卿は封印箱へ手を置いた。
「召喚開始から第一問までの声を再生します。ミレイユ嬢の恐怖も含まれます。途中で止めることもできます」
「見ます」
「承知しました。開封にはあなたと私、二人の署名が必要です」
彼は羽根筆を差し出した。私が書き終えるまで、箱へ触れない。
法廷では、私の答えは誰にも要らないものだった。
この人は、箱一つ開けるにも私の意思を待つ。
封印が解かれ、淡い光が記録室へ広がった。
『魂の定着を確認しました。正式質問はまだ始めません』
『確認だけだ。亡くなる前に見聞きしたことを、覚えている順に話せ』
『青い、式典用の外套……鈴蘭のような油。顔は見えませんでした。二冊目の帳簿を出せと言われて……』
正式質問前の聞き取りだ。反響晶は召喚時から録音するが、回答数は質問開始後だけ進む。
『青の儀礼外套を着用できるのは、王太子殿下の婚約者だけだ。この肖像の女性、エレナ・フォルスがあなたを襲ったのだな』
誘導尋問。質問者が望む答えを、質問自体が相手へ知らせている。
『……そうだと思います』
その直後、正式第一問に、ミレイユは私の名で答えた。
召喚経過要約では、「顔は見えない」「思う」が消え、「死者はエレナ嬢を明確に識別した」とされていた。
「これは、あなたが作った要約ですか」
「いいえ。私は逐語原記録と、『誘導の可能性があるため単独で人物を特定する根拠には不適』という意見を提出しました」
エドガー卿は別の封書を見せた。封蝋は割られていない。
「首席書記官が審問準備の権限で要約を作り、私の意見書は、判断を遅らせる技術的異論として退けられました」
「それでも逐語原記録を残した」
前世の供述調書も逐語録ではない。聞き取りを、一人称の文章へ要約する。
『私は確かにエレナに襲われました。外套を着られるのは彼女だけだからです』
そんな本人の言葉が出来上がる。公判外の供述書面は例外を除き原則として証拠にできない。
「記録官が逐語原記録を捨てたら、職名の半分がなくなります」
乾いた言い方に、私はほんの少し笑った。
「残り半分は死霊術師ですね」
「そちらも、死者の言葉を勝手に増やす職ではありません」
彼はミレイユを、証拠番号ではなく名前で呼ぶ。
そのことが、妙に心に残った。
次に向かったのは宮廷衣装庫だった。
私の濃青の儀礼外套は、祝祭用の硝子箱に戻されていた。胸元の月形留め具だけが、不自然なほど新しく磨かれている。
出納簿には、犯行当日の記録があった。
午後八時十分。持出者、王太子首席書記官。理由は「翌朝の式典に備え、王太子紋の点検」。返却記録はなく、午後九時四十分に修繕室へ直接引き渡し。
文書塔の落下防止結界は、強い力で破られると時刻を残す。当夜は午後九時二十六分だった。
ミレイユの遺体が発見されたのは、午後十時十二分だった。
衣装係が持ってきた処理油は、鈴蘭に似た香りがした。防虫と艶出しのため、宮廷衣装庫が管理する儀礼服すべてに使うものだという。
私固有の香水ではない。同じ香りが私の後に残ったのは、その外套を着る身分だったからだ。
現場封印箱には、銀の留め具の半片が保管されていた。
修繕室では、交換した金具を当日分の廃材袋へ封印する決まりがある。その袋には、同じ月形留め具のもう半分が残っていた。
エドガー卿が私へ目で確認してから、二つの封印を開いた。
「触れずに照合します」
彼が術式をかざすと、二つの断面が青白く浮かんだ。欠け方も彫金の線も一致し、合わせれば一つの月形になる。
修繕簿には、さらにまずい一文があった。
午後九時四十二分。首席書記官の指示により緊急修理。理由は「月形留め具の片側を紛失。夜明け前に交換」。
「結界破断から十六分後です」
私は時刻を指でたどった。持出しは午後八時十分、結界破断は九時二十六分、修繕室への引渡しは九時四十分。その二分後には、半片の交換を命じている。
結界破断時の管理者は首席書記官。その後、彼は同じ召喚の正式質問前に私の名を与え、要約から不確かな部分を削った。別々の記録が一本の線になり始めている。
ただし、殺人の動機がまだない。
「二冊目の帳簿です」
「ミレイユ様は救恤金の文書係でした。表の支給簿と支払命令を照合していた。犯人が『二冊目』と呼んだのは、その検算記録です」
「保管場所に心当たりは?」
「彼女は以前、私にこう言いました。支給されなかった人の名ほど、上の者は見たがらない、と」
救恤局の書庫で、不支給となった戦没者遺族の申立書を調べた。
棚の最下段、「未交付・再審査」の箱だけが、見かけより重い。
底板を外すと、薄い照合帳が出てきた。
二冊目は、ミレイユが表の支給簿と支払命令を照合して作った検算記録だった。各項目には受給者、金額、控え番号、実際の送金先が写されていた。
表では遺族や孤児院へ渡ったはずの金が、支払命令では臨時費と架空業者へ流れていた。原本には首席書記官の承認印と右上がりの筆跡があり、照合帳の控え番号は、彼の執務室に残る支払命令控えと一致していた。
最後の頁には、ミレイユの小さな字で一文だけ記されていた。
『エレナ・フォルス様へ。総額が合いません。明日の予算会議でお渡しします』
私はその文字を、すぐには見続けられなかった。
彼女は私を陥れようとしたのではない。
助けを求めようとして、殺された。
「休みますか」
エドガー卿が尋ねた。
「いいえ。封印してください。今度こそ、一文字も落とさずに」
彼はうなずき、照合帳を証拠布へ包んだ。
「法廷で、私が逐語原記録を提出します。職を失うとしても」
「それは困ります」
「なぜです」
「正確な記録官がいなくなると、私の仕事が増えます」
一瞬だけ、彼の口元が緩んだ。
「では、残れるよう努めます」
封印を終えた後、エドガー卿は私を見た。
「法廷で、ミレイユ嬢を責めませんでしたね」
「責める相手を間違えたくなかっただけです」
「多くの者は、自分が助かるなら証人を壊します。あなたは、彼女の言葉まで取り戻そうとした」
褒められたのは弁護士としての技量ではなかった。
当たり前でありたいと思ってきた部分を、彼は見ていた。
胸の奥に、指輪とは違う熱が灯った。
「明日、同じ法廷を開くよう求めます」
私は封印箱へ手を置いた。
「断罪が公開なら、訂正も公開でなければなりません」
◇◇◇
翌日の王立法廷には、前日と同じ傍聴人が集められた。
私は鎖のない手で、同じ被告人席に立った。
「なぜ被告人をそこへ立たせる」
殿下が問う。
「ここで犯人と呼ばれました。ここで違ったと記録していただくためです」
首席書記官の執務室と印章は封印され、本人は二人の衛兵の監視下で自席にいた。
エドガー卿が反響晶を法廷中央へ置く。
「召喚開始から第一問までの逐語原記録を再生します」
「顔は見えない」「そうだと思う」。名と肖像を先に示した後の告発が流れた。
続いて、書面要約。
『死者はエレナ嬢を明確に識別した』
「要約では二つが消え、『明確に』が足されました。死者ではなく、足された確信を退ければよいのです」
「記録の簡略化だ。緊急の審問では当然の処理だ」
「では、物の記録も簡略化されたか確かめましょう」
衣装庫の出納簿を示した。
「外套が持ち出された午後八時十分、私は王妃教育棟で会議中でした。私が衣装庫から受け取った記録も、その後私へ引き渡された記録もありません」
「王太子紋を点検するためだ」
「点検のためなら、なぜ修繕室へ直接運んだのですか」
「香りも私個人のものではなく、衣装庫が管理する儀礼服共通の処理油です」
「そして、これはミレイユ様が最後につかんだ留め具の半片です」
エドガー卿の術式で、現場に残った半片と、修繕室の廃材袋に残されたもう半分が法廷の壁へ拡大された。
二つは、欠けた月が満ちるように重なった。
「ミレイユ様は、この外套の留め具をつかんだと証言しました。現場の半片は、その留め具です」
「点検中に留め具を壊し、片方を落としたのだ。誰かが拾って現場へ持ち込んだのだろう」
「あなたは午後八時十分に外套を持ち出し、午後九時四十分に修繕室へ直接渡しました。その間、受領印は一つもありません」
「落下防止結界が破断したのは、午後九時二十六分。その時も、出納簿上の管理者はあなたです」
「ですが、誰かに外套を渡した受領印はありません。結界破断の十四分後に修繕室へ持ち込み、その二分後には交換を急がせています」
首席書記官の手が机の縁をつかんだ。
大声の断罪より、受領印のない九十分と、ぴたりと合う二つの断面の方がよく働く。
「それでも、殺害の動機にはならない」
「こちらが動機です」
照合帳の封印が解かれた。
救恤金の支給簿、支払命令原本、ミレイユの照合帳。三つを突き合わせ、一頁ずつ意味を説明した。
亡くなった兵士の妻へ届くはずの金。
冬を越す孤児院へ届くはずの薪代。
それらが、首席書記官の承認した支払命令で消えていた。
「印章は盗まれた」
「印章だけではありません」
私は支払命令の筆跡、照合帳の番号と一致する支払命令控え、予算会議で私が質問した臨時費の増額記録を示した。
「ミレイユ様は照合帳を翌朝私へ渡す予定だった。あなたはそれを奪うために襲い、私の外套と誘導質問で罪を着せた」
「推測だ!」
「殺害の場面を見た生者はいません」
私は認めた。
「だからこそ、一つで決めません。出納記録、結界時刻、留め具、修理指示、照合帳、支払命令、逐語原記録。別々の証拠が、同じ人へ収束しています」
エドガー卿が追加の封書を掲げた。
「召喚経過の確認事項には、首席書記官の自筆修正があります。『最後に見たものを聞く』から、『エレナ・フォルスの肖像を示して確認する』へ変更されています」
首席書記官は殿下を見た。
「私は殿下のために、迅速な正義を――」
「私の名を盾にするな」
レオン殿下の声は低かった。
昨日、私を切り捨てた人と同じ声だ。
けれど今度は、結論を急がなかった。
老裁判官が木槌を打った。
「衛兵。首席書記官を拘束し、証拠を保全せよ。正式な裁判へ付す」
衛兵が両腕を押さえた。自白はなかったが、証拠を保全し、正式な裁判へ付す理由は十分だった。
老裁判官は続けた。
「エレナ・フォルスに対する本件の告発には理由がない。監視を解く」
殿下は立ち上がり、法廷全体へ向き直った。
「昨日、私は死者の名指しだけでエレナ・フォルスを殺人犯と断じ、婚約を破棄し、最重刑を求めた」
言葉の途中で、拳が震えている。
「召喚開始時の逐語原記録を確認せず、本人の弁明も聞かなかった。私の告発を撤回する」
私は彼を見返した。
「もう一つ、お願いします」
「何だ」
「昨日の断罪と同じ法廷記録、同じ公示板、同じ使者で訂正してください。誤りだけ大声で、訂正を小声にはしないでください」
「そうする」
殿下はうなずいた。
「また、死霊証言に関する私の監督権を停止し、審査を王室評議会へ委ねる。ミレイユ嬢の遺族と、エレナに、王太子として正式に謝罪する」
謝罪は、失われた信頼を戻す魔法ではない。
それでも、責任を記録へ残す意味はある。
老裁判官が私を見た。
「エレナ嬢。保全した一答を、ミレイユ嬢本人に委ねてもよいか」
「はい。そのために残しました」
反響晶の布が外される。
ミレイユが、淡い光の中に現れた。
召喚から二日目。一度きりの接続は弱まり、今日術を解けば、もう彼女を呼び戻せない。
エドガー卿は証拠番号ではなく、名を呼んだ。
「ミレイユ・アーヴェル嬢。これを最後の質問とします。あなた自身が、記録へ残したいことを教えてください」
ミレイユは傍聴席を見渡した。
最後に、照合帳へ目を向ける。
「お金を、本来受け取るはずだった人へ返してください。私は、そのために数字を写しました」
声は震えていなかった。
「母には、仕事を投げ出したのではないと伝えてください。それから、最初の私の言葉を残してください。顔は見ていなかったことも、怖くても帳簿を渡さなかったことも」
彼女は私を見る。
「エレナ様。あなたを犯人だと呼んだ記録だけで、私を終わらせないでください」
「約束します」
「ありがとうございます」
謝罪ではなく、願いと礼を残して、ミレイユの姿は淡くほどけた。
長い別れの演出はなかった。
反響晶に、最後の言葉が正確に残った。
後日の裁判で、元首席書記官は殺人、横領、証言手続の妨害について有罪となった。失われた救恤金は資産の没収と国庫補填により、遺族と孤児院へ返された。
ミレイユの名は、誤った告発者ではなく、不正を止めた文書係として救恤局の記録に刻まれた。
◇◇◇
三か月後、王国の死霊証言規則は三つ変わった。
質問と回答は逐語で保存し、質問前に示した氏名、肖像、推測も、要約に先立って完全保存すること。
死刑や身分剥奪が予想される審問では、少なくとも三回答を告発された者の質問用に留保すること。
死者の証言だけで有罪とせず、死霊証言から独立した物証または記録による補強を必要とすること。
私は王太子妃候補ではなく、死霊審問で告発された者を弁護し、質問権の行使を支える王立弁護官として、制度整備に加わった。
派手な魔法は使えない。
質問票の余白を増やし、記録時刻を標準時計にそろえ、要約から落ちた言葉を拾う。前世と同じく、地味な仕事だった。
ある午後、レオン殿下が私の執務室を訪れた。
監督権停止の期間中、彼はミレイユの遺族への補償と、救恤局の監査を自ら進めていた。逃げずに責任を取っていることは認めている。
「エレナ」
彼は机の前で立ったまま言った。
「婚約破棄は、誤った証言を前提にしたものだ。評議会は、双方が望むなら復活できると判断した」
「殿下は、望んでおられるのですか」
「望んでいる。今度こそ、君の言葉を聞く」
遅すぎた問いでも、尋ねたこと自体は軽んじたくなかった。
私は指輪を返した日の、冷えた薬指を思い出す。
「謝罪は受け取ります。けれど、婚約は戻しません」
殿下の顔がこわばった。
「私があなたを信じなかったからか」
「それだけではありません」
私は静かに首を振った。
「私に尋ねなかったからです。私の答えは要らないと決めた時点で、私たちの関係は終わりました。無実になったから元へ戻れと言われても、あの場所はもう、私の居場所ではありません」
「……そうか」
「はい」
殿下は反論せず、一礼して去った。
扉が閉まった後、私はようやく肩の力を抜いた。
夕刻、死霊院の中庭へ出ると、エドガー卿が時計塔の下で待っていた。
この三か月、彼は約束を守り、意見が違っても答えを待った。普通の敬意を欠かさない人は、劇的な愛の言葉より特別だった。
「新しい質問票ができました」
質問票には、「事前に与えた氏名・肖像・推測」という新しい欄がある。
「百年ぶりの改訂ですね」
「あなたが、空欄を見つけましたから」
「仕事の報告なら、明日でも」
「仕事ではありません」
彼は紙をたたんだ。私を無条件に信じなくても、私にもミレイユにも答えを急がせなかった。
「エレナ嬢。断られても、あなたの職務も権限も、私の態度も変わりません」
彼はそこで黙り、私が聞く準備をするのを待った。
「事件がなくても、あなたに会いたい。私と、結婚を前提にお付き合いいただけますか」
胸の奥が痛いほど熱くなった。
法廷では、私の答えは要らないと決められた。
この人は、どちらの答えでも変わらないと約束し、それでも私に尋ねた。
「はい」
命を守った時より、小さく震えた。
「事件がなくても、私もあなたに会いたいです」
エドガー卿は安堵を隠さず笑ったが、私へ触れようとはしなかった。
返した指輪の跡は消えている。
誰かに決められた未来も、そこにはない。
私は空いている左手を、自分から彼へ差し出した。
空欄だった未来に、誰にも決められていない「はい」を私の手で書き込むために。
「嘘をついていない証人も、見間違いや後から与えられた情報の影響を受ける」という着想を、死霊証言のある異世界へ置き換えました。
刑事裁判でも、取調べなどで作られた供述調書、つまり法廷外の供述を記した書面は、法律上の例外を除き、その内容が真実であることを証明する証拠にはできないのが原則です。人の記憶や言葉は、質問の仕方や後から与えられた情報で揺らぎます。だから、最初に何を見聞きしたか、どんな質問を受けたか、法廷で問い直せるかが重要になります。
大切なのは死者を疑って黙らせることではなく、最初の言葉と質問を残し、物証とともに確かめること。凡人枠シリーズの一作ですが、本作だけで完結しています。お読みいただきありがとうございました。




