34 高所の危険
翌朝、目覚めるとベッドの中にはケット・シー隊員が丸くなって隣で眠っていた。こいつはいつの間に潜り込んだんだ? と思いながら身体を起こす。まだ眠気を孕んだ目を擦りながら、大きく伸びをした。
ベッドから飛び起きて、身に付けているちょっとセクシーなルナフレアの趣味の寝間着を脱いで、アイテムボックスから今日着る衣装を取り出す。苦労してブラジャーを身に付ける。黒で裏地は赤の、リボンが肩口や袖に施されたロングコート、インナーには黒を基調として白と紫のデザインがあしらわれたタイトなチューブトップワンピース、足元は紫に白のラインが入ったニーハイソックスに黒に白いデザインのショートブーツ。そして最後に腰に剣と刀を装着して完了。姿見で自分の姿を確かめる。いつもながらファンシーな衣装である。だが今の美少女姿のアバターには良く似合う。
鏡に映る自分の姿に満足すると、洗面所で顔を洗い、ブラシで髪を梳く。もこっと膨らんだクセ毛のツインテールにブラシが少々引っ掛かるが、サラサラの髪の毛は綺麗に纏まった。部屋のトイレで用を足して、はあーと溜め息を吐く。どうもこれにだけはまだまだ慣れない。いい加減に慣れないといけないと思いつつ、まだベッドで丸くなっている隊員の姿を見る。
「起きろ隊員。出発するぞ」
「うにゃ、隊長おはようございますにゃ」
「おはよう。今日は聖光国に向かう。早く準備しろ」
「わかりましたにゃ」
隊員はベッドから飛び降りると赤いブーツの様な長靴に青いマントを羽織り、黒いシルクハットを被った。そしてぺろぺろと毛づくろいをした。カリナはフェイスタオルを濡らして、隊員の顔をごしごしと拭いてやった。人間の感覚では自分の舌で顔を整えるのはどうにも汚く思える。
「うにゃ、冷たいにゃ」
「我慢しろ。唾液で顔を洗うのはどうも綺麗には思えん」
「猫の常識も知っておいて欲しいにゃ」
「知らん」
「御無体にゃ」
互いの身だしなみを整えて、忘れ物がないかを確認、宿泊した部屋に鍵をかけて退出した。一階の食堂へと向かう。隊員と一緒にカウンターに腰掛け、女将に朝食を頼んだ。
「おはよう、カリナちゃん。今日は早いんだね」
「おはよう。今日は聖光国に向けて出発するから、少し早目にね」
「おはようございますにゃ、女将さん」
「猫ちゃんもおはよう。今朝食を出すからしっかり食べて行くんだよ」
女将はそう言うと料理を始めた。周囲を見回すと、まだそこまで混んではいない。時計を見ると8時半だ。昨日よりは早いが、そこまで早起きというわけでもない。近くを通る宿泊客や給仕の女性に「おはよう」と声を掛けられる。それに答えたりしながら暫くするとトレイに乗せられた朝食が出された。ライスに焼き魚、卵焼きに野菜のお浸し。隊員にはフィッシュパイが出された。
「いただきます」
「いただきますにゃ」
ここから聖光国までは丸一日はかかる。そして周りは高い山々に囲まれた高地にある。山道は上るのが大変そうだなと思いながら、誰か目ぼしい召喚体がいなかったかなと考える。まあそのときに考えればいいかと思い、朝食に手を付ける。
脂ののった魚の塩加減は丁度良いし、卵焼きもふわふわで味がしっかり染みている。野菜も新鮮な風味がして箸が進む。ライスもふっくらと炊いてあり、ほんのり甘みを感じた。
隊員はフィッシュパイをナイフで切りながらフォークで器用に口に運んでいる。一緒に出されたミルクを飲みながら、肉球の付いた手で頑張って食べているように見える隊員の姿は何ともユニークである。
最後に出されたコーヒーを飲んで、お腹は良い感じで膨れた。隊員が食べ終わるのを待つ間に、道中で休憩がてらに食べれるものを何品か包んで貰い、会計を済ませた。
「ごちそうさまでした。じゃあ行ってきます。またこの街に来たときには顔を出すよ」
「ごちそうさまですにゃ。見事なパイでしたにゃ」
「はいよ、お粗末様。気を付けて旅をするんだよ」
「ありがとう。気を付けるよ」
給仕の女性達や街の住人達にも見送られて、カリナは翠風の木陰亭の前の大通りに出た。偶にはまともに召喚してやろうかと思い、両手に白く輝く魔法陣を展開して祝詞を唱える。
「天翔ける白翼よ、
蒼穹を護りし聖なる駿よ。
その蹄で闇を祓い、
その翼で我が祈りを受けよ。
光雲を裂き、天道より降り来たれ――
聖駿天馬ペガサスよ!」
重なり合った輝く魔法陣から神聖なオーラを纏ってペガサスが姿を現した。呼び出された天馬は空に向かって嘶き、その顔をカリナに近づけて来た。その顔や白銀の鬣を撫でてやる。ペガサスは目を細めて心地良い表情をした。
本来は召喚の祝詞を正しく唱えなくては召喚体は応えてくれない。だがカリナは召喚体達をどれも労力をかけて育成して来た。そのため、呼ぶだけで召喚することは可能だ。しかし、より強く能力を引き出したいときは正式な祝詞を唱える必要がある。それにその方が召喚体からは喜ばれるのである。いつもは「来い」と呼ばれるだけのペガサスが喜んでいるのはそれが証拠である。だが戦闘中や急を要する場合は簡易的な祝詞や、カリナ程の信頼があれば、ただ呼ぶだけで応えてくれるのである。
最初は呼び出す度に長い祝詞を必要とするため、面倒臭がるPC達が少なからず存在した。召喚士の絶対数が少ないのはこういう不便さも問題なのである。
「さてぺガサス、私と隊員を乗せてルミナス聖光国へと向かってくれ。頼んだぞ」
そう言って屈んだ天馬の背に跨る。カリナの座る位置の前に隊員を乗せてやった。街行く人々が、この街を救った美少女の旅立ちを手を振って見送る中、ペガサスは天空へと飛び立った。
「やっぱり上空は少し寒いな。コートを着ておこう」
ルナフレアから貰った厚手のコートを着込んでフードを被る。隊員は空高く飛ぶペガサスの背で興奮気味である。
「お前は寒くないのか?」
「毛皮に覆われていますのにゃ。寒さには強いのにゃ」
それもそうかと納得する。だが猫はこたつで丸くなるものじゃないのか? とカリナは思うのだった。
◆◆◆
遠くに高い山脈が見える。そしてその山々の間に大きな都市が見えた。ルミナス聖光国である。このままのペースで行けば早く到着できるかもしれないが、ペガサスが高度をかなり上げていたことに気付いていなかったカリナに少しずつ変化が訪れる。
ペガサスの羽ばたきは力強く、空気を切り裂くたびに白い雲が真下へ流れ落ちていく。最初は爽快だった。風は冷たいが心地よい。だが、高度が更に上がるにつれ、胸の奥に妙な重さが張りつくように広がっていった。
呼吸が浅くなった。吸い込んでも吸い込んでも、肺の奥まで空気が届かない。まるで冷たく薄い風が喉の途中で散ってしまうようだ。
額から汗がにじむのに、指先は凍りついたように冷たい。
視界の端がゆっくりと白くぼやけ、遠くの山脈が蜃気楼のように揺れ始める。
「……ちょっと、息が……」
「隊長、どうかしたのにゃ?」
言葉にした瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。心臓が忙しなく早鐘を打ち、鼓動が耳の奥で鳴り響く。ペガサスの鬣を握る手がかすかに震え、風の流れは同じはずなのに、体温だけが急速に奪われていく。
頭が痛む。脈拍に合わせてズキン、ズキンと響き、視界が明滅した。風が頬を叩く音も、どこか遠い。
ペガサスがカリナの変化に気づいたのか、優しく嘶き、わずかに高度を下げる。その動きに合わせて身体がふらつき、胸の奥にたまっていた息が不意に漏れた。
「……はぁ……息が……少し、戻った……」
「大丈夫ですにゃ、隊長?」
隊員の声が微かに聞こえる。だが、まだ頭は重い。空気の薄さが、身体の内側からじわじわと蝕むように迫ってくる。青い空の美しさすら、今はどこか遠い世界のものに思えた。
ペガサスの背にしがみつきながら、肺の奥で空気が薄く弾けるような感覚が続いていた。呼吸をするたび胸が軋み、吸った空気は冷たく軽く、まるで何ひとつ体に残っていかない。
視界が揺れる。遠くの空が白くにじみ、ペガサスの鬣の銀色もぼんやりと霞をまとって見えた。
――おかしい。風の音が遠い。耳が塞がれたように、世界がゆっくりと薄くなる。身体の感覚が指先から消え、次に足、腕――まるで自分が空の中へ溶けていってしまうようだ。
心臓の鼓動だけが妙に大きく、それも次第に不規則に跳ね、やがて音すら弱くなる。頭が重く、首が耐えられず後ろへ傾いた。空が回転し、青と白が渦のように混ざる。まぶたが勝手に落ちていき、開けようとしても力が入らない。
「……ぁ……」
声にならない声が漏れた瞬間、全身から力が抜け、意識が深い霧の中へ沈んでいった。
落下しそうな感覚だけが、かすかに残る。ペガサスが焦ったように嘶き、大きく羽ばたく音が聞こえて来たが、それを認識する前に、視界は完全に闇へ閉じた。
「隊長ー!!! ペガサス、隊長を助けるにゃ!」
カリナの身体がぐったりと前へ傾いた瞬間、ペガサスは大きく翼を震わせた。背に伝わる異変に即座に反応し、鋭い蒼い瞳が風を裂く。
――落とさせない。そう言わんばかりに、ペガサスは片方の翼をわずかに畳み込み、身体を深く傾けて速度を抑える。空の冷気が白いたてがみを荒々しく揺らすが、その軌道は驚くほど滑らかだった。
気絶したカリナは、軽い布のように背で揺れる。ペガサスは首をひねり、主人の身体を鼻先でそっと押し戻す。
高度が下がり始めると、風が一気に重みを増し、翼の膜に圧し掛かる。ペガサスは翼を大きく広げ、ひらりと空気を抱き込むようにして滑空へ移行した。
雲を抜け、地面が見えた瞬間、天馬は四肢へ力を込め、着地点として適した場所を素早く選ぶ。岩場を避け、柔らかな草地へ向かって軌道を調整した。
着地の直前、ペガサスは翼を横に大きく張り、強い風を受けて速度をぎりぎりまで殺した。ふわり、と大気が揺れる。巨大な羽ばたきが地上に影を走らせ、次の瞬間――
コトリ
まるでガラス細工を置くかのような静かな音で四蹄が地に触れる。衝撃を最小限にするため、脚を深く折り、主人の身体に揺れが伝わらないよう細心の動作で沈み込む。
完全に停止すると、ペガサスは振り返り、気絶したカリナの顔を覗き込む。鼻先でそっと頬を撫で、白い息を漏らした。
――守った。大切な主であるカリナを。その強い意志が、静かな草原に確かに漂っていた。
◆◆◆
胸の奥でくぐもっていた鼓動が、ゆっくりと世界と同じ速度に戻っていく。まだ指先は痺れ、足元には重りがついているようだったが、それでも確かに「自分の身体」が戻ってきている。
耳の奥で鳴っていた低い唸りは次第に弱まり、代わって風が草を揺らす細やかな音が聞こえてきた。鼻腔には、冷たい水の空気と、どこか甘い草の香りが微かに混じって漂う。
徐々に、意識が戻ってきている……。
薄く開けた瞼の向こうで、白い影がゆるりと動いた。光に慣れてくるにつれ、それがペガサスの首筋であり、羽休めのために身体を地面に横たえて身じろぎする姿だと分かってくる。
ぼやけていた輪郭が、ひとつひとつ鮮やかに収束していく。世界がスローモーションから、ゆっくり通常の速度へと切り替わっていくようだった。
「……っ、は……」
浅く息を吸うと、胸が軽く震えた。さっきまで感じていた頭の奥の鈍い痛みも、次第に引いていく。その変化を察したかのように、ペガサスが主人の顔を覗き込み、瞳を細める。その瞳はまるで雲の切れ間からのぞく空のように静かで、優しく、揺らぎがない。
カリナはかすかに手を伸ばした。指先が鬣に触れると、温かくて、柔らかくて、それが決定的な実感となった。
「……大丈夫だ。もう、意識は、戻った……」
目の前の景色がようやく確かな色と形を取り戻し、立ち上がりこそまだできないが、意識だけは確かに「ここ」に帰ってきた。
静かに息を吐いたその瞬間――完全な覚醒が、波のように体の隅々まで広がった。
「隊長、大丈夫ですかにゃ?」
「あ、ああ、隊員か……。どうやら気を失っていたらしいな」
「良かったにゃー! 心配したにゃー!」
まだ感覚が鈍い身体にケット・シー隊員が飛びついて来る。「すまない、心配をかけたな」とその頭を撫でてやる。
そして自分の身体を後ろから支えてくれているペガサス。その心配そうに覗き込んで来る顔を撫でてやった。
「ありがとうな。お前に救われたようだ……」
ペガサスは自慢するかの様に鼻を鳴らした。目の前には小さな澄んだ泉がある。ペガサスの後ろには巨木が一本あり、その枝葉が木陰を作ってくれている。道中の一休みするには調度良いスポットだろう。
カリナは状態異常回復のポーションをアイテムボックスから取り出して、それを飲み干した。更にペガサスから癒しの波動が送られて来る。それが徐々にカリナの体調を回復させていった。
あれほどルナフレアに高山病には気を付けるように言われていたのに、やってしまったと後悔した。仕方なく、調子が戻るまでカリナは暫くここで休んでいくことに決めた。




