84 故郷の温もり
カシュー達の執務室を後にしたサティアは、王城の居住区にある自室の前で足を止めた。
そこは、彼女が「聖女」としての心を折られ、逃げるようにルミナス聖光国へと旅立って以来――実に100年の時が止まったままの、かつての私室である。
サティアは懐から、先ほどカシューから渡されたカードキーを取り出した。薄い板きれ一枚で扉が開く。100年という歳月は、エデンの科学技術を大きく進歩させていたのだ。浦島太郎のような気分になりながら、彼女は震える指先でそれをリーダーにかざす。ピピッ、という無機質な電子音が響くと、ロックが解除され、重厚な扉が音もなく自動的にスライドして開いた。
「――お帰りなさいませ、サティア様」
扉が開く駆動音を聞きつけ、部屋の奥から一人の女性が早足で駆け寄ってきた。見た目は人間の大人の女性と変わらぬプロポーションをしているが、その背中には七色に輝く透明な蝶の羽が生えている。彼女はサティアの側付きである妖精族のマリナだ。整った顔立ちを涙で濡らしながら、彼女はサティアの前でその豊かな胸に手を当て、深々と、優雅な礼をした。
「マリナ……。ただいま、戻りました」
「ようこそお戻りくださいました。サティア様が行方不明になられてから100年……長うございましたが、再びお顔を拝見できて、感無量でございます」
マリナの声は落ち着いた大人の女性のものだが、その声尻は喜びで僅かに震えていた。サティアはマリナの手を優しく握りしめた。その温もりが、ここが現実であることを教えてくれる。
そして、部屋の奥にはもう一人、静かに佇む女性の姿があった。
「お帰りなさいませ、サティア様」
凛とした涼やかな声。長い亜麻色の髪を一つに束ね、知的な眼鏡の奥に翡翠色の瞳を宿した長身の女性――エルフのジュネだ。
彼女はサティアが不在の間、『神聖術士代行』としてその留守を守り続けてきた忠臣である。普段は感情を表に出さない彼女だが、その瞳は微かに潤んでいる。彼女は身に纏った法衣を正し、主の帰還を恭しく迎えた。
「ジュネ……。貴女も、長い間留守にしてごめんなさい」
サティアは部屋の中央に進み出ると、二人に向かって深く頭を下げた。
「マリナ、ジュネ。……謝らなければなりません」
サティアの声が震える。あの「五大国襲撃事件」の惨劇。己の無力さに絶望し、心に深い傷を負った彼女は、聖女としての責務からも、大切な仲間達からも逃げ出し、ルミナス聖光国の教会で静かに暮らすことを選んでしまった。主を失った従者達がどれほど心細く、辛い思いをしたか。それを思うと、サティアの胸は張り裂けそうだった。
「私は、自分の弱さに負けて……貴女達にどれほどの心配と迷惑をかけたか……」
しかし、ジュネは静かに首を横に振り、マリナは涙を拭って慈愛に満ちた微笑みを見せた。
「謝罪など不要です、サティア様」
ジュネが眼鏡の位置を正しながら、力強く告げる。
「我々がサティア様をお慕いしているのは、貴女が『聖女』という役割を担っているからではありません。貴女ご自身の優しさと高潔さゆえです。それに、カシュー陛下より伺っております。貴女がカリナ様との再会を経て、再び立ち上がる決意をされたと……。我々はただ、その御心に従うのみです」
「左様でございます。私どもは、サティア様がお元気でいてくださるだけで、もう何もいらないのです。またこうして、貴女様にお仕えできる……それだけで至上の喜びなのですから」
マリナが背中の羽をキラキラと輝かせながら、母のように包容力のある笑みを向ける。二人の変わらぬ愛情と忠誠に、サティアの瞳から涙が溢れた。
「ありがとう……。ありがとう、二人とも」
サティアは顔を上げ、決意の光を目に宿した。
「私は戦います。悪魔とヴォイド・リチュアル・サンクトゥム……この世界を脅かす闇と。もう二度と、大切な人達を悲しませないために」
「「はい!」」
二人の従者は、主の帰還と覚悟に、改めて深く敬礼を捧げた。
◆◆◆
その夜。
サティアの部屋には、100年ぶりとなる温かな灯りがともっていた。丸いテーブルを囲むのは、サティア、ジュネ、そしてマリナの三人だ。
テーブルの上には、ジュネが手ずから淹れたハーブティーと、マリナが用意した果実や焼き菓子が並んでいる。
「これ、サティア様がお好きだった『月光草』のハーブティーです。配合は100年前と変えておりません」
「おいしい……。昔と同じ味ね、ジュネ」
「この木の実のタルトは私の自信作なのですよ。お口に合うと良いのですが」
「ふふ、ありがとうマリナ。とっても甘くて美味しいわ」
湯気の立つ紅茶の香りと、甘いお菓子の味。そして何より、心許せる従者達との穏やかな会話。かつては当たり前だった日常が、長い時を経てようやく戻ってきたのだ。
窓の外にはエデンの夜景が広がっている。厳しい戦いが待っていることはわかっている。けれど、サティアは二人を見て、心からの安堵と共に微笑んだ。
やはりここは、私の故郷なのだ――。100年の時を超え、聖女は本当の意味で「帰還」を果たしたのだった。
◆◆◆
サティアが従者達との再会を噛み締めていた頃。学園での特別授業を終えたカリナは、校舎の裏手でリーサを待っていた。
夕陽が校舎をオレンジ色に染める中、教材を抱えたリーサが駆け寄ってくる。その背はカリナよりも高く、大人の女性らしい落ち着いたプロポーションをしているが、今は小走りで来る姿がどこか少女のようにも見えた。
「カリナ様! お待たせいたしました!」
「お疲れ、リーサ。随分といい顔になったな」
「はい……! カリナ様のおかげで、生徒達の目の色が変わりました。あの子達、放課後になってもまだ興奮して、精霊石を握りしめているんですよ」
リーサは嬉しそうに報告するが、すぐに居住まいを正し、自分より小柄なカリナを見下ろす形で頭を下げた。
「でも、私が未熟なせいでカリナ様にお手間を取らせてしまい……申し訳ありませんでした」
「気にするな。代行として、お前が真面目にやってきたことは生徒にも伝わっている。これからは自信を持って教えればいいさ」
「はいッ!」
カリナは背伸びをするようにしてリーサの頭をポンと撫でると、城の方角を顎でしゃくった。
「さて、次は客人のところへ顔を出すぞ。お前も来い、紹介しておきたい連中がいる」
「客人の、ですか?」
「ああ。エデン領内にあるチェスターの街を拠点にしている精鋭ギルド、『シルバーウイング』だ。今回の作戦に協力してくれることになってる」
王城の居住区画。その一角にある来賓用の客室エリアは、静かな廊下とは対照的に、特定の部屋から賑やかな笑い声が漏れていた。談話室の扉の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「ですからロック、あなたはもう少しテーブルマナーというものを身につけるべきです。音を立てて食べるのは感心しません」
「うるせぇなセレナ。旨いもんは旨いんだよ。なあアベル?」
「俺に振るな。……だがロック、少しは静かにしろ。城内だぞ」
「アンタ達、本当にいつも通りねぇ……。少しは場所を弁えなさいよ。セリス団長も何か言ってやってください」
懐かしいやり取りに、カリナは口元を緩めた。彼女はノックもそこそこに、ガチャリと扉を開け放った。
「相変わらず騒がしいな、お前達は」
部屋の中の空気が一瞬止まり、次の瞬間、爆発した。
「「「カリナちゃん!!」」」「カリナ嬢ちゃんか!」
ソファでくつろいでいた五人の男女が一斉に立ち上がる。 チェスターの冒険者ギルド『シルバーウイング』。団長の剣士セリス、副団長で剣士のエリア、スカウトのロック、斧使いの重戦士アベル、そして魔法使いのセレナ。エデンでも指折りの実力者達だ。今は冒険者の装備を外し、ラフな格好である。
「無事だったみたいね、カリナちゃん! 大変な旅をしてきたんでしょ? 心配したわよ!」
「ああ、なんとかな。元気そうだな、エリア」
副団長のエリアが快活な笑顔で迎える。その横で、普段は重厚な鎧を纏った巨漢、重戦士のアベルがニカッと笑った。
「嬢ちゃん。久しぶりだな。少し見ない間にまた強くなったんじゃないのか?」
「ふふ、そう見えるか? アベル」
カリナは背後に控えていたリーサを前に出した。
「紹介する。こいつはリーサ。今、私の代行として学園で召喚術を教えている」
「は、はじめまして! リーサと申します! シルバーウイングの皆様のお噂はかねがね……!」
リーサが緊張でカチコチになりながら頭を下げる。その時だった。
「あらん、可愛らしい子猫ちゃんとお久しぶりのカリナちゃん! んもう、会いたかったですぅ〜!!」
セレナが、丁寧な言葉遣いとは裏腹に、だらしなく緩んだ顔でカリナに突進してきた。その手は明らかに、再会のハグ以上のセクハラ目的で動いている。
「さあ、お姉さんにその成長した身体を……ぶべらっ!?」
ドゴォッ!!
鈍い音が響き、セレナの顔面が床にめり込んだ。その背後には、拳を振り抜いたエリアが立っていた。
「……王城で何をしているのよ、この恥晒しが」
「あだだだ……! エ、エリア、愛の鞭がちょっとキツくない……?」
「うるさいわね。少しは大人しくしてなさい」
エリアは倒れたセレナを呆れた目で見下ろしている。その光景を目の当たりにしたリーサは、サーッと血の気が引いていた。
「え……ええ……? こ、高名なシルバーウイングの方々って、もっとこう、清廉潔白なイメージが……」
「……悪いなリーサ。こいつら、実力は確かだが中身はこれだ」
カリナが苦笑いしながらフォローを入れる。騒ぎの中心を抜け、凛とした声が響いた。
「お久しぶりです、カリナさん」
団長のセリスだ。黒いロングコートの下には赤いインナーとパンツルック、そして足元はブーツというスタイリッシュな装い。肩や腰には要所を守る鎧を装着している。その美しい銀髪を揺らし、彼女は穏やかな微笑みを浮かべてカリナを見つめ、右手を差し出した。
「セリス、よく来てくれた。感謝する」
カリナはその手を力強く握り返した。
「お礼には及びませんよ。……それに、私は私の『手の届く範囲』を守りたいだけですから」
セリスは謙虚に、しかし芯の通った声で語る。
「国とか世界とか、大きなことは私には荷が重いかもしれません。でも、私の剣が届く範囲にいる仲間や、友人……カリナさんのことは守りたい。だから、あなたと一緒に戦えることを楽しみにしています」
「……ああ。背中は任せる」
「ええ、任せてください」
二人の間に、強者だけが共有する信頼の空気が流れる。それを見ていたリーサも、ドン引きしていた気持ちを立て直し、美しく誠実なセリスの姿に憧れの眼差しを向けた。
「さて、積もる話もあるが……良ければ明日、一緒に鍛錬でもどうだ? 折角だ、お前達全員手合わせしよう」
カリナが好戦的な笑みを浮かべて提案すると、セリスもまた、剣士としての鋭い光を目に宿しつつ、ふわりと微笑んだ。
「ええ、喜んで。ちょうど私達も実力者との立ち合いを望んでいたところです。……明日の午前中、私達が借り受けている騎士団の第二演習場に来ていただけますか?」
「ああ、わかった。楽しみにしてるよ」
「ふふ、お手柔らかにお願いします。エデンの特記戦力殿」
再会の喜びと、来るべき戦いへの高揚感。騒がしくも頼もしい仲間達が加わり、エデンの戦力は着々と整いつつあった。




