69 向日葵の少女とワダツミの街
地下での激闘と事後処理を終え、夕闇と霧に包まれた『樹霧の庵亭』に戻ってきた頃には、カリナの体は心地よい疲労感に包まれていた。暖簾をくぐると、パタパタという小気味よい足音が響いてくる。
「おかえりなさい、カリナちゃん! それに隊員ちゃんも! 大変だったらしいね、無事でよかったぁ!」
若女将のチェルシーが、涙目のまま満面の笑みで出迎えてくれた。その屈託のない笑顔を見ると、先ほどまでの陰惨な光景が嘘のように思えてくる。やはり、守るべきはこの日常だ。
「お風呂、沸いてますよ! それとも先にご飯にしますか?」
「ご飯で頼むよ。……腹が減った」
「了解です! 今日は特製の『霧隠れ鍋』ですよー! 食堂へどうぞ!」
元気よく厨房へ戻っていくチェルシーを見送り、カリナは足元の隊員を見下ろした。隊員は「晩飯抜き」の宣告に怯え、耳をペタンと伏せて上目遣いで見つめてくる。
「……はぁ。今回だけだぞ。よく働いたからな」
「!! さすが隊長、大好きにゃ! 一生ついていくにゃ!」
現金な相棒に苦笑しながら、カリナは食堂へと足を運んだ。
◆◆◆
食堂の個室で、湯気が立ち上る土鍋を囲み、カリナと隊員は箸を進めた。
『霧隠れ鍋』とは、大根おろしをたっぷりと入れた雪見鍋のようなもので、地元の地鶏と森のキノコ、そして手作り豆腐が煮込まれている。出汁の優しい味わいが、戦いで荒んだ心に染み渡る。
追加で頼んだ川魚の塩焼きを、隊員は幸せそうに骨までしゃぶり尽くしていた。
「ぷはぁ、生き返ったにゃ……お出汁が五臓六腑に染みるにゃ……」
「ああ、美味いな」
満腹になり、一息ついたところで、カリナはタオルを持って立ち上がった。
「さて、汗を流してくるとするか」
脱衣所へ向かい、服を脱いで広々とした大浴場へと足を踏み入れる。岩造りの湯船には乳白色の湯が満たされ、ガラス戸の向こうにはライトアップされた庭園が霧に煙っている。 湯船には数人の先客がいた。カリナが体を洗い、湯に浸かろうとしたその時――。
「ああっ! カリナさんだ!」
驚きの声を上げたのは、昼間の作戦に参加していた女性冒険者のグループだった。魔法使い風の女性や、軽戦士風の女性達が、目を輝かせて近寄ってくる。
「お疲れ様です! 昼間は凄かったですね! 私達、遠巻きに見てましたけど、あの強さには痺れました!」 「そうそう! でも、こうしてお風呂で会うと……きゃーっ、すっごい可愛い!」
一人の女性が感嘆の声を上げると、他の女性達も一斉に頷いた。湯気の中で濡れたカリナの白い肌、華奢な肩、そして長く美しい赤髪と輝く金色の毛先。戦場での鬼神のような姿とはあまりに違う、可憐な少女の姿に、彼女達の母性本能が刺激された。
「本当、お肌ツルツル……! ねえカリナちゃん、背中流してあげる!」
「えっ、いや、自分で……」
「いいからいいから! 街の英雄をもてなさせてよ!」
抵抗する間もなく、カリナは再び洗い場に座らされ、お姉様方に囲まれてしまった。
「うわぁ、髪もサラサラねぇ。どこのトリートメント使ってるの?」「肩凝ってる? マッサージしてあげるわね」「こっちの腕も洗うわねー。細い腕なのに、あんなパンチどこから出るの?」
泡だらけにされながら、背中を流され、髪を洗われ、腕をマッサージされる。戦場では一歩も引かないカリナだが、善意の塊のようなスキンシップには弱い。
「ちょ、ちょっと、くすぐったい……!」
「あら、可愛い声! もっと聞かせて!」「もう、みんなイジメないの。カリナちゃんが茹でダコになっちゃうわよ」
結局、逆上せる寸前まで可愛がられ、湯上がりに冷たいフルーツ牛乳まで奢ってもらうことになった。
◆◆◆
昨日と同じ部屋に戻ると、隊員は既に座布団の上で丸くなって寝息を立てていた。カリナは布団に腰を下ろし、窓の外に広がる霧深い庭園を眺めながら、静かに思考を巡らせた。
リシオノールの支部は潰した。だが、そこで得られた情報はあまりに重い。
敵の本拠地は『ビィタールの谷』。そして、その背後には『ガリフロンド公国』の『ドゥーカス公爵』が存在し、さらにその奥には、魔界の裏階級である『災禍伯メリグッシュ・ロバス』が君臨している。
敵は強大であり、何より「国家」という巨大な盾を持っているのが厄介だった。このまま単身でガリフロンド公国に乗り込むのは悪手だ。一介の冒険者が他国の公爵に牙を剥けば、それは国際問題に発展しかねない。そうなれば、協力してくれたエレナやギルド組合、ひいては無関係な人々にも多大な迷惑がかかることになる。
正面突破は得策ではない。やはり、当初の予定通り『相律鎮禍連』の力を借りるべきだ。彼らは悪魔や精霊に関わる問題を専門とし、国家の枠組みを超えて動く組織。彼らの棟梁『カナミ』に会い、協力を取り付けることができれば、公国という壁を越えてメリグッシュに迫る道筋も見えてくるはずだ。
場所は陰陽国ヨルシカの南西、ワダツミの街。そこへ行けば、すべてが繋がる。
「……まずはワダツミだ。待ってろよ、カナミ」
カリナは小さく呟くと、枕元の愛刀を引き寄せ、静かに目を閉じた。
◆◆◆
翌朝。
霧の街特有の白い朝靄が窓の外に広がる中、カリナは身支度を整えていた。アイテムボックスから取り出したメイド隊謹製の衣装セットを開く。
「……今日はこれか。昨日の黒とは真逆だな」
広げた衣装は、目が覚めるような鮮やかな黄色を基調としていた。
メインとなるのは、黄色地に白い裏地がついたロングコート。そこには数えきれないほどの可愛らしいリボンがあしらわれている。
インナーは白をベースに、黒と黄色のデザインのリボンが胸元や腰に飾られたワンピースだ。袖口や裾にはたっぷりとフリルが施され、動くたびにふわりと揺れる。
「派手だな……。霧の中で目立ちそうだ」
苦笑しつつも袖を通す。足元は、太ももまでの長さがある白いロングニーハイソックス。履き口には黄色いリボンがついており、それをガーターベルトで留める。絶対領域がチラリと覗く仕様は相変わらずだ。最後に、白地に黄色のラインが入ったショートブーツを履いて、鏡の前に立つ。
「隊長、今日はまるで向日葵みたいですにゃ。元気いっぱいで可愛いですにゃ」
「……まあ、昨日のダークな感じよりは気分が明るくなるかな」
カリナはリボンの位置を直し、隊員を連れて一階の食堂へと降りていった。
食堂に足を踏み入れると、朝食の準備をしていた若女将のチェルシーが、お盆を抱えたまま固まった。
「あ……」
彼女の瞳がキラキラと輝き出し、次の瞬間、歓声を上げて駆け寄ってきた。
「きゃあああっ! カリナちゃん!! すっごく可愛いっ!!」
「お、おはようチェルシー……」
「おはようございます! 昨日のゴシックも素敵だったけど、今日の黄色いリボンは天使……ううん、霧を晴らすお日様みたい! 見てるだけで元気が湧いてくるわ!」
チェルシーは興奮気味にカリナの手を取り、一番景色の良い席へと案内した。
「さあ、しっかり食べていってくださいね! 今日は『旅立ちの朝定食』をご用意しました!」
運ばれてきたのは、脂の乗った鮭の塩焼き、出汁巻き卵、炊き立ての艶やかな白米、そして具沢山の豚汁だ。カリナと隊員は手を合わせ、温かい朝食を口に運ぶ。
「美味いな。この豚汁、生姜が効いてて体が温まる」
「鮭の皮がパリパリで最高にゃ。チェルシーの料理は世界一にゃ」
二人の食べっぷりを、チェルシーは嬉しそうに、そして少し寂しそうに見守っていた。食事が終わり、お茶を啜って一息つくと、チェルシーが大きな包みを持って戻ってきた。
「あの……これ、お弁当です。おにぎりと、唐揚げをたくさん入れておきました。道中でお腹が空いたら食べてください」
「ありがとう。……世話になったな、チェルシー」
カリナが優しく微笑むと、チェルシーの目が潤んだ。
「うぅ……。たった二日でしたけど、カリナちゃんが来てくれて本当に楽しかったです。怖い組織もいなくなって、街のみんなも喜んでます。……また、絶対に来てくださいね?」
「ああ、約束するよ。料理も湯も最高だったからな」
支払いを済ませ、別れを惜しむチェルシーに手を振り、カリナは宿を後にした。
◆◆◆
宿を出て大通りに出ると、朝の冷気の中に、鮮やかな黄色のコートが映えた。リシオノールの街は、昨日の事件解決の報せで活気づいていた。霧が少しずつ晴れ、陽の光が差し込み始めている。すれ違う人々が、カリナに気づいて足を止める。
「あっ、カリナさんだ!」「おーい! 昨日はありがとう!」
声を掛けてきたのは、昨日の突入作戦に参加した冒険者達だ。大柄な戦士が、親指を立てて笑いかけてくる。
「いやぁ、昨日の嬢ちゃんの強さには度肝を抜かれたぜ! おかげで俺達の出番は事後処理だけだったけどな!」
「怪我はないか? ゆっくり休んでくれ」
カリナが声を返すと、隣にいた昨夜一緒にお風呂に入った女性冒険者達が、頬を染めて黄色い声を上げた。
「きゃーっ! ちょっと見てよ今日の服! リボンがいっぱいで超可愛いんだけど!」「昨夜の湯上がり美人も良かったけど、今日の向日葵コーデも最高!」「ねえカリナちゃん、握手して! あ、ついでにその服のブランド教えて!」
女性冒険者達に取り囲まれ、もみくちゃにされるカリナ。
「ちょ、ちょっと待て……ブランドは……エデンの特注だから……」
タジタジになりながらも、彼女達の好意的な反応に悪い気はしない。さらに歩を進めると、今度は巡回中の衛兵達が直立不動で敬礼してきた。
「カリナ殿! 昨日は多大なるご助力、感謝いたします!」「貴女のおかげで、我々だけでは手を出せなかった巨悪を討つことができました! この街の英雄です!」
「よしてくれ。私はただ、気に入らない連中を叩いただけだよ」
街中の人々――商店の主人、子供達、老夫婦までもが、手を振り、感謝の言葉を投げてくる。霧の街に咲いた向日葵のような少女を見送るために、多くの人が道を開け、笑顔で見守っていた。
◆◆◆
人々の温かい声援を背に、カリナは北門へと到着した。ここからワダツミへは、一度北へ出て街道を大きく迂回し、山脈を越えて西の大陸沿岸を目指すルートを取る。かなりの長旅だ。門を出て、どこまでも広がる平原を前に、カリナは立ち止まった。
「ここからは陸路で行くぞ。そろそろ空の旅も飽きたからな」
「じゃあ、あれを呼ぶんですかにゃ?」
「ああ。地を駆けるなら、こいつが一番だ」
カリナは右手を前方に突き出し、召喚の祝詞を紡いだ。
「雷鳴よ、王の道を拓け
大地よ、獣王の足跡を刻め
誇り高き白銀の虎よ
蒼雷を纏いし霊装の王よ
我は命ずるにあらず、願うにあらず
盟約を胸に、共に駆ける者
契りは今、雷と共に結ばれん
ここに顕現せよ
――霊装虎王ヴァジュラ!」
バリバリバリッ!!
晴天の空から空間を切り裂くようにして、蒼い雷光が大地に突き刺さった。土煙の中から現れたのは、全長5メートルを優に超える巨大な猛虎。雪のように純白の毛並みに、蒼く発光する幾何学的な虎模様が刻まれている。四肢にはバチバチと蒼い電撃が迸り、その額にはクリスタルのように透明で鋭い『一本角』が輝いていた。圧倒的な威圧感と神々しさを兼ね備えた、虎の王だ。
「召喚に応じ馳せ参じました。我が主よ」
ヴァジュラは重厚で理知的な声を響かせ、その巨大な頭をカリナの小さな掌に擦り付けた。
「ああ。これよりワダツミへ向かう。お前の脚が必要だ」
「承知致しました。我が背は我が主のために」
ヴァジュラが身を低くすると、その背中にある紋様――『霊装紋』が蒼い光を放ち始め、搭乗者が快適に座れる、『霊装鞍』へと変化した。
「よし、頼むぞ」
カリナはヴァジュラの首筋を撫でると、フリルとリボンが揺れるのを気にせず、ひらりとその鞍に飛び乗った。隊員もカリナの前に器用に飛び乗り、しっかりと鞍のグリップを握る。
「しっかりと掴まりください。魔力障壁を展開します」
ヴァジュラの言葉と共に、鞍から淡い青色の光のドームが展開され、カリナ達をすっぽりと包み込んだ。これで高速移動時の風圧や、飛んでくる障害物、あるいは敵からの奇襲も防ぐことができる。
「行くぞ、ヴァジュラ!」
「御意!」
ドォォォォンッ!!
爆発的な加速。
ヴァジュラは蒼い雷を纏いながら、弾丸のような速度で街道を駆け出した。
周囲の景色が線となって後方へ流れていく。強烈なGがかかるはずだが、霊装鞍の制御と魔力障壁のおかげで、中は揺れ一つない快適な空間だ。
リボンのついたニーハイソックスとガーターベルトが風に晒されることもなく、黄色いコートが優雅に広がる。背後で小さくなっていくリシオノールの街。
霧の向こうで手を振ってくれているであろうチェルシーやエレナ、そして冒険者達の顔を思い浮かべながら、カリナは前を向いた。
◆◆◆
数時間ほど走り続け、リシオノールから遠く離れた山間の開けた場所で、カリナ達は休憩を取ることにした。ヴァジュラが速度を落とし、静かに停止する。魔力障壁が解除され、カリナ達は地面に降り立った。
「ふぅ、さすがに速いな。もう半分以上来たか?」
「はい、このペースならば夕刻にはワダツミに到着できるかと」
ヴァジュラが答える。カリナはアイテムボックスから、チェルシーが持たせてくれたお弁当を取り出した。竹の皮を広げると、大きな握り飯が三つと、山盛りの鶏の唐揚げ、そして漬物が入っている。
「おお、これは美味そうだ」
「唐揚げにゃ! 唐揚げにゃ!」
隊員が小躍りする。カリナはヴァジュラにも目を向けた。
「ヴァジュラ、お前も食うか? ……といっても、この量じゃ足りないか」
「お気遣い痛み入ります。ですが我は魔力を糧としておりますので、主の魔力を少し分けていただければ十分です」
「そうか。なら遠慮なくいただくとしよう」
カリナはおにぎりを一つ手に取り、大きく頬張った。中には塩鮭がたっぷり入っている。唐揚げは冷めても衣がサクサクで、ニンニク醤油の味がしっかり染み込んでいて絶品だ。
「んんっ、美味い! チェルシーの料理は冷めても最高だな」
「隊長、この唐揚げもっと欲しいにゃ! おいらの分がないにゃ!」
「お前はさっき食べたろ。これは私の分だ」
のどかな自然の中で、美味しい弁当を囲むひととき。ヴァジュラはその巨体で周囲を警戒しつつ、楽しげな主と隊員の様子を、額の角を柔らかく光らせながら見守っていた。
食事を終え、少し体を休めた後、カリナは再び立ち上がった。
「よし、行くか。ワダツミまで一気に駆けるぞ」
「はっ、お掴まり下さい」
◆◆◆
再び雷光となって大地を駆け抜ける。山脈を越え、峠を下ると、次第に空気の匂いが変わってきた。森の湿った匂いから、潮風を含んだ爽やかな香りへ。
そして、夕刻。
空が燃えるような茜色に染まる頃、視界が一気に開けた。
「おお……!」
目の前に広がっていたのは、夕陽を反射して黄金色に輝く広大な海だった。そして海岸沿いの断崖に、段々畑のように張り付く巨大な街が見える。
無数の赤い鳥居が並び、瓦屋根の建物が密集し、街全体が要塞のようでありながら、雅な美しさを湛えている。
「あれが……今のワダツミか」
「左様でございます、主よ。海の都、ワダツミ。目的地に到着致しました」
ヴァジュラが崖の上で足を止める。夕風が吹き抜け、カリナの黄色いコートと赤い髪をなびかせた。眼下に見える街からは、活気ある人々の声や、港に出入りする船の汽笛が微かに聞こえてくる。
「ありがとう、ヴァジュラ。最高の走りだった」
「勿体なきお言葉です」
カリナはヴァジュラをひと撫ですると、隊員と共にその雄大な景色を見つめた。この街のどこかに、『相律鎮禍連』の総本部があり、棟梁カナミがいる。
「さて、行くぞ隊員。まずは宿探し……の前に、本部の場所を確認するか」
「了解にゃ! 美味しい海鮮料理も楽しみにゃ!」
新たな舞台、ワダツミ。
カリナの瞳に、夕陽と希望の光が重なって輝いた。




