90 相克と陰陽の嵐
カグラが扇子をバチリと開き、口元を隠して妖しく笑う。その瞳の奥には、冷徹な計算と燃え上がるような戦意が同居している。
対するアモ・フォンも、燕尾服の襟を整え、革靴の埃を払うような仕草を見せる。その余裕は、公爵級悪魔としての絶対的な自負によるものだ。
「よろしい……。貴女のような威勢の良い魂は、恐怖に歪んだ時の味が格別ですからね」
アモ・フォンが白手袋を嵌め直し、恭しく、優雅に一礼した。
「では、始めましょうか。――『デヴィルズ・エチケット』」
その動作は洗練されていた。まるで舞踏会の開幕を告げるかのような美しい礼。
だが、その瞬間、カグラの動きがピタリと止まる。空間そのものが「礼儀」を強制する。攻撃しようと練り上げた魔力が霧散し、踏み出そうとした足が石畳に縫い付けられたように動かない。先制攻撃を禁じる、悪魔的なルールの押し付けだ。
「なっ……!?」
「おやおや、挨拶もなしに殴りかかろうなどと、淑女にあるまじき野蛮さですね。私の庭では、礼節こそが力なのですよ」
アモ・フォンが指を鳴らすと、燕尾服の裾が翻り、彼の姿がブレた。
「――『ファントム・ワルツ』」
ヒュン、ヒュン、ヒュン!
複数の残像が生み出され、まるで舞踏会で踊るかのような優雅なステップでカグラに迫る。右から、左から、背後から。どれが本体か分からないまま、無数の鋭い鉤爪がカグラの喉元、心臓、両眼へと同時に繰り出された。
「死の舞踏へようこそ」
刃のような爪がカグラの肌に触れる寸前。彼女の瞳は凍りつくほどに冷静だった。
「ご挨拶? いいえ、お断りよ。その薄汚い手で私に触れないで。――相克術・双圧扉!」
カグラを中心にして、空間に透明な力場が発生する。押しても引いても開かない、物理法則を拒絶する「力の逆圧扉」だ。
キィィィィィンッ!
アモ・フォンの鋭い爪撃は、見えない壁に弾かれ、空しく火花を散らした。強制された「礼儀」の縛りを、相克する力の反発だけで無理やり抉じ開けたのだ。
「あら、ごめんなさいね。私の玄関は、招かれざる客には開かないの」
「……ほう、私のエチケットを力技で破りましたか。小賢しい」
「お返しよ。とびきり熱いのをプレゼントするわ! ――相克術・炎刃颶!」
カグラが扇子を一閃させると、風の刃の内部に超高熱を封じ込めた、灼熱の斬撃波が放たれた。
風で加速された不可視の熱刃が、一直線にアモ・フォンを襲う。しかし、悪魔公爵は慌てず、懐から取り出したシルクのハンカチで汗を拭うような動作を見せた。
「野暮ですねえ。――『ヘルズ・ジェントルマン』」
アモ・フォンは迫りくる業火の斬撃を、優雅な所作で「受け流し」た。物理的に弾いたのではない。攻撃のベクトルそのものを「マナー違反」として却下し、あろうことか倍化された威力でカグラへと送り返したのだ。
「乱暴はいけません。紳士とは、相手の非礼を鏡のように正して差し上げるものです」
「あら、お行儀がいいことね!」
自身の術が牙を剥く。だが、カグラは眉一つ動かさない。左手で懐から護符を抜き放つ。
「陰陽術・鏡映結界!」
彼女の前に六角形の光の壁が出現し、跳ね返された炎をさらに反射する。炎と炎がぶつかり合い、爆風が実験室を揺らす。実験器具が吹き飛び、ガラス片がダイヤモンドダストのように舞い散る中、二つの影が交錯した。
「そこよッ! 陰陽術・雷切符!」
カグラが投じた符が雷光と化し、アモ・フォンの眉間を狙う。アモ・フォンはそれを紙一重でかわし、上空へと跳躍した。背中の皮膜の翼を大きく広げる。
「地上は窮屈だ。――『ナイトメア・ウィング』」
翼から漆黒の闇が溢れ出し、実験室全体を飲み込んだ。 日中の明るさが嘘のように消え失せ、深海のような重苦しい闇が支配する。視界が奪われ、平衡感覚が歪む。絶対的な闇の中から、低い囁き声が無数に聞こえてくる。
(……絶望しろ……無力さを知れ……)(……お前の力など通じない……誰も助けに来ない……)(……ここで朽ち果てろ……)
精神を直接蝕む悪夢の囁き。通常なら発狂しかねない精神汚染攻撃だ。アモ・フォンの姿は見えない。闇そのものが彼であり、どこから攻撃が来るか予測できない。
「フフフ……どうです? 私の翼の中は心地よいでしょう。恐怖に震えながら、どこにあるか分からない私の牙に怯えるのです」
闇の奥から嘲笑が響く。しかし、カグラは暗闇の中で、ふっと鼻で笑った。
「暗いところが怖いの? 子供じゃないんだから。そんなハッタリ、私には通じないわよ!」
カグラは指先をパチンと鳴らした。
「光と闇は表裏一体。反転すれば、隠れ家はただの的よ。――相克術・逆流灯!」
カチュッ!
スイッチを切り替えるような音と共に、世界の色が反転した。漆黒の闇が、目が眩むほどの純白の光へと変貌する。それは照明魔法などではない。闇の属性そのものを光へと変換する、カグラの得意とする相克術だ。
「ぐアアアアッ!? ま、眩しいッ!?」
闇に潜んでいたアモ・フォンにとって、それは劇薬だった。天井付近の梁に張り付いていた悪魔の姿が、白日の下に晒される。
「見つけたわよ、コウモリさん!」
カグラは間髪入れずに攻め立てる。彼女の手元で水流と雷撃が混ざり合い、青白いスパークを散らす。
「逃がさない。水面を走る雷の蛇! ――相克術・青電奔!」
カグラが放った水流がアモ・フォンへ向かって伸び、その水を導線として高圧電流が奔流となって駆け抜ける。
バチバチバチィッ!!
逃げ場のない空中で、アモ・フォンは感電の衝撃に身を震わせた。
「ぐヌッ……! させるか!」
アモ・フォンは翼を畳んで急降下し、カグラへ肉薄する。 だが、カグラの連撃は止まらない。
「火と雷、爆ぜなさい! ――相克術・雷火衝!」
至近距離で放たれた火炎弾に雷撃が突き刺さり、強制的な大爆発を引き起こす。
ドゴオオオォンッ!!
アモ・フォンは爆風に煽られ、壁に激突する。石造りの壁が砕け、瓦礫の中に悪魔が埋もれる。燕尾服の袖が焦げ、整えていた髪が乱れ、その優雅な表情に亀裂が入っていた。
「ぐっ……! 馬鹿な、なぜ人間風情の魔法が、これほどの威力を……!」
アモ・フォンは自身の防御障壁があっさりと貫かれたことに驚愕していた。彼は公爵級。本来ならば、人間の魔法など素肌で受け止められるほどの魔力障壁を持っているはずだ。 それが、まるで薄紙のように破られた。
――『精霊王の加護』。カリナが付与したその光が、戦場の理を書き換えているのだ。
悪魔の防御力は加護の光によって減衰し、逆にカグラの術には対悪魔への『存在特攻』が乗っている。本来なら耐えられるはずの一撃が、致命的なダメージとなって悪魔の肉体を焼く。
「……おのれ、猿知恵を……! 調子に乗るなよ、下等生物が!」
アモ・フォンが瓦礫を弾き飛ばして立ち上がる。その縦に裂けた金色の瞳が、不気味に怪しく輝いた。
「『ゴールデン・レプタイル・ゲイズ』!」
ギロリ、と黄金の眼光がカグラを射抜く。石化ではない。だが、それはもっと性質が悪い。「右に避けるか、左に避けるか」「攻撃するか、防御するか」といった思考の選択肢を奪い、行動を致命的に鈍らせる呪いだ。一瞬、カグラの反応が遅れる。脳内での処理が泥沼に嵌ったように重くなる。
その隙を逃さず、アモ・フォンは巨大な角を赤黒く輝かせた。
「本気でいきましょうか……『ゴート・クラウン』!」
ブォォォォン……!
悪魔としての位階を強制的に引き上げ、圧倒的な威圧感を放つ。実験室の空気が鉛のように重くなり、床に亀裂が走る。ただ立っているだけで心臓が押し潰されそうなプレッシャー。
「その膝を折れ! 『アビサル・カーテシー』!」
彼が深々と一礼すると同時に、重力が反転したかのような圧力がカグラを襲った。見えない巨人の手が、カグラを上から押さえつける。ミシミシと骨が鳴り、カグラの膝がガクンと折れかけた。
「くっ……!」
「ハハハッ! そうだ、そのまま地面に這いつくばるがいい! そして絶望の中で死ね! 奥義・『バフォメット・レクイエム』!」
アモ・フォンが詠唱を始めると、カグラの周囲にどす黒い逆五芒星が浮かび上がった。魔力が侵食され、体力が奪われていく。回復魔法を使えばダメージに反転し、防御すればその盾が腐り落ちる、最悪の呪い陣だ。
「これで終わりです。貴女の魂は、私が美味しくいただきましょう。恐怖と後悔に味付けされた、極上の魂をね!」
勝利を確信したアモ・フォンが、カグラの喉元へ手を伸ばす。
その指先が触れる寸前。
「……ねえ」
重圧の中で、カグラが顔を上げた。苦悶の表情? 恐怖? いやその瞳は、絶望どころか、爛々と輝く殺意と愉悦で満ちていた。
「アンタ、忘れてない? ここは私の可愛い妹分の庭だってこと」
カチン!
何かが砕ける音がした。カグラの体から、虹色の光が噴き出したのだ。
『精霊王の加護』。その効果の一つ、『完全耐性』が発動する。カグラを縛り付けていた呪い、重圧、精神干渉が、ガラス細工のように砕け散った。それに加え、カグラにも側仕えの妖精族の加護がある。状態異常は完全無効される。
さらに『王の循環』が、奪われたはずの魔力を瞬時に充填し、限界を超えて溢れさせる。そして何より、対悪魔への『存在特攻』が、アモ・フォンの「公爵としての格」を内側から蝕んでいたのだ。
「な、なんだこの光は……!? 私の呪いが……通じないだと!? 馬鹿な、あり得ん!」
「カリナちゃんの加護がある限り、アンタの小細工なんて全部無駄なのよ! さあ、ここからは私のターンよ!」
カグラは重力を振り払って立ち上がった。そして、懐から一枚の、特別な護符を取り出す。それは禍々しくも神聖な、相反する気が練り込まれた紫色の符だ。
「さあ、フィナーレよ。……この身に宿りなさい、最強の神気! 陰陽術・天狐顕現!」
護符が砕け散り、カグラの背後に巨大な九尾の狐の幻影が重なった。黄金の毛並みを持つ天狐の神気が、カグラの全能力を極限まで引き上げる。茶髪がふわりと逆立ち、その隙間から狐の耳のような光が漏れる。瞳は人間の色を捨て、神々しい金色に染まった。
「そ、その姿は……伝説の天狐だと!?」
「行くわよ! 切り裂け! ――相克術・炎雷爪!」
カグラの両手に、実体化した炎と雷の爪が発生する。彼女は獣のような前傾姿勢をとると、床を蹴って消えた。いや、速過ぎて消えたように見えたのだ。
「遅いッ!」
アモ・フォンが迎撃しようとするが、カグラの動きは桁違いだ。
シュガッ! ズヴァッ! ドガァッ!
炎の爪が燕尾服を引き裂き、雷の爪が悪魔の肉を焦がす。
「グアァァッ!?」
「まだよ! 火と雷のピークを喰らいなさい! ――相克術・轟焔!」
カグラの掌底が、アモ・フォンの鳩尾に深々と突き刺さる。超圧縮された熱と電圧の一撃が、悪魔の体内で炸裂した。
ドォォォォンッ!
アモ・フォンの体がくの字に折れ、実験室の壁を三枚突き破って吹き飛んだ。
「がはっ……!? おのれぇぇッ! 人間風情がぁぁッ!!」
瓦礫の中からアモ・フォンが這い出る。優雅さは消え失せ、片角は折れ、燕尾服はボロボロだ。彼はプライドをかなぐり捨て、全身の魔力を暴走させた。
「許さん……許さんぞ! ならばこれで決着をつけるまで! 我が全存在を賭けた絶対の決闘! 奥義! 『ディアボリック・マナー・エンド』!!」
彼の周囲が漆黒に染まり、強制的な決闘領域が展開されようとする。双方の能力を固定し、小細工なしの純粋な魔力勝負だけで決着をつける悪魔の法廷。だが、カグラはそれを鼻で笑った。扇子を放り投げ、両手を広げる。
「させるわけないでしょ。……消えなさい」
カグラは天と地の気を練り上げた。それは彼女が持つ、最大最強の相克術。『精霊王の加護』のブーストを受け、その規模は今や神域に達している。
「天の気と地の気よ、我が意に従い逆流せよ。星辰は堕ち、理は崩壊する――」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!
タワー全体が悲鳴を上げた。実験室の堅牢な石造りの天井が、飴細工のように捻じ切れ、消し飛んだ。
パァァァァァッ!
視界いっぱいに、真昼の青空が広がる。だが、その空には太陽とは別の「滅びの星」が生まれていた。赤と青の魔力が渦巻く、巨大な隕石のような魔力塊。
「大規模相克術・天象崩!!」
「な、なんだこれは……!? 空が……落ちてくるだと!? 馬鹿な、こんなデタラメな魔力量……あり得ん!!」
アモ・フォンが絶叫する。頭上から迫る滅びの質量に、悪魔の奥義さえもかき消されていく。さらにカグラは、ダメ押しとばかりに指を突きつける。
「これで終わりよ! 穢れを祓い、無へと還れ! ――陰陽術・破魔十字霊光ッ!!」
天から降り注ぐ『天象崩』の物理的破壊力。カグラの指先から放たれた、十字の極大浄化光。逃げ場のない二重の滅びが、一点に収束し、悪魔公爵を直撃した。
「ギャアアアアアアアアアアアアッ!!!」
断末魔の叫びと共に、アモ・フォンの肉体は光と衝撃の中で分解されていく。悪魔としての核である魔法結晶が砕け、その存在がこの世界から完全に消滅した。
ズズズズズ……ンッ!
凄まじい轟音が止み、土煙が晴れる。そこには、天井が完全に吹き飛び、突き抜けるような青空が広がる半壊した実験室があった。
降り注ぐ眩い陽光を浴びて、一人の女性が立っている。天狐の憑依が解け、いつもの姿に戻ったカグラだ。彼女は乱れた着物の襟を直し、落ちていた扇子を拾い上げると、パチリと閉じてふぅと息を吐いた。
「……ふん。口ほどにもなかったわね」
彼女は扇子で口元を隠し、瓦礫の山に向かって優雅に微笑んだ。
「礼儀作法なら、出直してきなさい。……地獄でね」
カグラは悪魔が消滅した跡を一瞥もしないまま、カリナ達が向かった奥の扉へと歩き出した。
その足取りは軽く、しかし確かな勝利の余韻を帯びていた。




