73 冒涜の騎士
精霊の塔、その最上階。
無数の試練と守護者を突破し、カリナが重厚な石扉を押し開けたその先。
そこに天井は存在しなかった。 巨大な円形の広間はそのまま天へと開かれ、淡く揺らぐ虹色の精霊光が、本来ならば静謐な輝きを放ち、訪れる者を祝福するはずの場所だった。
だが――その光は、広間の中央で歪んでいる。
まるで清流に汚泥を落としたかのように。あるいは、美しい絵画に黒いインクをぶちまけたかのように。生理的な嫌悪感を催す「異物」が、そこに鎮座していた。
広間の最奥、精霊王へと至る階段の手前に据えられた石の壇座。そこに、一人の騎士が座している。
黒鉄と深紅を基調とした、全身を覆うフルプレートの重装鎧。曲線を排した鋭角的で無骨なフォルムは、身を守るための防具というよりは、自走する「焼却炉」を思わせた。二本の角がある兜の隙間や装甲の継ぎ目から漏れ出ているのは、生き生きとした燃える炎ではない。炉の底で静かに、陰湿に燻り続ける、熾火のような赤光だった。
――獄炎騎士アグノス・レギウス。
その手にある大剣は抜かれていない。鞘に入ったまま、あるいは鞘そのものが剣であるかのような巨大な鉄塊が床に突き立てられ、両手はその柄頭に無造作に添えられている。
それは待ち伏せでも、油断でもない。騎士が騎士として、対等な敵を迎えるための姿勢だった。
「……ッ、隊長……!」
カリナの足元で、隊員が短く呻いた。見れば、その全身の毛が針金のように逆立っている。愛らしい瞳孔は極限まで細まり、小刻みに震えていた。
「気持ち悪い……怖いにゃ。あいつ、そこにいるだけで、空気が……腐ってるみたいにゃ」
野生の勘、そして精霊の種族としての本能が、目の前の騎士を「天敵」だと告げているのだ。カリナ自身も、肌が粟立つほどの悪寒を感じていた。使役し、魂で繋がっている精霊達が、彼女の中でざわめいている。悲鳴を上げている。
――あいつは違う。 ――あいつは、あってはならない。
カリナは隊員の前に片膝をつき、その小さな頭を優しく撫でた。
「隊員。お前はここまでだ」
「た、隊長……?」
「扉の外へ戻れ。そして階段の陰に隠れていろ。……あれは、お前が近くにいていい相手じゃない」
普段なら「おいらも戦うにゃ!」と意気込む隊員だが、今回ばかりは素直に頷いた。生物としての生存本能が、あの騎士への接近を拒絶しているのだ。隊員が脱兎のごとく広間を出ていくのを見届けてから、カリナはゆっくりと立ち上がり、騎士へと向き直った。
アグノス・レギウスは動かない。兜の奥、赤く鈍い光が、静かにカリナを捉えているだけだ。
長い沈黙ののち、低く、乾いた声が広間に落ちた。
「……来たか。召喚士カリナ」
声に感情はない。侵入者への怒りも、敵に対する侮蔑も、待ちわびた焦りもない。ただ、計測器が数値を読み上げるような、事実を確認するだけの口調。
「ここより先は、王の領域だ。そして俺は――その座を焼き落とすために在る。我が名は獄炎騎士アグノス・レギウス」
アグノス・レギウスは、ゆっくりと立ち上がる。その動作だけで、床に刻まれた精霊紋が悲鳴を上げるように軋み、広間の空気がわずかに熱を帯びた。
「安心しろ。お前の精霊には用はない。俺が欲しいのは、精霊王の力だけだ」
大剣が引き抜かれ、石の床を擦る不快な金属音を立てる。
「だが――、王へ至る道に立つなら、それもまた、俺の燃料だ」
燃料、と呼んだか。カリナの眉がピクリと動く。距離が縮まるにつれ、カリナの瞳は、アグノス・レギウスの装備の「異常性」を詳細に解剖し始めていた。
それは、ただの魔法の鎧ではない。本来、精霊の力を扱う装備は、精霊と共鳴し、調和し、その祝福を受けることで力を発揮する。だが、奴の纏うそれは――真逆だった。
黒鉄の装甲板の表面には、精霊紋様に酷似した幾何学的なラインが走っている。だがそれらは、決して輝かない。光を拒むかのように、血が乾いたような錆色に沈んでいる。刻印の配列も、精霊術式としては完全に破綻している。調和を乱し、循環を断ち切る配列。
近づくだけで、カリナと魂で繋がっている精霊達が不快感を露わにする。恐怖ではない。生理的な嫌悪だ。精霊の力が装備の表層に触れた瞬間、共鳴は起こらない。代わりに――わずかな軋みと、熱だけが生じる。
奪われてはいない。封じられてもいない。ただ、そこに「在ること」を物理的に否定されている。
鎧の隙間から滲み出る赤光は、精霊力が「無理やり物理現象に引きずり落とされ、燃焼させられた結果」生まれた、歪んだ排熱だった。
大剣も同様だ。
刃は鋭く磨かれているはずなのに、光を反射しない。刃面に走る無数の筋は、鍛錬の痕ではなく、精霊紋を削り潰した跡のように見えた。剣に触れた空気が、わずかに歪む。それは魔力の圧力ではない。精霊という概念そのものを否定する、虚無への圧力。
カリナは直感する。――これは、自然に生まれたものではない。この装備は、精霊力を意図的に反転させ、壊し、それでもなお「物理エネルギー」として使える形にまで歪めて造り上げられた、冒涜的な兵装だ。
祝福は一切ない。祈りも、契約も、感謝もない。あるのは、抽出・反転・焼却・固定という、冷酷な工業的工程だけ。精霊を材料として扱いながら、精霊の意思を一切必要としてしない。
「……よくもまあ、そんな趣味の悪い鉄屑を纏えるものだな」
カリナは右腰の刀に手をかけ、吐き捨てるように言った。
「精霊の塔が拒絶反応を起こしているのが分からないのか? 貴様のような異物が、なぜこの神聖な場所に入れた?」
精霊と心を通わせ、認められた者しか通さない結界。それを、精霊を冒涜する騎士がなぜ突破できたのか。その問いに、アグノス・レギウスは大剣の切っ先をカリナに向けたまま、淡々と答えた。
「不思議か、召喚士」
兜の奥の赤光が、わずかに揺れる。
「精霊と契約せぬ者が、なぜこの塔に立てているのか」
奴はあくまで「説明する者」の姿勢で言葉を続ける。
「この塔はな、精霊を愛する者だけを迎え入れているわけではない。正確には――精霊を『支配しようとする者』を拒むのだ」
アグノスは、自らの分厚い胸甲を、篭手で軽く叩いた。ゴォン、と中身が空洞であるかのような、虚ろな音が響く。
「俺は精霊を欲しない。奪おうとも、従えようとも、愛そうとも思わない。だから、拒まれなかった」
その言葉は、あまりにも無機質だった。
「この装備も同じだ。精霊の力を奪う構造ではない。ただ、触れた力を『燃焼現象』として処理するだけだ。共鳴もしない。契約もしない。敵意すら持たない」
一瞬、空気が張り詰める。
「精霊から見れば、俺は敵ですらない。……ただの、現象だ。嵐や地震と同じ、ただの自然現象として認識され、スルーされたに過ぎない」
カリナは唇を噛んだ。精霊王の結界の「穴」を突いたのだ。悪意を持って侵入するのではなく、自身を無機質な「システム」の一部と化すことで、セキュリティをすり抜けた。 それは魔法的な技術云々よりも、その精神性の在り方が恐ろしかった。
「そしてもう一つ。この塔は、王のための『檻』ではない。王を守る資格のある者を、選び続けるための場所だ」
兜の奥の赤光が、カリナを正面から捉える。
「王を狙う者が現れることすら、織り込み済みというわけだ。皮肉な話だろう? だから俺は、ここに立てた。精霊を否定せず、ただ――王の力を我等が主の復活の炉へ送るパイプ役として」
最後に、低く、断定するように告げる。
「この塔は、俺を通したのではない。お前のような『守護者』を試すために、俺という『試練』を通したのだ」
沈黙が落ちる。
精霊の塔は、崩れていない。拒絶もしていない。ただ、静かに見守っている。王を守る者が、その資格を持つかどうかを。そして、獄炎騎士アグノス・レギウスは、その最大にして最悪の試練として、ここに立ちはだかっている。
最上階の広い円環の広間に満ちる風が、戦いの気配を察して止まった。カリナは一歩、前に出る。足元で、精霊達の光が脈打つように揺れた。
「……ここから先へは、行かせない」
その声は震えていない。怒りでも恐怖でもなく、冷徹な決意だった。
「そうか。ならば、始めよう。精霊に選ばれた召喚士よ」
アグノス・レギウスが踏み込む。大剣が振り上げられた瞬間、低い轟音と共に、赤黒い火花が円を描いて走った。暴れない炎。精霊を焼こうとも、侵そうともしない、ただ世界の法則を歪めるだけの物理的な熱量。
カリナは刀を抜く。鯉口を切る音と共に、白銀の刃が煌めいた。
「力を貸してくれ、みんな!」
その言葉と同時に、彼女の背後に淡い光の陣が展開される。風、光、雷、土、水――契約精霊達の気配が、彼女の魔力と混ざり合い、刀身へと収束していく。
「来い」
合図もなく、獄炎の大剣が振り下ろされた。直線的だが無駄のない、達人の一撃。カリナは真正面から受けず、風の精霊シルフィードの加護を得て、羽毛のように軽やかに跳んだ。
刃と刃が交錯する。
キィィィィィンッ!!
澄んだ金属音と、何かが焦げ付くような不快な音が同時に響き渡る。
「っ……!」
衝撃が腕を痺れさせる。精霊の力を込めたはずの風の障壁が、アグノスの鎧に触れた瞬間、ただの「熱風」へと変換され、霧散した。
「効かぬ。精霊の『想い』も『魔力』も、俺の装備には通らない。ただの物理現象として処理される」
アグノスの大剣が返り、追撃の横薙ぎが襲う。カリナは右手の長剣を引き抜き、それを斜めに受け流した。
「……分かってる!」
カリナは、双眸を鋭く細める。
「だから、魔法だけに頼りはしない!」
彼女は踏み込んだ。召喚術を放つのではない。身体強化の魔力と、精霊の加速だけを身に纏い、純粋な「剣技」として、その懐へと飛び込む。
召喚魔法剣士、カリナ。精霊を愛し、共に歩む者と。精霊を否定し、燃料とする者。
王の力を巡る戦いは、今、精霊の塔の頂にて、激突の火花を散らした。




