あたたかい雨
『あたたかい雨』
【一】
朝から気温は温度計の針をぐんぐん押し上げ、午前十時過ぎには軽く三十度を越していた。雨らしい雨も降らず、今年は空梅雨で終わり夏場の水不足が話題にのぼるかも知れない。肌を射すような日差しの中、二階のベランダで布団と洗濯物を干し終えると、奈緒子は急いで階下に降りた。それからリビングに入るやいなやクーラーのスイッチを入れ、汗ばんだ顔を冷風に向けた。冷風が奈緒子のうなじに絡んだ巻き毛を軽やかに遊ばせている。明日から七月だと思うだけでも暑さが倍増するようだった。上村奈緒子は二十二歳。この四月に上村亮と結婚したばかりの新婚ホヤホヤである。大学に入った早々、大学の先輩だった亮から声をかけられた。可愛かったから他の男に取られないようにと交際を申し込んできたという。奈緒子は熟知する間もなく強引な亮に釣られて付き合い始めた。奈緒子の大学卒業を待って結婚したので働いた経験はない。結婚と同時に東京から埼玉県の川越市に越して来た。当初は実家のある東京から遠く離れたという意識が強かったが、何度か往復するうちに慣れも手伝ってか感じなくなった。最寄り駅である南大塚駅近辺はマンションや住宅そしてスーパーや各種病院などがあり、近くの農家では地元の採れたて野菜等が安く売っている。まだ住み始めて三か月くらいだが、とても住み易いと思える場所になった。
川越は昔から小江戸と呼ばれ、中山道の最初の宿場町として栄え、蔵作りの町として今もその家並みが保たれている。毎年十月には川越祭りが行われ、十数台の伝統ある山車が各町内から繰り出される。山車同士のひっかわせとは、路上で出会った山車が、各山車ごとに違う御囃子を向かい合って囃し立て、相手の御囃子に引きずり込まれた方が、道を譲るということになっている。その御囃子の共演は圧巻であり、迫力満点で一見の価値は充分にあるとの事は亮からの受け売りだが、奈緒子も十月の川越祭りを心待ちにしている。その歴史ある町に引っ越してきたのは、亮がどうしても一戸建ての家がほしいと言い張ったからだ。亮は二十五歳。新宿に本社を置く北洋物産に勤めている。商社としては中堅に位置し、亮は営業部に属していた。亮の収入でも無理なく組めるローンと、会社のある新宿駅まで一本で行けるからと亮が見つけてきた家だった。奈緒子は多少の不便さを考えたが、結婚と同時に新しい家へ住めるのは嬉しかった。これでローンがなければなんて贅沢なことを思っている。落ち着いたら奈緒子は働きたいと思っているが、果たして亮が賛成してくれるかどうか分からなかった。何しろ昭和の亭主関白に憧れているようなところがある、あの歌のように。令和の時代にと呆れていた奈緒子は、それでも絶対俺が守るという単純で分かりやすいところが好きだった。
乾いた喉を麦茶で潤し、リビングのソファに腰を下ろすと同時に電話が鳴った。奈緒子はもうと思いつつ、よいしょと軽く声を上げ立ち上がり、部屋の隅に置かれた電話を取った。普段は簡単に受話器を取らないが、反射的に取ってしまった。
「新しく出来たエステサロンのご紹介で…」
受話器の向こうで、女性が一方的に捲し立てた。折角くつろごうと座った途端にこの電話、奈緒子はムッとしてすぐに電話を切った。受話器を置いてソファに戻りかけた時、また電話が鳴り出した。今度は受話器を取らずにいると留守番電話に切り替わった。留守電には女性だが名乗らず、『あなたのご主人は浮気をしています』と、抑揚のない一本調子な話し方で言い、すぐに切れた。その女性が籠ったような声を出したのは、口にハンカチでも当てていたのかもしれない。奈緒子は一瞬、相手が何を言ってるのか分からず、留守電の赤い表示と録音一件の表示を見つめたまま立ち尽くしていた。
「悪戯?亮が浮気?そんな」
奈緒子は再びソファに座り麦茶を飲んだが、喉の乾きは潤わなかった。
午前にかかった電話の後、すぐ亮のスマホに電話しようかと思ったが仕事中だし、多分悪戯だろうと自分を納得させていた。亮のことだから「新婚だから、からかわれたんだよ」と笑い飛ばすに違いないと思ったからだ。仕事が終わった頃だろうかと六時過ぎて亮のスマホに何度かけても、いつも留守電に繋がってしまった。不安になった奈緒子は、思い切って会社に電話を入れた。電話に出た女性社員は、今日は定時でお帰りになりましたと。じぁもうすぐ帰ってくるだろう。奈緒子は自分を安心させようと夕食の支度を始めた。しかし、九時を過ぎても十一時になっても亮は帰らなかった。もうスマホは電源が切れた状態になっている。益々、浮気の二文字が頭の中で回っている。奈緒子は、その夜眠れぬ朝を迎えた。早朝、電話が鳴った、急かすように。奈緒子が慌てて受話器を取ると聞きなれない男の声が聞こえた。
「こちらは群馬県警の唐沢と申します。上村さんのお宅ですか?」
奈緒子は昨日からのこともあり、反射的に身構えた。その後、唐沢刑事が言った事を奈緒子は信じられぬ面持ちで聞いたが、その場で気を失わなかったのが不思議なくらいだった。
「御主人と思われる方の御遺体が早朝、赤城山の崖の下で発見されました。至急、群馬県警の方にお越しください」
奈緒子は亮の母、久恵と兄の峻と共に群馬県警に駆け付けた。混乱している久恵を奈緒子と竣が支えるようにして歩き、唐沢刑事が警察署の地下にある霊安室に案内した。奈緒子が久恵と峻と共に霊安室で見たのは、全身が濡れていた亮の遺体と共に並んで置かれた、やはり全身が濡れていた若い女性の遺体であった。
「御遺体が濡れているのは、この地域で夜半に雷を伴う大雨がありました。これからの調べを待ってからですが今のところ遺書もあり、覚悟の心中かと思われます。この女性をご存知ですか?」
唐沢刑事は、奈緒子達の顔を交互に見ながら聞いた。奈緒子も久恵も峻も知らない女性だった。だが奈緒子は、先日電話をかけて来た女性の浮気という言葉が蘇ってきた。しかし、電話の事は唐沢刑事には言わなかった。本当の事とは限らないし、奈緒子自身混乱していたからだ。
「それでは詳しい発見状況や今後の連絡事項などもありますので、上の会議室で説明致します」
会議室では唐沢刑事以外に田島という若い刑事がいた。二人共遺体を見ることに慣れているのか、あるいは被害者家族への感情を押さえつけるように抑揚のない言葉で言った。
「先程申し上げた雷雨でずぶぬれの状態で二人の御遺体が、赤城山の崖の下に並んで発見されました。ざっと見た限りでは身体に損傷はありませんので上から飛び降りたのではなく、崖下に並んで亡くなったと推察されます。お二人はそれぞれの手にコーヒーの缶を握られておりました。解剖の結果待ちですが、死因はコーヒーに混入していた薬物によるものと思えます。遺書は男性が持っていたと思われる鞄の中にあり、濡れるのを待逃れたと思われます。封筒に入っていたA4サイズの白紙の紙に連名で書かれておりました。現時点で女性の名前は確認が取れておりません。筆跡鑑定は、これからになります」
置かれた鞄は確かに亮の物だった。唐沢刑事はビニールの袋に収められていた白い紙を三人の前に置いた。さようならと中央に書かれ、その横に二人の名前が書いてある。奈緒子は一目見て、一つは亮の文字だと思った。
「今のところ、それぞれ本人達の字かは、これからの科捜研での確認ということになります。上村さんは背広のポケットに免許証が入っていたので本人確認は早かったのですが、相手の女性の氏名は確認されておりません。事件性も排除せずに調べさせていただきますが、現場は雨でぐちゃぐちゃになっており、足跡を鑑定するのは難しいかもしれません。事務手続き等については、他の部署の者がご説明致します」
それからの事は奈緒子の中で現実味がなく、ただ久恵の鳴き声だけが頭の中でグルグルと回転しているだけだった。結局、不信な点も確認されず心中ということで、片付けられてしまった。
【二】
時間は奈緒子の気持ちと関係なく過ぎ、あの日から三年もの月日が経った。中央線の阿佐ヶ谷駅から歩いて十分ほどの所に奈緒子のマンションがある。亮の死後、川越の家を処分し実家の近くのマンションに越してきた。一LDKの部屋は奈緒子に十分である。七月十一日、焼けるような日差しが東京の空を占領している。奈緒子は東京に戻ってから四谷にある小さな出版社に勤め始めた。奈緒子は会社が順番に夏休みを取得するにあたり、三日間の休みに入った。今日は姉の優子と買物に行く約束をしていた。優子は実家に入り、夫の浩司と三歳の娘、凛と両親の五人で暮していた。最初は奈緒子を気遣い、一緒に暮すように両親始め姉達も薦めてきたが、奈緒子は一人で暮す事を選んだ。掃除や洗濯を済ませ、出掛ける支度をしている時にスマホが鳴った。一人暮らしになってからスマホだけで電話は置いてない。ディスプレーには見知らぬ番号が表示されている。一瞬、切ろうかと思ったが登録していない友達も多く、通話ボタンを押した。
「もしもし、上村さんのお宅ですか。橘と申しますが奈緒子さんでしょうか。突然、お電話をして申し訳ありませんが、亡くなった御主人の事でぜひお話したいことがあるのです。お会いできませんか?」
若い男性の声だった。
「主人の事というのは、どのような事でしょうか。あなたは主人とはどういう関係の方なのですか。どうしてこの番号が分かったのですか?」
奈緒子は警戒心を露わにしながら矢継ぎ早に言った。
「私は御主人と一緒に亡くなった館野曜子の恋人だった者です。どうしても聞きたい事があって、あなたのスマホ番号を調べさせてもらいました。申し訳ありません。ただ、電話で話せるような事ではないのです」
あの後、警察から舘野曜子の名前を知らされたが聞いたことは無く、奈緒子は三年前、亮の隣に並べられていた女の遺体を思い出し、あの時のショックと裏切られたような気持ちが蘇った。
「もう何もお話する事はありません。このままそっとして置いて下さい」
奈緒子は少しきつい口調で言い、スマホの電源を切ろうと思った。それを察したかのように男は叫んだ。
「あなたは、御主人が本当に心中したと思っているのですか?」
その一言で奈緒子はスマホを握りしめた。
「どういう事ですか?」
「先程、言ったように私は館野曜子の恋人だった者です。私は納得していないのです。あの時、私は日本におりませんでした。ですから、あの時の事を聞きたいのです。もし、今日時間がありましたら新宿でお会いしたいのです。新宿東口に面した所にあるロイドビルの五階にある和食の店『花梨』で十一時でどうでしょう。個室を予約しておきます。あっ、この店は私の姉が経営しています。話の内容が内容ですので周りに人がいない方がいいかと」
奈緒子は橘の強引さに少し迷ってから会うことを了承した。館野曜子の名前に引っ掛かったからだ。奈緒子は姉との買物をキャンセルし、約束の十一時より少し早めに『花梨』着いた。受付で名前を言うと、すぐに橘祐二が出て来た。背が高く浅黒い精悍な顔つきをした橘祐二は奥の方に声を掛け姉の美里を呼び出し、奈緒子に紹介した。
個室は角の方にあり、和室で畳だが堀があり足を入れられるようになっており楽に座れる。橘は食事は後でと美里に言いおいた。奈緒子が橘と向いあって座ると、橘は名刺を奈緒子の前に置いた。名刺には、フォトグラファーと書いてある。
「私の仕事はフリーのカメラマンです。クライアントの要望に応えて各地を動き回っています。三年前、私は仕事の都合で一年程、世界中を回っていました。長期になるので行く前、曜子に帰ったら結婚しようと言いました。つまり、プロポーズです。曜子は嬉しそうに抱き付いてきました。各国を回るのは手続きなど大変な事が多いのです。そして、時差もあり連絡が付かない事が多々あったのです。やっと日本に戻ったら曜子が心中したと聞かされ、ショックでした。しかも見知らぬ男性と。私が仕事にのめり込んだせいだと自分を責めました。それから、益々仕事中心の生活になっていきました。日本中は勿論、再び世界中の仕事も積極的に引き受けました。この前、距離を置いていた曜子の墓参りに行った時、曜子の親友だという戸田美樹という女性に会いました。彼女は曜子が心中する訳がないと言ったんです。彼氏がカメラマンで世界中に行ってるのって、自慢げに言ってましたと。そして帰ってきたら結婚するのよって嬉しそうに言ってから、結婚式に呼ぶからご祝儀奮発してねって言われたわ。それから何か月も経たずして曜子が男性と心中したと聞いた時ショックだった。でも、警察が調べた結果だから何も言えなかったとも。曜子の両親は交通事故で中学生の頃に亡くなって祖父母に育てられたから、大学に行きたかったけど我儘は言えなかったって。やっと、幸せになると思っていたのに。美樹さんは泣いていました」
橘は、そこまで一気に話しました。
奈緒子が霊安室で見たのは、亮の遺体と並んで置かれた若い女性の遺体。あの若い女性が館野曜子だった。奈緒子は、あの日の事はすべて心の奥底に仕舞い込んだ。奈緒子は一瞬目を閉じた。
「私は結婚三ヵ月でした。まさかのショックで、あの日の事は心の奥に封印していました。今、橘さんの話を聞いている内に、そう、あの日電話があったのです。洗濯物を干してソファに座っていた時、確か電話があり無視していると留守電に『あなたの御主人は浮気をしています』と、入っていたのです。私は悪戯だと無視していました。でも、次の日の早朝、群馬県警から電話があったのです。それからの記憶は、時間が過ぎるのに任せていました。悪戯電話があったことさえ忘れていました。無意識に亮が浮気をしていた事を認めたくなかったせいかも知れません」
奈緒子は、少し下を向いて言った。橘は少し考えるように上を向いた。
「私だって曜子が男と心中したと聞いた時、ショックだった。だから、墓参りにも中々行けなかったんです。だから、戸田美樹と会って話すまで浮気していたと思っていたんです。そして今、あなたから悪戯電話の話を聞いて本当に二人は心中したのか不審に思うようになりました」
「もし、心中じゃなかったら?」
奈緒子は心の中がざわついた。まさか、その先の言葉を言うのを怖くなった。
「つまり、あなたにわざわざ電話して御主人が浮気していると伝えている。まるで電話の女性は、御主人が心中する事を示唆している。偽装心中をさせる前に、あなたに暗示をかけたとしたら。あなたに亮さんが心中したと聞かされた時、やっぱりと思わせるように」
橘は黙って考えていた。
「これが殺人だったら、今のところ完全犯罪を遂げたと云うことになるな」
奈緒子は思い出したくないあの日の事を考えた。三年の歳月が少しだけ余裕を与えたのだ。
「あの時、二人の直筆の遺書を見せられたんです。曜子さんの字は分かりませんが、亮の字は間違いありませんでしたし、その後、筆跡鑑定の結果でも証明されましたわ。また、砒素の入ったコーヒーを二人が飲んだ事も、ましてやコーヒーの缶をそれぞれ握りしめていたので、指紋を科捜研で鑑定するまでもないと聞いています。橘さんが殺人だと言うのであれば、それらに反証する証拠を出さないといけないのでは」
「確か、さようならの言葉でしたよね。遺書にしたら簡単過ぎませんか?」
それを聞いた奈緒子は反対の言葉が浮かんできた。
「どうでしょうか。これから二人で死ぬと覚悟した時、色々と言葉を考えないのでは。寧ろ私は遺書を残した事に違和感があります。遺書は白紙の紙の中央にさようならと書いてあり、連番で二人の名前がありました。さっき橘さんが言ったように、悪戯電話で私に主人の心中を示唆したように、遺書にも同じような意味合いを含んでいたんではありませんか。黙って死んでも男女が並んで死んでいたら心中と思うのでは。もし、これが殺人だとしたら、何が何でも心中にしなくてはならないとの意図を感じます。むしろ、二人に違和感なく、さようならの言葉を書かせることが出来る状況はどんな時でしょう。私が後から主人の友達から聞いたところによると、二人は知らない者どうしのようです。そんな二人に一枚の紙に、さよならの文字の横にそれぞれの氏名を書かせるには」
奈緒子は橘が殺人事件の可能性を言った事で、ひょとするとの考えが浮かんできた。内心、殺人だったら奈緒子の亮に裏切られたとの心の重しが無くなるような気がしていたのかも知れない。
橘も暫く考え込んでいた。
「確かに、あれが遺書ではなく故意に書かせたとなると、あなたの言う通り何らかの理由が必要です。二人の共通の知り合いが亡くなったか、仕事を辞めて実家なり地方に帰るとか。まずは、そこを調べる事から始めましょう。そして、もう一つ電話の件です。あなたの家の電話番号を知りえる人。これは会社の人間だとは限りません。仕事の関係者なら誰でも知っているはずです。そして、これは一番重要な事です。殺人となったら理由が必要です、殺さなければいけない程の理由。群馬県警を騙しても行なわければならない理由。警察を介入させるにはかなりのリスクがあると思います。それでも行うからには、チョットやそっとの理由ではありません。そう考えるとかなりヤバい相手と云うことになります。我々の命が狙われるような」
橘は自分で言い出しながら、内心恐怖も湧いてきた。そして、奈緒子も巻き添えになる可能性も。その恐怖は奈緒子にも伝染していた。二人は黙ったままだった。そして、声を発したのは奈緒子の方だった。
「私は怖いんです、とっても。でも、このままだと一歩も前に進めないような気がしています。あの日の封印していた時間が常に心にあるということは命がないのと同じだと。この三年間、時間が進んでいるだけで生きている実感が無かったような気がしています。これが殺人では無く、心中だとハッキリしたら、それで納得したいんです。私は会社を辞めます、仕事は何時からでも始められますから」
橘は笑った。
「これで、二人の意見は合致しましたね。お互い全力を尽くしましょう。まずは、腹ごしらえからですね」
橘は部屋の隅にある電話で姉の美里を呼び出し、頼んでいた料理を運んでくれるように言った。
食事が終わると橘は奈緒子に向って言った。
「明日、二人が亡くなっていた場所に行きませんか?赤城山の崖の下に」
奈緒子は一瞬、怯んだ。二人が並んで亡くなっていた場所。勿論、行ってはないが考えただけで怖かった。
「何故?」
「私達は殺人なのか、やっぱり心中なのか、ハッキリしようと誓ったのですよね。この事の原点は亡くなっていた場所ですよ。それに原因は兎も角、二人が亡くなった場所であることは確かでしょう。まずは二人の冥福を祈り、花を備えたいんです。そして、出来れば群馬県警で当時の事について話が聞けたらと思います」
奈緒子は、さっきの覚悟が揺らいだ事を反省した。
「ごめんなさい。そうですよね。この事を直視しなければ前に進めないんですもの。分かりました行きます」
二人は、翌日群馬県の赤城山に行く時間を決めてから別れた。奈緒子は帰宅すると勤めていた出版社に体調が悪いので辞めると電話した、急で申し訳ないと。そして退職届は郵送する旨を伝えた。それから、明日の赤城山への支度を整えた。何日かかるか分からないので、一応着替えや旅費の用意もした。奈緒子の中で三年間止まっていた時間が今、動き出した。
次の日、橘はレンタカーを借りて奈緒子のマンションまで来てくれた。まずは、関越自動車道の前橋インターチェンジで降り、国道十七号線から前橋市大手町にある群馬県警に向った。あの時、対応してくれたのは捜査一課の唐沢だった。奈緒子は当時、ショックで名前など覚えていなかったが、今日行く事について書類を引っ繰り返して、唐沢の名前を探し出した。
群馬県警に行き、奈緒子は受付で唐沢の名前を言った。面識があるのは奈緒子だったから。他の所轄に移動していず、暫くして唐沢刑事が出て来た。三年前の事で、しかも心中という特殊性もあり、唐沢刑事は奈緒子の事を覚えてくれており、当時の話を聞きたいというと以前入った会議室に通してくれた。
まずは、奈緒子から橘が心中した舘野曜子の婚約者であった事を話した。後は、橘が当時の事情を説明し、自分も婚約者が心中したショックで、国内や海外で仕事に没頭していたこと。そして、先日曜子の墓参りの折、親友の言葉を聞き、心中に不審を抱いた事を話した。
唐沢刑事は黙って聞いていた。
「では、二人共あれが殺人だったという訳ですか?」
今度は奈緒子が話し出した。
「いえ、あの時のショックで私は三年間時間がストップしていた状態でした。今回、橘さんから連絡を貰ってから思い出した事があるんです。あの日の午前中、『あなたのご主人は浮気をしています』という電話が留守電に入っていたんです。その時、私は悪戯電話だとして忘れていました。でも、ひょっとすると心中と聞かされた時、無意識に納得したんじゃないかと。そう考えると、二人が崖下に来た交通機関とか車について聞きたくなったんです」
唐沢刑事は暫く待っていてくれと言い残して会議室を出ていった。
「あの時の事、私殆ど記憶にないのよね。だから、ひょっとすると現場の周辺事情を話されたのかも知れないわ。もし、そうすると唐沢刑事からすると、散々言っただろうとムカついたかしら」
「そんなことないよ。それに我々は警察に対して文句を言いに来たわけじゃないし、二人で言ったように心中だと納得したいという事だから」
唐沢刑事は大分経ってから会議室に現れた。
「実は心中があった日の午後、県南地区で三人が惨殺された事件が発生し、所轄に特捜が立ち、私はそちらの現場を指揮することになりました。心中は他の者が対応しました。あの時、一緒に対応した田島刑事も私と一緒に殺人事件の現場に移動しました。今、三年前の心中についての資料を探してみましたが見つかりませんでした。ひょっとすると心中で解決したとして、仕舞い込んでしまった可能性もあります。対応した刑事は、他の所轄に出ているので、後ほど聞いてみます」
奈緒子は少しガッカリしましたが、二人が見つかった崖下の場所を聞いたら唐沢刑事が車で送って行くと言ってくれた。それから、途中で花屋に寄ってもらい、唐沢刑事の車を下りて奈緒子と橘は赤城山の崖の下に行った。見上げると藪が鬱蒼としており、その上に木々が生えていた。奈緒子と橘は、唐沢刑事の指さした二人が並んでいた場所に跪き献花した。
「この上の山道は、少し奥に引っ込んでいて上から見ることは出来ません。あの時一応話しましたが夜半に雷雨があり、ここ一帯も雨によって水浸しになっていました。そのせいで、御遺体も濡れていたのです。それゆえ人の足跡は消えていました。明け方、偶然この崖の先の道を通りがかった地区の老人が人のようなのが見えると通報してきたのです。その道は狭く普段人が通る事が無いのですが、老人は雨が止み涼みがてら山草を取っていたらしい」
と、唐沢刑事は説明した。橘は道の方へ目を向けた。
「その道の方へ行ってみたいのですが。狭い道なら当然車は入れませんよね」
「そうです。だから二人は歩いてここに来たと思っていました。お二人には悪いが目立たない場所を選んだかと」
奈緒子も周りを見渡した。確かに崖下へ通じる狭い道の反対側は藪に阻まれており、赤城山のエアポケットのように目立たない。と、いうことは亮か曜子がこの場所を知っていたか、第三者が知っていたということだ。亮が山に興味があったとは聞いていないが、絶対ではない。それから、三人で老人が歩いていたという道に出た。確かに狭いし、軽自動車でも無理だろう。三人は狭い道を下りて暫く行くと、田圃の近くに置いた唐沢刑事の車の所に出た。
「あれ、行く時さっきの狭い道を通りませんでしたよね」
奈緒子は見回して言った。
「ええ、車の所から行くと狭い道は遠回りなので、山道からぐるっと回ったんですよ」
今度は橘が言った。
「申し訳ありませんが、最初に行った道で崖下まで行って貰えませんですか?」
唐沢刑事は車の反対側を回ると、すぐに山道が見えて来た。ここからだと、さっきの崖下までは近い。ただ、さっきの細い道より急坂で藪に囲まれ目立たない。そこを下りていくと、さっきの狭い道の反対側の藪に出た。
「ここは目立たないし、急なので地元の人も知らない人がいると思いますよ、勿論車は入りません」
「どっちを通っても、ここに来るのは本人達が歩いて来るしかないですね。或いは歩かされていたとか」
奈緒子も上を見上げた。
「例えば薬などで朦朧とした状態で両側から支えられ歩かされたということは考えられませんか?」
唐沢刑事は少し考えていた。
「絶対無いとは言い切れませんが。飲まされた時間や薬の種類による場合もある。言い訳ではではありませんが、死因は胃から検出された砒素によると毒物死になっております。それに、もし殺人となれば、殺害した後で担いで遺棄した方が簡単ですし、歩かせるにしても、それなりの人間が必要です。それと、遺棄した後に雷雨が降った事で足跡などの証拠が消えました。まさか、雷雨が降ることを予測していたとは思えませんが。それとも、心中ではないとの確証はあるのですか?」
橘は首を振った。
「いえ、私達の心証です。万が一殺人ならば、当然動機が必要になりますよね。しかも、二人を殺害するには、かなりの動機が。出来れば二人の周辺を調べてみたいと思います。確実に心中だと納得できれば二人共、前に進めるような気がしています。ご迷惑を掛けないようにしますが、何か不自然な事があった場合は御協力を宜しくお願いします。警察でなければ調べられない事があった時等」
橘と奈緒子は、二人して頭を下げた。
【三】
赤城山から戻った橘と奈緒子は、二人で捜査本部なるものを立ち上げる事にした。ただ、橘は姉の美里が経営しているロイドビルの五階にある和食の店『花梨』の奥の二部屋で暮している。一部屋は写真の仕事部屋で、もう一部屋は寝るだけのベットと衣装ケースに占領されている空間に、辛うじて小さなテーブルと椅子二つが置いてある。奈緒子は一度行ったが、美里に驚かないでと言われていても、ここまでとは思わなかった。どう考えても捜査本部なるものを立ち上げる場所も無い。と、いう事で捜査本部は奈緒子のマンションにする事にした。男性を部屋に入れることになる。まずは姉の優子に橘を紹介した。心中相手の館野曜子さんの恋人だった人であり、お互い心中に関して納得しておらず、事件の可能性も含めてハッキリさせたい。今のままでは、立ち止まったまま前に進めないと言った。
「分かったわ。家族には私から伝えるから大丈夫よ。もし、私に出来る事があれば何でも言って」
優子は、奈緒子と橘を応援するからねと。姉の心強い応援を得て奈緒子と橘は、どう進めるかと話し合った。
「まずは、お互いに自分達の疑問等を書き出そう」
橘は言いながらノートを開いた。
「では、奈緒子さんから」
一,あの日、女性から亮が浮気していると電話があった。
二,六時になってから亮の携帯に電話を入れたが留守電にな
り、会社に電話したら女性社員から定時に帰ったと聞かさ
れた。それから携帯が留守電になり、ついに電源が切られ
ていた。
三,早朝、群馬県警の唐沢刑事から亮が心中遺体で発見された
と電話があった。夜半にあった雷雨で二人共濡れていた。
「じぁ、俺から。と言っても友達から聞いた事しかないが」
四,日本にいなかったから、曜子の親友の戸田美樹が恋人はカ
メラマンで日本に戻って来たら結婚すると言っていた。
橘はノートを見ながら言った。
「この中で調べるのは電話してきた女性だけど、相手の番号を調べるのは無理だろうな」
「勿論、あの電話は解約しているけど、あの時の電話番号で相手の番号は調べられないかしら」
「まずは無理だな。今のところ悪戯電話だから。それより、曜子と亮さんがどこで知り合ったのかな?曜子は渋谷の女性服専門店で働いていたんだ。勿論、仕事以外でも出会う可能性はあるけど。僕は、今でもその店で働いていた人がいたら曜子の事を聞いてみるよ。奈緒子さんは、出来れば亮さんの仕事や飲み会での友人などに聞いてみてくれないか。どこかで二人の接点があるかも知れないし」
「分かったわ。明日から動いてみる」
「でも、あまり無理しないように」
夕方、優子が食事を持ってきてくれた。すぐに食べれるようにと、おにぎりと唐揚げ等だった。二人で食べてから、橘は帰って行った。
奈緒子は次の日、亮の同期で結婚式にも出てくれて、唯一我が家に来てくれた木田誠に連絡を取った。明日の土曜日に四谷の喫茶店で会う事を約束してくれた。その喫茶店は、亮が大学生だった奈緒子を木田に会わせた店だった。二階にある店は、クラッシックな音楽が静かに流れている落ち着いた雰囲気だ。客は高齢者が多く、一人で静かにコーヒーを飲んでいる人が多い。
木田とは十時に待ち合わせた。十時少し前に来た木田は、奈緒子を見ると軽く頭を下げて、奈緒子の前に座った。三年前から会っていないせいか、また亮の事もあって気まずそうだった。勿論、葬儀は身内だけで、ひっそりとおこなった。お互いコーヒーを注文した後、奈緒子から切り出した。
「お久し振りです。すいません、折角の休日なのにお時間を頂いて」
「いえ、まさか、あのような事が起こるなんて今でも信じられないんです」
「はい、私も三年間あの日の事は心の奥に封印してきました。実は、一緒に亡くなった女性の恋人と会う機会がありました。そして、二人で話している内、二人が何処で会ったのか知りたくなったんです。舘野曜子さんという名前です。木田さんは、この女性の事を亮から聞いたことがありますか?仕事関係の人とか、飲みに行った先で会った事がありますか?」
木田は、少し考えるようにしてから言った。
「いえ、私の知ってる限りでは聞いた事がない名前です。勿論、亮の知り合い全部を知っている訳ではありませんが、女性の名前は奈緒子さん以外聞いた事がありませんよ」
その時、コーヒーが運ばれてきて、話が一旦止まった。奈緒子は他に聞く事はないか考えた。
「あの日、亮は定時で帰ったんですが、私が携帯に電話しても留守電になったんです。それと、亮が時間外に仕事で女性と会う事はありますか?」
「仕事の事で時間外に行う事はないと思いますよ。そうだ、ふっと思い出したんですが」
木田は、そこで黙って下を向いた。
奈緒子は頷いた。
「何でも構いませんから聞かせて下さい」
木田は、少し辛そうな顔で言った。
「すいません、何か亮の事を思い出して。これは関係ないかも知れませんが、亮があんなことになる前、二・三週間前だったかな、仕事の後に二人で飲んだんです。少し酔った頃、亮が女に声を掛けられたって言ったのです。私が奈緒子さんに言いつけるぞって言ったら、中年のおばさんで占い師だって言ったんだ。こりゃ騙して金をふんだくるパターンだと思って無視したら行っちゃったよって言ったんだ。私も酔ってて、おばさんでも声を掛けられるなんて良かったなって言ったと思う」
奈緒子は小さな手帳に、そのことを書きつけた。どんな些細な事でも書いた。
「舘野曜子さんですが、渋谷の女性服専門店で働いていたんですが、行った事ありますか?」
「私は行った事ないけど、亮は奈緒子さんにプレゼントしようと見に行った事はあるんじゃないですか。洋服貰った事ないですか?」
奈緒子は、少し苦笑した。
「その店は十代の女の子向けの服だそうです」
その後、木田に話を聞く事が思いつかず、また何か聞きたい事が出来たら連絡してもいいかと了承を得て別れた。
その日の午後、奈緒子のマンションで二人だけの捜査会議を始めた。
奈緒子は手帳に書いた木田の話を言った。
橘が言うには、曜子が働いていた頃一緒にいた人達は、若い子専門の店のせいか皆辞めていたという。ただ、他から店長として来た吉村亜美という女性が曜子と少しだけ接点があり、話をしたことがあると言った。吉村は曜子から恋人がカメラマンで結婚するつもりだと嬉しそうに話していた事を覚えていたと言う。他の男性例えば亮さんの話など聞いた事は無かった。だから、他の男性と心中したと聞かされた時はショックでしたと言った。そして、もう一つ引っ掛かるのは、彼氏との相性どうかしらって手を見てたので、私が見てあげるわって、冗談を言った事があると。
奈緒子は橘の話を聞いて考え込んだ。
「ねえ、祐二さん。占い師が恋人との事を占ってあげようと、曜子さんに近付いた可能性はないかしら」
橘も考えた。
「それって、亮さんが声を掛けられた中年の占い師の事か?でも、亮さんは無視したんだよな」
「現時点で二人に共通する人物になり得ると思わない?亮が、その後占い師に会ったかも知れないし」
橘は考え込んだ。
「そうだな。占い師なら例の遺書を書かせる技もあるかも知れないな。ただ、中年の女性というだけで占い師とは限らないし、探し出すのは大変だよな」
奈緒子も考え込んだ。その時、奈緒子の携帯に優子からラインが入った。あまり強引に食事を持っていくと邪魔になるかも知れないけど、今晩カレーを沢山作ったけどどう?
奈緒子は、橘にラインを見せた。祐二さんは、カレーが大好物だそうです。とラインで返信した。暫くして、優子が鍋一杯のカレーと御飯とサラダを持ってきた。橘は玄関に出て、頭を下げた。
「すいません、お気遣いさせて。今度から俺が取りに行きますから」
後で優子から奈緒子のラインに橘さんて感じのいい人よね。ますます応援するからねって入った。
食後、コーヒーを飲みながら捜査会議を始めたが、やはりこれといった事柄が浮かばなかった。祐二はコーヒーを飲んでから、明日から違う視点で考えようと言い残した帰って行った。
だが次の日、とんでもない事が起きた。朝、九時頃に奈緒子の携帯に警視庁捜査一課から電話が入った。奈緒子は詐欺だと思ったが、反対に訴えてやると強気になった。
「こちらは警視庁捜査一課の佐々木と申しますが、上村奈緒子さんの携帯で間違いありませんか?」
「もし、騙すつもりなら電話を切らせていただきますよ。警察の人に知り合いがいます。変な事を言ったら訴えますから」
相手は少し笑った。
「警視庁も詐欺師と思われるようになったんですね。これからは捜査一課の仕事になります。今日早朝に、女性の他殺体が井之頭公園の草叢に遺棄されているのを、散歩に来た老夫婦によって発見されました。本人の物と思われる携帯も近くで発見されました。伊原京子四十八歳という人物に心当たりはありませんか?実は解析したところ携帯の履歴に、あなたが三年前に川越で住んでいた時の家の電話番号が残っていたんです」
奈緒子は一瞬声が出なかった。三年前のあの日、川越の家の電話に残っていた不審な留守電の声。ハンカチで抑えているような、くぐもった声。
「もしもし、心当たりがあるんですか?」
電話の向こうで佐々木刑事の声が大きくなった。
「すいません。折り返し電話します」
奈緒子は、それだけ言うと、すぐに祐二に電話した。祐二も声を詰まらせた。
「それって例の占い師の女か?」
「分からないわ。私、思わず電話切っちゃったの。どうしよう」
「すぐに、その刑事に電話を入れて、話したい事があるって伝えよう。何処で会うか向こうが言ってくるだろう」
奈緒子は慌てて佐々木刑事に電話を入れた。複雑なので会って話したいと。それではと、吉祥寺署に特捜が立ちましたので来て下さいませんかと言われた。奈緒子は、すぐ祐二に連絡を入れ、二人で吉祥寺署に行った。受付で佐々木刑事の名前を出すと、すぐ二階の会議室に通された。そこには、二人の刑事がいた。
「ご足労をお掛けしました。先程電話をしました佐々木といいます。こちらは、同じ刑事課の菊池です」
橘は自分の名刺を差し出した。それから、奈緒子の方を向いて話すよう促した。奈緒子は軽く頷き、話し始めた。
「殺害された女性かどうかハッキリ出来ませんが、あの日の午前中、電話が鳴ったのですが取らないでいると、留守電に女性のくぐもった声で、あなたのご主人は浮気をしていますと言い残していました。その時、私は悪戯電話だと思っていました。次の日の早朝、群馬県警から主人が舘野曜子さんと心中したと聞かされるまでは」
それから奈緒子は三年間、時間が止まったままだったと。それが動き出したのは、橘さんからの電話でした。ここからは、橘が話し出した。
「たまたま恋人の曜子の墓参りで親友から話を聞いて心中に不審を抱き、奈緒子さんに連絡を取り、二人で捜査会議なるものを立ち上げ調べ始めたんです。そして、そのうち中年女性の占い師の事が浮かんできたんです。今度、亡くなった人かどうか分かりませんが。あっ、調べるにあたって群馬県警の唐沢刑事に現場なども連れて行ってもらい献花することもでき、色々とお世話になりました」
橘は、同じ警察官として唐沢刑事の事も伝えた方がいいかと思ったからである。
佐々木刑事は、時々頷くようなしぐさで聞いていた。隣にいた菊池刑事は、もっぱら手帳に書きつけていた。
「分かりました。我々も早朝の遺体発見で捜査はこれからです。名前や住所も携帯から確認しました。占い師かどうかも含めていろいろ調べてまいります。もし、何か分かった事がありましたら、ご連絡下さい。二人の捜査会議も結構ですが、これは殺人事件です。万が一、虎の尾を踏むような事にならぬよう慎重に行動して下さい」
【四】
祐二と奈緒子は吉祥寺署を出て昼食に弁当を買い、マンションに帰った。殺人事件が起きた事で、二人は緊張していた。
奈緒子は警視庁の人間と話した事が、唐沢刑事と少し違った雰囲気を感じた。警視庁の肩書か?奈緒子は弁当を食べながら言った。
「ねえ、占い師は兎も角、あの日私の家に電話してきたのは、亡くなった女性の確率が高いわ。祐二さんが以前、心中じゃなく殺人だったらかなりヤバい相手だって言った事があったでしょう。マジでヤバいのかしら、何といっても殺人事件だということは確かだし」
祐二は弁当を置いて考え込んでいた。
「そうだな、俺も考えていた。二人は心中じゃないと思って動いていただろう。そして、その先には殺人しかないと。でも、現実に殺人事件が目の前に突き付けられると、ビビるよな。これ以上、突き進んでいいのかと」
奈緒子も弁当を置いて言った。
「でも、ここで放り出したら殺され雷雨にさらされた二人は、心中の汚名を掛けられたままになってしまうわ。二人の無念を晴らせるのは今、生きている私達だけだと思う。後は保険として私達の行動を逐一登録し、万が一私達に何かあった時は、佐々木刑事の携帯に転送できるように頼みましょう」
「奈緒子さんは強いな。俺なんか、世界中を旅して写真を撮っていただろう。勿論、戦争国を通る時、ここで終わるかって思った時もあったし。只々、写真を撮りたいという思いに付き動かされて。よし、飯を食ったら捜査会議を始めよう」
食べ終わってから、奈緒子は佐々木刑事のラインのメッセージで、一連の事柄を頼んだ。佐々木刑事からは、何かあってからでは遅過ぎます。無理をしないで下さいとの返信が入った。
「今、ふっと思ったけど、曜子さんの遺品はどうしたの?ほら、遺書が入っていた亮のバッグ。後から遺品として返却されたわ。女性なんだから当然ハンドバッグは持っていたわよね。何か手掛かりになりそうな物があったかもしれないわ。例えば、スマホとか。亮のスマホは私が掛けた後、電源が切られていたし、それ以前には問題になりそうな事は何も無かったわ」
「そうだな。前も言ったように俺が日本に戻った時は、すべてが終わっていたんだ。ショックで、その後は分からないけど、曜子の火葬はお婆さんが執り行ったと聞いたよ。お祖父さんは、その時、病気で入院中だったらしい。だから、遺品もお婆さんに返却されたと思うよ。曜子の実家は滋賀県で、両親が亡くなった後、祖父母に育てられたんだ。高校を卒業してから東京に出てきて、俺と出会った。付き合いも俺が世界に出掛ける前の間だから、よく考えたら一年チョットだな。でも、俺は曜子に一目惚れだったし、俺がいない間に他の奴に取られないように戻ったら結婚しようと。だから、他の男と心中したと聞いた時の事は、ショックで今でもハッキリ覚えていない。三年近く経って、滋賀県の甲賀近くの寺にあった墓にお参りし、親友に会った事言っただろう。帰ってすぐには墓参りに行けなかったんだ。俺、明日一番で滋賀県の曜子の実家に行ってみるよ。あの時は、実家の事なんか頭に無かったし」
奈緒子は頷いて言った。
「ねえ、私も一緒に滋賀に行っちゃ駄目かしら。あの時、横に寝かされていた曜子さんを見たけど、私もパニック状態だったわ。でも、今なら冷静に曜子さんに話しかけられるわ。絶対、心中なんかじゃない、殺害されたんだとの恨みを晴らすと。今のところ、亡くなった女性が占い師かどうかは、警察が調べると思うの。後は以前、祐二さんが言ってたように、二人を殺さなければいけない程の理由を探る事だと思うの。その理由が亮と曜子さんの近辺にあるかも知れないわ。だから、東京へ出てくる前に何か無かったか、お婆さんや友達にも聞いてみたいの」
「よし、分かった。二人で行こう、捜査会議の続きで」
二人は次の日、新幹線と在来線を乗り継いで、滋賀県甲賀市にある曜子の実家を訪ねた。以前、祐二が会った親友だという戸田美樹から、曜子の実家の場所を聞いていたのだ。しかし、実家は、すでに無かった。隣の人に尋ねると、曜子さんの遺骨を納骨した後、入院中だったお祖父さんが亡くなった。お婆さんは、お祖父さんの納骨を済ませると気が抜けたのか、自分も体調を崩したという。最後の後始末をしなくてはと、家財道具も家も土地も処分したという。今は甲賀病院に入院しているが、三か月前に膵臓癌が見つかり、長くは無いと言われていると。
「あの家は一人息子さん夫婦が交通事故で亡くなり、お祖父さんは順番が違うだろうと嘆いていたの。でも、曜子ちゃんは明るくしっかりした子供で、お祖父さんやお婆さんの自慢の子だったのに、あんなことになって。掛ける言葉もなかったわ。そして、お祖父さんが亡くなり、お婆さんまで大病になってね」
お隣で五十年以上の付き合いだという秋田さんは、涙目になった。二人は、秋田さんに礼を言ってから、駅の方に向った。
「まずは、甲賀病院に行って、お婆さんに話を聞こう」
祐二は、奈緒子を振り返って言った。
「お墓参りは?」
「曜子に少しでも、話せる事があれば聞かせたい」
二人は、タクシーを呼んでもらい、甲賀病院に行った。受付で館野タツの名前を出して、病室を尋ねた。四人部屋の窓側のベッドで、ぐったりと寝ている老女を見た。祐二は傍にあった丸椅子に座り、小さく声を掛けた。館野タツは、うっすらと目を開けた。祐二は曜子の遺骨を持ってきた時、バッグなど無かったかと聞いた。タツはしゃがれた声で、多分、赤いバッグがあったと思うが、よく覚えてないと。三年の歳月は長い。それだけ言うだけで全身の力を使ったように、ぐったりとした。丁度、通りがかった看護師にこれ以上駄目だと言われた。祐二の後ろに立っていた奈緒子は、秋田さんから親族の事は聞いたことが無いと言っていたのを思い出し、タツの孤独がじんわりと伝わってきた。思わず涙が出て来て、タツの骨張った手を握りしめた。するとタツは薄目を開けて奈緒子を見た。
「曜子」と囁き、次に更に小さな声で「カメラ」と続けた。それで目を閉じ、又、ぐったりとした。二人は看護師に追い出されて廊下に出たが、奈緒子は涙が止まらなかった。祐二は奈緒子の肩を抱くようにして廊下を通り、病院の中にある喫茶店に入った。奈緒子はハンカチで目頭を抑えた。やっと、涙が収まった顔で言った。
「何かタツさんの人生を考えたら切なくなって」
「人の人生は、その人だけの時間。周りの者達が理解出来るというのは傲慢かも知れませんよ」
祐二は、奈緒子を見て言った。
「それより、タツさんが最後に言った言葉が引っ掛かりませんでしたか?」
「最後の言葉?私の事を曜子って呼びましたよね」
「其の後のカメラという言葉です」
祐二は、コーヒーを飲みながら言った。
「カメラ?私の事を曜子さんと間違えて言った後ですか?聞きそびれたけど、そのカメラって赤いバッグに入っていたんでしょうか?」
奈緒子もコーヒーを飲んだ。
「タツさんが知っていたという事は、バッグには入っていなかったんじゃないかな。バッグに入っていたら犯人が持ち去っていたはずだ」
「もう一回病室に戻ってタツさんに聞いてみましょうか?」
祐二は考えてから二人でタツの病室に戻った時、タツの周りに医者や看護師達が取り囲んでおり、慌ててベッドが運び込まれてきた。二人は廊下で、運び込まれたベッドに移されたタツが奥の方に消えていくのを見送った。
二人は、またタクシーを呼んで貰ってから貴生川の奥にある小さな寺に行き館野家の墓に向った。以前、曜子の墓参りに行った時、曜子の親友だという戸田美樹という女性に会った場所。祐二と奈緒子は、お墓の花立てに水を入れると途中で買ってきた花を差し入れた。祐二が手を合わせた後、奈緒子は手を合わせ、再度絶対に亮と曜子さんの恨みを晴らすと誓った。その後、寺の住職に会った。年寄りの住職も館野家に続く不幸を嘆いていた。祐二は住職に尋ねた。
「今、タツさんの病院に行ってきました。大分、状態が悪いみたいです。みんながいなくなったら、ここの墓守はいなくなってしまいますよね。そうしたら墓は無くなるんですか?」
住職は言った。
「私が、この墓の墓守です。以前、私はお祖父さんの昭夫さんと会った事があります。住職として初めて来た頃です。昭夫さんが営んでいた雑貨屋に買い物で立ち寄ったんです。何を買ったか良く覚えていませんが、大した物ではなかったんです。私が住職だと知って、お茶を出していただき、昔話を話し出しました。夫婦とも養護施設の出身で、息子が産まれて嬉しかったと。その後、私も住職の仕事で忙しく会うことは無かったんです。再度、昭夫さんと会ったのは、息子さん夫婦が交通事故で亡くなり、その葬儀の時でした。掛ける言葉もありませんでした。ただ、残された曜子ちゃんがしっかり者で昭夫さんやタツさんを支えているのが救いだったんです。しかし、その曜子ちゃんが亡くなり、昭夫さんも後を追うように亡くなりました。昭夫さんが体調を崩して入院した事を聞き、一度お見舞いに伺いました。昭夫さんから自分が死んだら、タツさんと曜子ちゃんの力になって欲しいと懇願されました。その時、二人はお元気で大丈夫だよと言いました。まさか、暫くして曜子ちゃんが、あんなことになるなんて思いもしませんでした。むしろ、タツさんが昭夫さんの看病で疲れないかと心配していたんです。私は昭夫さんに頼まれた事は、墓を守り抜く事だと今は思っています」
住職の言葉に祐二は、只々俯いて頭を下げた。祐二の気持ちを察して奈緒子の目も潤んだ。二人は寺を後にして、暫く黙々と歩いた。最初に言葉を発したのは祐二だった。
「曜子や亮さんの為だけでなく、館野家の為にも犯人を見つけようと思う」
「ええ、絶対に。まずは、何から始めようかしら。赤いバッグも今では処分されてるし。ねえ、曜子さんのスマホの番号分かるよね。それから辿っていけないかしら。カメラの件は今のところハッキリしないから追いようがないもの。それから、祐二さんが会った曜子さんの親友、戸田美樹さんと連絡が付かないの」
祐二は、少し気持ちが上ずっていた時の事を思い返した。
「そうだ、あの時、戸田さんの携帯番号聞いたんだった。チョット待って。俺も曜子の事で興奮してたからな」
祐二はスマホを取り出すと、電話帳から戸田美紀の番号を探した。あった、祐二は慌てて戸田美紀の携帯に電話を入れた。
祐二は、ええ、あっとか相槌を打ってから電話を切った。
「早く東京に帰ろう。戸田さん、結婚して野々宮さんになっていて、今は大宮に住んでいるそうだ。東京に帰ったら連絡してくれとの事だよ」
奈緒子は頷いた。
「大宮なら私が住んでた川越から近いわ。彼女なら曜子さんの事いろいろ知ってると思うわ。ひょっとするとカメラの謎も」
二人は慌てて来た時と反対に、在来線と新幹線を乗り継いで東京に戻った。朝一番で出てきたが、東京駅に着いたのは夜遅くだった。その日は二人共疲れており、野々宮さんへのアプローチは明日する事にして別れた。
朝一番に祐二が来た頃、奈緒子の携帯に佐々木刑事から電話が入った。
「殺害された伊原京子は、本当に占い師として新宿の裏店にある飲み屋で客相手に占い、金を取っていました。当たるも八卦当たらぬも八卦みたいに、酔っぱらった客相手で適当にやっていたみたいだから。詐欺とも言えますが何といっても相手は酔っ払いですから騙されたとも思っていない。余興みたいな感覚ですかね。亮さんや曜子さんが、この店に来たことは確認取れていません。それから、群馬県警の唐沢刑事から連絡がありました。
あの心中の資料が出てきましたと。ただ、鑑識の結果が記されているだけでした。夜半の雷雨で足跡など不明で現場検証も行われておりませんでした。あの時、私が他の事件に追われ、結局心中として終了した事は心苦しい思いです。三年後、お二人がいらして現場をご案内しました。あの日、上村さん宅に女性から電話があった事は、その時伺いましたが引っ越しをされていて、勿論電話も撤去されていました。ただ、この度、警視庁から連絡があり、電話を掛けて来た女性が殺されたと聞き、驚いています。三年は経っていますが何らかの痕跡がないか調べてみるとの事でした」
奈緒子は感謝の念を伝えた。そして、曜子さんの実家に行き、大変な思いを抱えた家族であったと言った。そして、ハッキリはしないが、お婆さんがカメラと囁いた事を聞いた。お婆さんは危篤らしくカメラの話は聞けないので、これから二人で曜子さんの親友に話を聞く事にしていると、佐々木刑事に告げた。
「分かりました。もし、何か分かりましたら、必ず私に連絡して下さい」
祐二が野々宮美樹に電話をし、十一時に大宮駅の(まめの木)で待ち合わせた。奈緒子が入れたコーヒーを飲みながら、祐二は唐沢刑事が動いてくれた事を喜んだ。
「三年も経ったから難しいと思うけど、我々の思いが伝わっただけで嬉しいよ」
奈緒子も頷いた。
「ええ。でもこれからが難しいかも。野々宮さんから、カメラの事が聞けるといいね」
「それもあるけど、唐沢刑事や佐々木刑事と関係が持てたのは心強いよ。俺は内心ビビッていたから、何かあった時、頼れる警察官が傍にいてくれる」
「私もよ。初めて祐二さんから電話を貰った時、三年前の事を思い出すだけでも怖かった。まだ、分からないけど、二人が心中じゃなかったら、私自身心が少し軽くなる気がしたし。亮に裏切られたって心の奥底で常にあったからね。殺人事件なんて考えてもいなかったけど、今は亮と曜子さんの為だけでなく、私達の為でもあると思ってるの」
「そうだな」
二人は、大宮駅に向った。大宮駅の(まめの木)には十時半には着いた。祐二は着いた時、お互いにラインすることにしていたのだが、ラインを入れる事もなく美樹から連絡が入った。奈緒子は美樹とは初対面なので簡単に挨拶を交わした。三人は、祐二が調べていた西口から少し歩いたと所にあるホテルの喫茶店に落ち着いた。奈緒子は改めて美樹に、曜子さんと心中したとされる亮の妻だと話した。美樹は一瞬、驚いたように奈緒子を見た。そして、祐二が我々は二人が心中したと信じていないと話し出した。
「美樹さんに曜子の事を聞きたくて連絡させて頂きました。どんな事でもいいのです。それから、曜子の事を調べに二人で甲賀町へ行きました。そこで、曜子の家について色々と聞いてきました。曜子は俺と付き合っている時は明るかったので、両親の事なんかで苦労していたんだと思い知りました。その時、お婆さんに会ったのですが癌で入院していて、意識朦朧としていました。その後、危篤になったのです。その短い会話の中で気になる事がありました。ハッキリしないのですが、カメラという言葉。お婆さんは入院する前に、家も土地も家財道具一式処分していました。勿論、曜子の荷物も全て処分した後でした。ただ、お婆さんが意識朦朧した中でカメラという言葉に引っ掛かりました。美樹さんは、何か知っている事はありますか?」
「カメラですか?」
美樹は、暫く考え込んでいた。
「大分前の事です。高校三年の秋頃だったと思いますが。曜子は以前言ったと思いますが、本人は大学に行きたかったんですが、育ててくれたお祖父さん達に遠慮して言い出せず、東京で就職する事を決めたんです。お給料を貯めて二人にプレゼントするって言ってました。その頃、私は必死で大学受験の勉強をしていたので、曜子と会う機会も減っていました。その事を聞いたのは私が大学に受かり、高校の卒業式の後でした。確か、東京に旅立つ前日でした。曜子は東京に行ったら京都へ行く機会がなかなか無いだろうからって、一日中京都の町を撮りまくったって言ってました。特に南禅寺は好きなので撮りまくったって。その後、哲学の道や銀閣寺の方にも行ったらしい。そういえば怖い事があったって。場所はよく分からないけど、ブラブラ歩いていたら立派な門があって、ついつい写真に撮りたくて、たまたま歩いていた若い男性に頼んでシャッターを押して貰ったらしいの。それがシャッター押した瞬間、門が開いて怒鳴られたんだって。二人で慌てて逃げたらしいけどね。その男性に謝って別れたらしいわ」
祐二は言った。
「その時撮ったのはカメラだったんですか?」
「その後は、二人で高校生活の思い出話や落ち着いたら会おうねみたいなね雑談をしていました。私は当然スマホで撮ったと思っていたけど、確認はしてません。でも、まだ東京にも行ってない四年位前の話ですよ」
奈緒子は頷いた。
「私は心中したと知らされた時からの三年間、時は止まっていました。結婚して三ヵ月でした。その時、亮の隣にいた女性が舘野曜子さんと知ったのは、祐二さんから連絡を貰ってからです。美樹さんが祐二さんに話した事で不審感を抱き、それから二人で本当に心中だったのか、それとも別の理由があったのか調べ出したんです。私は、それをハッキリする事で前に進めるような気がしています。そして、亮や曜子さん達の供養にも」
「私も曜子が心中したなんて信じられませんでした。でも、奈緒子さんが言うようにハッキリする事で、落ち着いて産む準備が 出来ます。ありがとうございます。何か協力出来ることがありましたら連絡して下さい」
美樹は、そう言うと手をお腹に当てた。奈緒子は、美樹のお腹辺りを見つめ頷いた。奈緒子は美樹と連絡先を交換して別れた。
【五】
祐二は、辺りを見て言った。
「昼飯の時間は大分過ぎたけど食べて帰る?」
「いいえ、私は四年前の京都の事が気になるのよ。この、ホテルのリッチな弁当を買って、捜査会議をしましょう」
二人は、リッチな弁当を買って、奈緒子のマンションで捜査会議を始めた。
「やっぱり高いだけあるな、この弁当」
祐二は、食べ始めると言った。奈緒子は、お茶を入れると弁当に手を付けた。でも、味よりも京都の一件が気になった。
「亮や曜子さんに接点は無かったよね。でも、さっきの話に出てくる若い男性が亮だったら」
「あの話だと若い男性にシャッターを押してくれと頼んだだけで、お互い名前も名乗らず別れたんだよな。それに、美樹さんも言ってた通り、四年位前の事だろう」
早々と食べ終わった祐二は、お茶を飲んだ。奈緒子は、ゆっくりと食べた。
「多分亮は大学四年だったと思うわ。私は一年だったから、付き合う前辺りじゃないかと思うの。だから、亮が一人か友達と一緒に京都旅行に行ったかもしれないし」
奈緒子は、やっと食べ終わって、お茶を飲んだ。
「もし、京都で曜子と会ったのが亮さんだったとしたら、それが何で、今になって殺人となってくるんだ」
奈緒子も自分で言いながら行き詰った。二人で考え込んでいた時、唐沢刑事から奈緒子の携帯に電話がきた。
「あれから警視庁の佐々木刑事から電話がありました。三年経ってしまいましたし、そうでなくても、あの辺りは防犯カメラは無かったんですが、全員でローラー作戦をした結果、ハッキリした証言と言えないんですが、以前いらした時、車を止めた場所がありましたでしょう。雷雨が降る前に黒い車が止まっていたのを若い男性が見ていました。その男性は東京在住ですが、その日あの場所の先にある親戚の家で不幸があり、夜中に呼び出されて駆け付ける途中だったということです。気もそぞろでハッキリしないのですが、男性のライトで一瞬品川ナンバーだったと言っております。男性の車のナンバーも品川なので気になったという事です。心中として処理した事で初期段階の捜査が出来ませんでした。申し訳ありません。これが殺人事件だとしたら、見逃した私の責任です」
「私は素人ですが、あの状態では心中と考えてもしょうがないと思います。唐沢刑事には、あの場所に連れて行って下さり感謝しています。心中か殺人か私達は本当はどうだったのかを知りたいんです。それをハッキリすることにより、二人共前に進めると思っています。また、何かありましたら宜しくお願いします」
「分かりました。又、何か分かりましたら伝えます」
唐沢刑事からの電話の内容を祐二に伝えた。
「警視庁の佐々木刑事がいろいろ動いてくれているんだね。そういえば、奈緒子さんが気になっている事を佐々木刑事に連絡してみたら。やはり警察の方が何か分かるかもしれないしね」
奈緒子も自分一人で考えてるよりも、佐々木刑事に聞いて貰った方がいいかと思った。捜査中の佐々木刑事は忙しいかと思ったが、奈緒子の電話にすぐ出てくれた。奈緒子は、曜子の親友の美樹から聞いた京都での事を話した。
「四年前の京都での事ですが、私は怒鳴った家の人が気になっています。そして、シャッターを押してくれた若い男性って亮じゃないかと推察しています、確証はないんですが。あっ、その時写したのは、カメラか携帯かはハッキリしていません」
佐々木刑事は、少し考えるようにしてから言った。
「その怒鳴られた場所って大体分かりますか?」
「美樹さんも雑談の中での事でハッキリしないのですが、南禅寺から哲学の道を通って銀閣寺からブラブラしていた時、その門の前に出たみたいと聞いてました」
佐々木刑事は言った。
「そうか、その先は鞍馬山の方面か」
奈緒子は唐沢刑事から電話で黒い車の件を聞いたと言った。
佐々木刑事も言った。
「唐沢刑事は心中とした事を悔いていました。ただ、殺人事件と判明した訳でもありませんし、私も調書を読みました。全てはハッキリさせることですね。伊原京子の事も少しづつ分かってきたことがあります。これは、捜査ですので話せないこともありますが、亡くなった二人の無念を晴らせるように頑張ります」
奈緒子は祐二の言う通り、佐々木刑事に話して心が少し和らいだ。
奈緒子は、コーヒーを入れて一息ついた。
「祐二さんの言うように、佐々木刑事に話をして良かったわ。出来ればカメラの事が分かるといいんだけどね。でも、四年前の事だもの、難しいよね」
祐二もコーヒーを飲みながら言った。
「そうだな。多分、撮ったのは携帯じゃなく、カメラだろうな。お婆さんが携帯をカメラって言わないんじゃないかな。そういえば、曜子は京都の町を記念に残す為、写真を撮ったんだよな。なら、すぐに現像して見たいんじゃないか。勿論、自分で出来るわけないから、写真屋さんに頼むして」
「そうよね。ということは滋賀の写真屋さんかしら」
「そうだな、そこのところ美樹さんに聞いてみよう。ひょっとして写真を見せてもらったかも知れないしな」
祐二は、美樹の携帯に電話を入れ、写真を見たことがあるか聞いてみた。
「京都の町を撮った話は東京に旅立つ前日で、写真を現像したか聞いてませんでした。もし、現像してたら曜子は見て見てって言ったと思います。それとも、フイルムの空きがあったから、東京に行く前に、お婆さん達や近隣を撮った可能性はあります。もし、そうなら現像は東京に来てからかもしれません」
祐二も、それは一理あると思った。こっちでも考えてみると言って電話を切り、美樹の言葉を奈緒子に伝えた。
「確かに何枚撮りのフイルムか分からないが残っていたら、お婆さんやお祖父さん、近隣の景色も思い出として撮ったかも知れない。そう考えると、お婆さんがカメラと呟いたのも納得するよね。普段写真を撮られる事がないお婆さんが、カメラを向けられ記憶に残っていたかも」
奈緒子も、祐二と美樹の考えに納得した。今はスマホで写真を撮るから残りを考える事はない。
「そうなると、東京のどこの写真屋さんか分かるかしら。あれから四年近く経っていたら、写真屋さんも記録してないんじゃない。もし、現像した写真があったら曜子さんの荷物に入っていたんじゃない。その荷物は実家で処分されているし」
そうだなと言いながら祐二も考え込んだ。
「こういう時は、佐々木刑事に頼んでみたら。何といっても都内の事だしね」
奈緒子は、この前の事を佐々木刑事に話してから、気が楽になった事を思った。
「でも、佐々木刑事は今、殺人事件の捜査をしているんだろう。しかも、都内と決まった訳じゃなく、あやふやな事柄で動いてくれるかな」
「あら、ダメ元じゃない。佐々木刑事が無駄と判断したら、それでもいいんじゃない。ここで、二人で考えても進まないしね。後は、唐沢刑事が言ってた品川ナンバーの判明が分かるのを期待するしかないかしらね」
奈緒子は早速、佐々木刑事に電話した。今度もすぐに出てくれた。奈緒子は、曜子がカメラで撮った場合、フイルムの現像を東京に来てから写真屋さんに出した可能性もあるが、四年前の現像をした写真屋さんを見つける事が出来るか聞いた。佐々木刑事は、こちらで手配してみますと言い、電話を切った。祐二は、内容を聞いてから言った。
「これから先、俺達に出来る事はないよな。占い師の女は殺され、佐々木刑事が捜査しているだろう。カメラの件は佐々木刑事達の巡回戦術に頼むしかないしな。それも、現像した写真になっていたら、無くなっている可能性が大きいし」
「そうよね。殺人事件になったら私達が出来る事はないわ。でも、警察が動き出してくれただけで、頑張った甲斐があると思うわ、殺人事件と決まった訳じゃないけど。ねぇ、どう決着しても、また二人で滋賀に行って館野家のお墓参りして、それから二人で亮のお墓参りをしようね」
祐二は頷いた。
「二人のいや、俺達四人の決着を付けて、前に進もう」
【六】
事件は着々と進んでいた。まず、群馬県警の唐沢刑事が指揮を取り、あの日の夜中にあの場所に行く幹線道路を徹底的に調べ上げ、三年前の防犯カメラと個人宅の防犯カメラ、更に車に搭載されている防犯カメラをチェックした。大部分消去されていたが、幹線道路と沿線の店の防犯カメラ、そのまま放置されていた個人宅の車のカメラなど数十件が見つかった。そして、その中で品川ナンバーを見つけ出し、車の特定が出来た。すぐさま、犯行車両と確定出来ないが大きな手掛かりになったのは間違いない。
その頃、警視庁の佐々木刑事達は伊原京子の殺人事件に関して、町のチンピラを殺人者と特定し逮捕した。そして、その先にある政治家が関わる重大な汚職事件に取り組んでいた。大物政治家と地方議員、更に大手の輸出会社の社長。この三人による会合に大きく関わったと思われる場所。そう、京都の鞍馬山方面にある政治家の別荘。佐々木刑事達は四年程前、曜子が写した写真の現像を依頼した東京の写真館を探し出し、更に残っていたハロゲン化銀粒子で金属銀に還元し画像を形成してもらった。そこには、開け放された門の奥に三人の顔がハッキリと写っている。これを足掛かりに三人の汚職事件が大きく動き出した。輸出会社の社長の部下が、闇の世界の連中に写真を撮った二人を探し出すよう依頼した。一瞬の事で二人を認定に二年近く掛かった。更に殺人では無く自然死のようにするようにと命令した。そこで、使ったのが詐欺まがいの占い師だった伊原京子だった。奈緒子の家に電話させたり、二人に遺書のような物を書かせ、当日二人を呼び出したりしたのは京子だったが、どのようにしたのかは本人が死んでいるので分からない。その後、京子が殺害されたのは、これは金になると知り、強請ってきたからだ。もっとも、殺害したチンピラ曰く最初から殺害する予定だったと供述している。また、二人に毒物入りのコーヒーを飲ませ心中に見せかけたのは、輸出会社の社長の部下二人だった。現場に痕跡を残さないようにと細心の注意を払うので、チンピラには任せられないと。群馬県警唐沢刑事達が探し出した品川ナンバー車の持ち主は、部下の車だった。
連日、新聞やテレビや週刊誌など政治家達が関わった重大な汚職事件を放映している。
祐二と奈緒子は、複雑な思いで記事を見ていた。唐沢刑事の謝罪や佐々木刑事の報告は事件の終わりを告げていた。
祐二はボソッと呟いた。
「俺達が言ってたように心中ではなかったけど、殺人だったから良かったではないよな。二人の命が失われた事に変わりがないんだから」
「うん。ただ、生きている私達だから二人の無念が分かるわ。じゃなければ殺され雷雨にさらされた二人は、心中の汚名を掛けられたままになってしまったし」
「そうだな。早速、曜子と亮さんに報告しよう。二人を信じて良かったと」
「ここまで、来れたのは祐二さんの御蔭よ」
「二人の力だな」
次の日、二人は早速、滋賀県貴生川の奥にある小さな寺にある館野家の墓に向った。以前のように、お墓の花立てに水を入れ途中で買ってきた花を差し入れた。祐二が長く手を合わせていた。奈緒子も曜子さんと亮の無念を果たせましたと、心の中で言った。それから寺の住職にも会った。あれから、お婆さんも亡くなったと。住職は曜子さんと亮さんの事を知り、お二人共安らかになったと思いますよと。私は毎日、館野家の墓にお参りしています。
祐二と奈緒子は墓に向って深々と頭を下げた、家族五人が揃ったのが墓の中とは複雑な思いもあったが。
次の日は、上村家の墓がある東京の多摩墓地に行った。亮が中学生の時、お父さんが脳梗塞で早死にした。亮は今、お父さんの側で眠っている。奈緒子は花を備えてから、墓前に膝まづき、心の中で亮に語りかけた。信じてあげられなくてごめんなさい。でも、無念を晴らせましたよ。祐二は、少し離れた所から頭を下げた。
亮のお母さんは、お兄さん夫婦と子供一人の四人で暮している。
今度の件がハッキリしてから、奈緒子は亮の位牌を引き取ると申し出たが、お母さんに言われた。
「ありがとう、でも奈緒子ちゃんは若いわ、これから長い人生がある。亮も奈緒子ちゃんの幸せを願っていると思うわ。亮はおとうさんと一緒にいるから大丈夫。いつでも来てね、これからも家族なんだから」
奈緒子は頷いた。家族が増えていく亮と共に。
祐二とは多摩墓地に行ってから、暫く会わなくなった。ある日、祐二から新宿の喫茶店に呼び出された。奈緒子のマンションでも、
美里の『花梨』でもない場所で会った。
祐二は早目に着いていて奈緒子が入っていくと、軽く手を上げた。
「久し振りだな。あれから忙しくなってね。今度、赤坂のショールームで個展を開くことになったんだ、もっとも半年後だけどね。その準備も兼ねて海外へ撮影に行ってくるよ。個展の紹介状を送るから来てくれるか?」
「個展を開催するなんて凄いわね。勿論、行くわよ楽しみにしているわ。私の方も、あれから以前勤めていた出版社に、お詫び方々行ったら事件の事を知っていて、いつでも帰ってきていいよって、言ってくれたの。でも、私は少しづつ動いていくと伝えたよ。そしたら、タウン誌にコラムを書いてみないかって誘われたの。二か月に一冊だから、無理ないんじゃないかって。元々、出版社でも少し書いていたから喜んで受けたの、書くことが好きだから。それに、タウン誌だからコラムでも地元に密着した記事を書きたいから、いろんな人に取材したり、路傍の花々について調べたりと以外に忙しいのよ」
二人は、お互いの仕事を話してから慌ただしく別れた。
【七】
半年は、瞬く間に過ぎていった。奈緒子の元に、祐二から個展の紹介状が届いた。その日、空は遠く更に遠く澄み渡っていた。奈緒子が赤坂のショールームに着くと、ドアは仕舞っていた。すると、裏から祐二が出て来た。
「今日は奈緒子の為に特別な招待席を用意したよ」
祐二は、裏の入口に奈緒子を連れて行った。久し振りに会った祐二に興奮していた奈緒子は、名前を呼び捨てにされた事に気付かなかった。広い展示場は多くの作品を見せるようにと、いくつもの角を曲がり、その奥の壁一面に写真が飾られていた。
森に囲まれた湖に霧雨が絹糸のように光っている。空には薄雲が流れ、見事な虹が輝いている。
題名は『あたたかい雨』
奈緒子は、その写真を見た瞬間涙が溢れた。これは、二人に捧げるレクイエム。
祐二は奈緒子を強く抱きしめた。
「奈緒子結婚してくれ。そして、ここから前に進もう」
奈緒子の呟いた口に、祐二は口づけをした。




