82 帰還と再会
数日後。エデン。
その白亜の城壁が見えてくると、カリナは張り詰めていた糸がふっと緩むのを感じた。上空から舞い降りたペガサスは、大きな翼を羽搏かせ、重力を感じさせない優雅な動作で城門の前に着地する。石畳に蹄が触れる乾いた音が、故郷への帰還を告げる合図だった。
カリナと隊員が背から飛び降りると、ペガサスは主人の無事を祝うように一度だけ高く嘶いた。
「お帰りなさいませ、カリナ様!」
門番の衛兵達が、敬意と親しみを込めて槍を掲げる。彼らの笑顔は、ここが戦場ではなく、守るべき日常であることを思い出させてくれた。
「ただいま。……お前達も、お疲れだったな」
カリナは背後を振り返り、ここまで付き従ってくれたケット・シー隊員たちに視線を送った。
「一旦休んでくれ。また喚ぶからな」
「またなのにゃ、隊長」
隊員が敬礼と共に愛らしい声を上げる。カリナは口元を緩めて頷き、彼らを送還の光で包んだ。まずはゆっくりと休んで欲しい。
城内に入り、磨き抜かれた回廊を歩く。窓から差し込む陽光は暖かく、カリナの心を解きほぐしていく。角を曲がったところで、近衛騎士団長のクラウスと鉢合わせた。
「おや、カリナ様。お帰りなさいませ。ご無事の帰還、心より安堵いたしました」
「クラウスか。ただいま戻った。カシューは執務室か?」
「はい。エクリア様と何やら話し込んでおられますが……あなたの報告なら最優先されるでしょう」
「わかった。後で向かうと伝えてくれ」
クラウスは一礼して去っていった。カリナは足早に自室へと向かう。報告も大事だが、今はまず、彼女に無事を伝えなくては。
自室の扉の前に立つ。カードキーを取り出し、ロックを解除しようとしたその時だった。かざすよりも早く、内側からガチャリと扉が開いた。
そこには、まるで彼女の足音を聞き分けていたかのように、メイド服に身を包んだルナフレアが立っていた。
「――お帰りなさいませ、カリナ様」
慈愛そのものといった柔らかい声。次の瞬間、カリナはルナフレアの温かい腕の中に包み込まれていた。ふわりと香る、日向のような優しい匂い。張り詰めていた精神の鎧が、その抱擁一つで溶けていく。カリナはルナフレアの肩に額を預け、深く息を吸い込んだ。
「ただいま、ルナフレア。今回は色々と疲れた」
「ええ、よく無事で戻って来て下さいました。もう大丈夫です。ここは貴女の自室ですから」
母親が子をあやすように、ルナフレアは慈愛に満ち、カリナの背中を優しく撫でる。ひとしきり抱擁を交わした後、ルナフレアはカリナから身体を離し、優しく微笑んだ。
「お洗濯物はありますか? 道中、激しい戦いもあったのでしょう?」
「ああ。溜まってるから頼む」
カリナはアイテムボックスを開き、旅の道中で着回していた何着もの衣装を取り出した。その中でも一着、鮮やかな黄色の衣装だけは、激戦を物語るように所々が破れ、ボロボロの状態になっていた。
「まあ……この黄色い衣装は、随分と激闘だったのですね。他の衣装も合わせて洗濯と修繕をしておきます。また新品のように綺麗にしておきますからね」
「悪いな、頼む。……それと、その」
「ふふ、わかっています」
ルナフレアは悪戯っぽく、しかし慈しむように微笑んだ。
「お風呂、沸いていますよ。旅の垢も、疲れも、全部流してしまいましょう。さあ、お背中をお流しします」
カリナの自室に備え付けられた浴室は、既に湯気で満たされていた。こんこんと湧き出る湯船に浸かる前に、ルナフレアがスポンジにたっぷりの泡を含ませてカリナの肌を滑らせる。彼女の手つきはどこまでも優しく、旅路で蓄積した疲れを一つ一つ丁寧に拭い去っていくようだった。
「……気持ちいいな……」
「少々肩が凝っていますね。長旅でしたし、色々と背負いすぎたのではありませんか? 物理的にも、精神的にも」
「……そうかもな。でも、みんながいたから何とかなった」
ルナフレアは何も言わず、ただ慈しむように、愛おしい宝石を磨くようにカリナの髪を洗う。泡に包まれながら、カリナは泥のように重かった身体が羽のように軽くなるのを感じた。
身体を清めた後は、二人で広い湯船に身を沈める。お湯の温かさが芯まで染み渡り、思わず長いため息が漏れた。隣にはルナフレアが寄り添い、その豊満で柔らかな肢体が触れ合う。言葉はいらなかった。ただこの安らぎこそが、明日への活力になるのだと確信できた。
風呂上がり。火照った身体を冷まし、肌の手入れもされたカリナに、ルナフレアが新しい衣装セットから一着を差し出した。
「さあ、報告に向かわれるのでしょう? 今回はこちらを」
「これ……すごいな。新作か?」
「はい、リアさんメイド隊が総力を挙げて作り上げた最高傑作ですよ。魔法工学の粋を集めていますから、見た目だけでなく防御性能も身体能力強化も、以前のものより格段に上がっています」
それは、純白を基調とした冒険者風のドレスだった。 動きやすさを重視した軽やかな素材。しかし、随所にあしらわれたフリルと、高貴な青色のリボンが気品を演出している。スカートは膝丈で、翻るたびに内側の淡いピンクの生地が見え隠れする凝った作りだ。足元は編み上げの白いロングブーツ。そして黒のフリル付きコート 。
袖を通すと、まるでオーダーメイドのように――実際そうなのだが――身体に吸い付くように馴染んだ。魔力が全身に漲るのがわかる。
「完璧だな。行ってくるよ」
ルナフレアに見送られ、カリナは新たな装いでカシューの執務室へと向かった。
◆◆◆
コン、コン。
無機質なノックの音が廊下に響く。
「開いてるよー」
中からカシューの声が返ってきた。カリナが扉を開けると、そこには書類の山と格闘するカシューと、ソファで気だるげに脚を組んでいるエクリアの姿があった。
「よう、お疲れちゃん。無事に戻って何よりだぜ」
「おかえり、カリナ。顔色は……良さそうだね。ひょっとしてルナフレアに甘やかしてもらったのかい?」
「カシュー、人聞きが悪いぞ。……ただいま、戻ったぞ」
カリナは苦笑しながら部屋の中央に進み出る。カシューが王としての仮面を外し、悪戯っぽい少年のような笑みを向けてくる。この部屋に流れる空気は、かつて一緒にVAOの世界を楽しんでいた頃と変わらない。
カリナは表情を引き締めると、アイテムボックスから「それ」を取り出し、テーブルの上に重々しく置いた。
ゴトリ、と鈍い音がする。現れたのは、禍々しいオーラを放つ『反転精霊装備』――黒ずんだ金属に赤い亀裂が走る剣と鎧。そして、闇の魔力が凝縮された魔法結晶だ。さらにカリナは「あ、忘れてた」という顔で、もう一つ、以前堕落男爵ベロンから回収していたまま忘れていた別の闇の魔法結晶も追加で置いた。
「げっ……なんだよこれ。趣味わりぃオーラだな」
エクリアが露骨に顔をしかめて鼻をつまむ。
「……酷いな。装備の方は精霊の塔で戦ったという、あの獄炎騎士が使っていたものかい。それに、この二つの結晶……ただの悪魔の核じゃないね?」
カシューが眉間に深い皺を刻みながら問うと、カリナは頷いた。
「ああ。こっちは『裏の階級』を持つ上位悪魔の核だ。ベロンとアグノス、それぞれから回収した」
「なるほど、道理で通常の悪魔の魔法結晶とは桁が違う魔力量だ」
部屋の空気が一気に重くなる。しかし、カシューはすぐに思考を切り替えた。
「だが、この高密度の魔力……。使いようによっては、大きな力になる」
「浄化して使うのか?」
とエクリアが問う。
「いや、浄化には時間がかかり過ぎる。むしろ、この爆発的なエネルギー出力をそのまま利用する。開発中の『魔導列車』だ」
カシューが指先で机を叩く。
「従来の魔法石では、山越えの出力が不足していた。だが、この裏階級の核なら……皮肉な話だが、数倍の出力を維持できる。毒を以て毒を制す、じゃないが、奴らの悪意を平和のための動力に変えてやろう」
カリナは頷いた。強大な力が、人々の生活を支える足になるなら悪くない。
その後、話題は今後の情勢へと移った。
「で、カグラとの再会はどうだったんだ?」
「ああ、元気だし無事だった。あいつも数日中にはここに来るはずだ」
「そうか。実はシルバーウイングのセリス達は既に到着しているよ。今は演習場を借りて訓練中だ。彼らもやる気十分だよ」
カシューは安堵の息を吐き、そして少し言いにくそうに切り出した。
「それと、カリナ。もう一つ頼みがあるんだ。……学園のことなんだけどね」
「学園? リーサか?」
「ああ。どうも壁にぶつかっているらしくてね。君の代行というプレッシャーもあるんだろう。根を詰めすぎて、精神的にかなり参っているという報告が来ている。筆頭召喚術士として、様子を見てやってくれないかな?」
「……そうか。私の代わりだなんてもの背負う必要はないのにな。わかった、あいつのことは心配だし、後で顔を出してくるよ」
その時だった。コン、コン、と控えめなノックの音が響き、許可を待たずに扉が静かに開いた。
現れたのは、純白の法衣とポンチョのようなマントを纏った女性――行方不明だった聖女のサティアだった。以前のような迷いや陰りは消え、その瞳には強い意志の光が宿っている。彼女は部屋に入ると、カシューとカリナに向かって深々と頭を下げた。
「カシューさん、そしてカリナさん……、それにエクリアさんも。ただいま、ルミナスから戻りました」
「サティアじゃないか……お帰り!」
「今まで、多大なるご迷惑とご心配をおかけしました。自分の弱さが招いた事態……弁解の余地もありません」
だがサティアはすぐさま顔を上げ、凛とした声で誓う。
「ですが、もう迷いません。私は聖女として、いえ、一人の人間として、エデンと、この世界のために戦います。どうか、私にもう一度、皆さんと共に歩む許しをいただけますでしょうか」
カシューは椅子から立ち上がり、優しく微笑んだ。
「許すも何も、君はずっと僕達の仲間だ、サティア。おかえり。君の力が、今こそ必要なんだ」
「……はいッ!」
サティアの瞳から一筋の涙がこぼれ、彼女は満面の笑みで頷いた。
◆◆◆
役者は揃った。カシューは地図を広げ、三国の間で合意された作戦を共有する。
「ルミナス、エデン、ヨルシカの三国合同による、ドゥーカス公爵領への進攻作戦だ。だが、カグラの到着を待つ必要がある。作戦決行は、彼女の帰還から一週間後とする」
カシューの瞳が鋭く光る。
「その間、僕はジラルド王とソウガ王にまた連絡を取り、連携を詰める。君達は英気を養い、万全の状態で備えてくれ」
重い話が終わると、部屋の空気は自然と和らいだ。久しぶりにサティアを交えての雑談。エデンでの生活のこと、旅の思い出、これからの希望。
そんな中、エクリアが伸びをしながらニヤリと笑った。その笑みには、隠しきれない下心が滲んでいる。
「いやー、しかし疲れたな! 難しい話は肩が凝るぜ。どうだ、この後三人で風呂でも行かねぇか? 背中の流しっこでもして、裸の付き合いと行こうぜ! なあ?」
エクリアは生粋のネカマであり、中身は欲望に忠実な変態だ。美女の皮を被っているが、その思考回路はセクハラ常習犯そのものである。カリナは呆れたように溜息をついたが、サティアはさっと顔を赤らめ、困ったように視線を泳がせた。
「え、えっと……その……」
「ん? なんだよサティア、減るもんじゃなし。ここじゃ女同士だろ?」
「あ、あの……! カリナさんとなら、その……別に構いませんけれど……」
サティアはチラリとエクリアを見て、申し訳無さそうに、しかし断固として首を振った。
「エクリアさんとは……ちょっと、心の準備が……ハードルが高いと言いますか……その、目がちょっと怖いです……!」
「ぶっ! おいおい、そこまで拒否るかよ! 俺とお前の中だろー」
「いや、エクリア。サティアが正しい。お前、顔に出てるぞ。それに私ももう風呂は済ませて来た」
カリナがもっともなツッコミを入れ、執務室はどっと笑いに包まれた。決戦を前にした、束の間の穏やかな時間。しかしこの絆こそが、来るべき闇を払う最大の武器になるのだった。




