94 ドゥーカス公爵邸
ガリフロンド公国、ドゥーカス公爵邸の最深部。かつては公国の軍事を担う名門の執務室であったその場所は、今や光と音を遮断した狂気の温床となっていた。
分厚いカーテンと鉄板で閉ざされた薄暗い部屋で、ゴートス・ドゥーカスは苛立ち紛れにワイングラスを床に叩きつけた。
「ええい、まだか! ゾルフからの連絡はまだ来んのか! 『虚無の祭壇』の計画はどうなっている!」
ゴートスは執務机の周りをうろうろと歩き回っていた。
その姿は異様だった。かつては病弱なだけだった体は、今や土気色に変色し、黒い血管が全身に浮き出ている。痩せこけているにも関わらず、腹部だけが餓鬼のように膨れ上がり、呼吸をするたびに喉の奥からヒューヒューという異音が漏れていた。悪魔との契約による副作用と、過剰な欲望が体を蝕んでいるのだ。
「ゴートス、落ち着きなさい。貧乏ゆすりが耳障りよ?」
部屋の奥、暗がりに置かれたビロードの長椅子から、妖艶な声が響いた。ゆったりと足を組み、優雅に扇子を仰いでいるのは一人の女性だ。
夜会用のような漆黒のドレスに身を包み、透き通るような白い肌。真紅のルージュを引いた唇は蠱惑的だが、その瞳は爬虫類のように縦に割れた金色。背中からはコウモリの如き翼、そして、艶やかな黒髪の間からは、捻じれた二本の角が突き出ている。
彼女こそが、この一連の騒動の元凶――災禍伯メリグッシュ・ロバス。表の公爵など足元にも及ばない、魔界の裏階級の序列二位に位置する高位の女性悪魔である。
「落ち着いてなどいられるか、メリグッシュ! あの忌々しいヴィクトールめ、他国と結託して私を干上がらせるつもりか! だが、私にはお前がいる! そうだろ!?」
ゴートスは母親にすがる幼児のような目で、メリグッシュを見上げた。そこには公爵の威厳など欠片もない。
その時、部屋の扉が乱暴に叩かれ、青ざめた私兵隊長が転がり込んできた。
「か、閣下! ご報告します! た、大変です!」
「なんだ騒々しい! 礼儀も知らんのか!」
「そ、それどころではありません! 国境に展開されていたヨルシカの結界……あれは我らを守るためのものではありませんでした!」
「な、なにぃ!?」
ゴートスが目を剥く。
「ヨルシカ軍が結界を開き、そこからなだれ込んで来たのは……エデンとルミナスの連合軍! さらにヨルシカの術士軍団までもが加わっています!」
「な……ッ!?」
「それに『シルバーウイング』や『ルミナスアークナイツ』といった有名なAランク冒険者ギルドまで……! その数、数千! 既に前衛部隊が屋敷の正門を突破しました!!」
「ば、馬鹿な……! エデンとルミナス、それにヨルシカまでもが手を組んだだと!? 三国が私を潰しに来たというのか……! ありえん、ありえんぞそんなことは!!」
ゴートスは顔面蒼白になり、ガクガクと膝を震わせて執務机へとしがみついた。外界を遮断し、自分に都合の良い妄想の中に生きてきた彼にとって、本物の「軍隊」と「英雄」達が殺到してくるという現実は、許容範囲を超えていた。
「メリグッシュ! 頼む、なんとかしてくれ! お前には高い金を払っているんだ! 領民の命だってくれてやっただろう! 契約だ、私を守ってくれ!」
唾を飛ばして叫ぶゴートス。その無様な姿を、メリグッシュは扇子の隙間から冷ややかな目で見下ろした。
彼女にとって、目の前で喚き散らすこの男は、もはや人間としての尊厳すら失った哀れな肉塊でしかなかった。金と欲望、そして肥大化したコンプレックス。それらを搾り取れるだけ搾り取った今、この男に残された価値は、断末魔の絶望を捧げる「生贄」としての一点のみ。
内心で嘲笑しつつも、彼女は優雅に立ち上がり、ゴートスの震える肩を抱いた。
「大丈夫よ、ゴートス。慌てることはないわ」
「だ、だが! あいつらがここに来たら、私は……!」
「貴方には私がついているでしょう? それに、これは好機よ。向こうからノコノコと餌が歩いてきてくれたのだもの」
メリグッシュは窓際へと歩み寄り、重厚なカーテンをわずかに開けて眼下に広がる戦場を見下ろした。
エデンの戦車隊が庭園を蹂躙し、ルミナスの聖騎士たちが私兵を蹴散らし、ヨルシカの術士たちが式神を放って戦場を制圧している。そして、その中心を突き進む強烈な光の気配。
メリグッシュの爬虫類のような瞳が細められる。感知できる魔力は、どれも極上のものばかりだ。
まずは、強烈な輝きを放つ『精霊王の加護』を持つ娘、カリナ。その魂の輝きは、穢し甲斐のある純粋さを秘めている。そして、エデンの筆頭相克術士であるカグラ。厄介な術を使うが、その魔力は芳醇だ。
さらに、エデン領チェスターの有力ギルド『シルバーウイング』を束ねる団長にして、超一流剣士セリス。彼女の鋼のように鍛え抜かれた精神が、絶望によってへし折れる時の音は、さぞ美しいだろう。
何より鼻につく、しかし最高に食指が動くのは――聖女サティアの清浄な気配だ。あの聖なる祈りを絶望の悲鳴に変え、その身を泥にまみれさせる快楽を想像するだけで、メリグッシュは背筋が震えるほどの悦びを感じていた。
ゾルフとアモ・フォンが失敗した時点でこうなる予感はしていたが、むしろ好都合だ。最高のメインディッシュが揃ったこの舞台で、ゴートスの絶望と英雄達の死を混ぜ合わせれば、この男を生贄に己を『虚無の主』として目覚めさせるための極上の触媒となる。
彼女は『悪魔の主』復活とは別に自らの力を増強させるための独断専行をしていた。悪魔は所詮自らの欲望のために動く。深淵公の命で動いてはいても、悪魔に緻密な連携などはできないのだ。
メリグッシュの背後から、黒い瘴気が翼のように噴き出した。
「ゴートス、安心なさい。私が相手をしてあげるわ。貴方はここで、高みの見物をしていればいいのよ」
「お、おお……! やはりお前だけだ、私の味方は!」
ゴートスはメリグッシュの腰にすがりつき、安堵の涙を流す。その背後で、女悪魔は残酷な微笑みを浮かべた。破滅の足音は、もう扉の向こうまで迫っていた。
◆◆◆
ドゥーカス公爵邸。丘の上に聳え立つその屋敷は、城塞と見紛うほどの威容を誇っていたが、今はどす黒い瘴気と不気味な紫電に包まれ、まるで魔界の一部が地上に顕現したかのような禍々しさを放っていた。
その正門前。エデン、ルミナス、ヨルシカの三国連合軍、そして数多の英雄達が集結し、最後の突撃の時を待っていた。
「みんな、準備はいいか! 精霊王の力を解放する!」
先陣に立ったカリナが、天に向かって手を掲げる。
「待って下さい、カリナさん。ここからが本番、必ず災禍伯メリグッシュ・ロバスとの戦闘になります。その前にこのショックを和らげるポーションを。カグラさんとセリスさんも」
サティアはカリナに渡していた赤いポーションを配る。彼女達はその効果を聞いて、一気に飲み干した。精神が研ぎ澄まされ、落ち着いて行く。
「よし、いくぞ。――我は願う。集え、精霊の光よ。我が盟友達に無尽蔵の活力と守りを! レグナ・スピリトゥス!!!」
『精霊王の加護』。
カリナの体から溢れ出した虹色の光が波紋のように広がり、数千の兵士達全員を包み込む。兵士達の体に力が漲り、武具が虹色の輝きを帯びた。恐怖は消え去り、勇気が湧き上がる。
「続いて、私も参ります……!」
サティアが一歩前へ出る。彼女は胸の前で手を組み、深く祈りを捧げた。
「――天上の光よ、穢れなき翼となりて我が背に宿れ。エピファニー・オブ・セイント・メイデン」
サティアの背中から、純白の光で織りなされた幻の翼が大きく広がる。その姿は、まさしく地上に降りた天使そのもの。さらに彼女は、その神聖な力を極限まで高め、世界を変えるほどの大規模儀式へと昇華させる。更にメイデンロッドを掲げて詠唱する。
「――神よ、愛しき子らに祝福を。遍く闇を祓い、清浄なる世界を此処に。カノン・オブ・ザ・ディヴァイン・ブライド」
カッッッ……!!!
サティアを中心に、目も眩むような清浄な光が爆発的に広がった。それは慈愛の波動となって公爵邸全体を包み込み、屋敷を覆っていたドス黒い瘴気を次々と浄化していく。癒し、祝福、浄化。神の花嫁と呼ばれる聖女にのみ許された究極儀式が、戦場を聖域へと変えた。
「おお、なんという輝きだ……!」「体が軽い!」「あの瘴気が晴れていくぞ!」
兵士達の士気は最高潮に達した。その機を逃さず、三人の王が動く。
「時は満ちた! エデンの誇りにかけて、悪を討ち滅ぼせ!」
エデン国王カシューが剣を掲げる。
「ルミナスの聖騎士達よ! 神の御旗の下、正義を執行せよ!」
ルミナス聖光国国王ジラルドが号令を放つ。
「ヨルシカの精鋭よ! 陰陽の理を乱す者に、鉄槌を下せ!」
陰陽国ヨルシカ国王ソウガが扇子を振り下ろす。
「「「全軍、突撃ぃぃぃぃッ!!!」」」
三王の合図と共に、大地を揺るがす轟音が響き渡った。
「ヒャッハァァァ!! 一番乗りは頂くぞッ!!」
先陣を切ったのは、エデンが誇る魔導戦車隊だ。テンションが最高潮の戦車隊隊長ガレウスの駆る巨大な装甲車両が、爆音を上げて急加速する。分厚い鋼鉄の正門が飴細工のように吹き飛び、手入れされた広大な庭園に、スイッチ一つでタイヤから切り替えられたキャタピラが雪崩れ込む。
「う、うわぁぁぁ! なんだこの化け物は!?」「ひ、轢き殺されるぞぉぉ!」
庭園で待ち構えていた私兵団や改造魔獣達が、迫りくる鉄の塊に恐れをなして逃げ惑う。戦車隊は容赦なく敵陣を蹂躙し、後続の歩兵部隊のために道を切り開いていく。
その混乱の中、ライアン率いるエデン王国騎士団と、ルミナス聖光国騎士団が左右から展開し、屋敷を完全に包囲した。そして、カリナ達精鋭部隊は、戦車隊がこじ開けた正面玄関から、「今だ、行くぞ!」と屋敷の内部へと突入した。
巨大な両開きの扉を押し開け、カリナ達が飛び込んだ先は、途轍もなく広大なエントランスホールだった。
吹き抜けの高い天井、真紅の大階段。本来なら客人を迎える煌びやかな空間だが、今は冷たい殺気に満ちている。
その大階段の中腹。
彼らを見下ろすように、一人の女性が優雅に佇んでいた。 漆黒のドレスに身を包み、爬虫類のような金色の瞳と、コウモリの如き翼、二本の捻じれた角を持つ美女――災禍伯メリグッシュ・ロバスだ。
「あらあら、随分と賑やかなお客様ね。私の庭を土足で荒らすなんて、躾がなっていないわ」
メリグッシュは扇子で口元を隠し、クスクスと笑う。その余裕の態度は、数千の軍勢に囲まれているとは微塵も感じさせない。
「貴様が災禍伯メリグッシュ・ロバスか。……ゴートスはどこだ」
カリナが鋭く問いただす。
「あの臆病な王様なら、一番奥の安全な場所で震えているわよ。……もっとも、貴方達がそこへ辿り着くことはないけれど」
メリグッシュから放たれる瘴気が、ホールの空気を震わせる。即座にカリナは判断を下した。
「みんな、作戦通りだ! 散開!」
カリナの指示に、背後に控えていた二つのギルドが動く。
「了解よ! シルバーウイング、私達は左翼へ! ベルガーさんの家族を探すわよ!」
副団長エリアが元気よく声を張り上げ、メンバー達を先導して左の回廊へ走る。
「承知した! ルミナスアークナイツは右翼だ! 一室たりとも見逃すな!」
団長カーセル率いる一団が右の回廊へと疾走する。
「あら? ネズミが逃げ出したわね。……ま、いいわ。雑魚に用はないもの」
メリグッシュは彼らを追おうともせず、残った四人――カリナ、カグラ、セリス、サティアだけに視線を固定した。
「私が欲しいのは、貴女達よ。特に……計画を散々邪魔してくれた、その極上の魂達」
彼女の背後から、漆黒の翼のような影が噴き出し、ホール全体を圧迫する。
「『虚無の主』を目覚めさせる『虚無の儀式』には、強大な力を持つ生贄が必要なの。精霊王の加護を持つ小娘、稀代の相克術士、超一流の剣士、そして……清らかなる聖女」
メリグッシュが舌なめずりをする。
「貴女達を絶望の淵に叩き落とし、その悲鳴と共に捧げれば、さぞ素晴らしい『虚無の主』が目覚めるでしょうねぇ」
「……寝言は寝てから言え」
カリナが腰の刀を抜き放ち、切っ先を突きつける。
「アンタの思い通りにはさせない。ここで引導を渡してやるわ!」
カグラが扇子を開き、数多の式神を周囲に展開する。
「ええ。その汚れた口で、二度と儀式などと語らせません」
サティアも静かにメイデンロッドを構える。
「悪しき野望、私の剣で断ち切ります」
セリスが剣を抜き、研ぎ澄まされた闘気を纏う。
「……神聖なる祈りを穢す悪魔よ。光の御名において、浄化致します!」
サティアが聖なる光をその身に宿し、決然と顔を上げた。
屋敷の外では、三国の精鋭軍と公爵邸の私兵達による激しい戦闘音が響き渡っている。そして屋敷の内、巨大なエントランスホールにて。
三国の最強戦力の四人と、上位悪魔『災禍伯』との決戦が始まろうとしていた。




