108 制約とカグラの慈愛
アリアの部屋を辞したカリナは、重い足取りでカグラと隊員が待つ貴賓室へと戻ってきた。
扉を開けると、そこには既に豪勢な昼食がテーブルいっぱいに並べられていた。アレキサンド名物の肉料理や、彩り豊かな野菜のテリーヌ、そして数種類の果物。カグラは優雅にフォークを動かし、隊員は口の周りをソースで汚しながら夢中で肉にかぶりついている。
「おかえりなさい、カリナちゃん。どうだった?」
カグラがグラスを置き、振り返る。その茶色のミディアムヘアがふわりと揺れ、穏やかな表情の中に鋭い知性が光っていた。
「こちらは一応、資料から禁忌の術などの解析が終わったわ。恐ろしい術式ばかりだったけれど……今後はこれが悪用されないように、対策を練らないとね」
「ああ、お疲れ様。……悪い、私も少し食べるよ」
カリナは空いている席に座り、まだ温かいローストビーフを皿に取り分けた。一口食べ、その旨味に少しだけ心が安らぐのを感じながら、カリナは静かに口を開いた。
「彼女は……間違いなく『女神』だ。この世の理の常識を遥かに超える存在だ」
その言葉に、カグラの手が止まる。
「何か分かったの?」
「ああ。彼女が探している人物は、私である可能性が高い。だが、この世界ではアバターという仮初めの姿が邪魔をして、魂にある目印がはっきり見えなくて、そこまで確証が持てないらしい」
カリナはナイフを握る手に力を込める。
「それに……この世界から次元を斬り裂いて脱出することなど簡単だ、とも言っていた。私達が必死に生きているこの世界の理屈など、彼女にとっては取るに足らないことなんだろうな」
「次元を斬り裂く……? まるでSF映画ね」
「笑えない話だがな。……それと、彼女はその人探しの合間の暇潰しに、このVAOをプレイしていたPCの一人でもあるそうだ」
カリナが告げると、カグラは目を丸くし、やがてクスクスと笑い出した。
「ふふっ、あはは! 神様がネトゲをするなんて、ずいぶんと俗っぽいのね。親近感が湧くような、畏れ多いような……」
「全くだな。だが、その力は本物だった」
カリナは表情を引き締める。ここからが、アリアから聞いた最も重要な情報だ。この世界が虚構であり、悪魔以上のとんでもない存在が創った実験場であること。それをカグラに伝えようと、口を開きかけた瞬間――。
「――っ……ぐぅっ……!」
ドクンッ! と心臓が跳ね上がり、見えない鎖が喉と心臓を締め上げた。強烈な圧迫感に、カリナは胸を押さえて呻き声を上げる。
「カリナちゃん!? どうしたの!?」
カグラが慌てて駆け寄り、背中をさする。隊員も「隊長!?」と心配そうに顔を覗き込む。数秒のたうち回り、ようやく痛みが引いていく。カリナは脂汗を拭いながら、荒い息で告げた。
「はぁ、はぁ……。大丈夫だ、心配かけたな……。だが、今確信した」
「確信って……?」
「大事なことを伝えられたんだが……魂を『制約』で縛られていて、喋ることができない。口に出そうとすると、今みたいに胸が締め付けられる」
「制約……!? そんなことができるなんて、とんでもない存在ね。魂を縛るなんて、高位の悪魔にだってできる芸当じゃないわよ」
カグラの顔色が青ざめる。相克術と陰陽術のエキスパートである彼女だからこそ、その異常性が理解できるのだろう。
「ああ。彼女は天界からこの世界、地球に来たとも言っていた。あの圧倒的な存在感と、全てを見透かすような瞳は嘘じゃない。それに、固有の能力でこちらの嘘も見抜かれる。……とんでもない存在だよ、本当に」
「……そんな相手だと、お手上げね。敵対したら瞬きする間に消されそうだわ」
カグラが降参するように肩をすくめる。だが、カリナはその碧眼に強い光を宿した。
「だが、彼女は言っていた。この剣術大会で、決勝で当たるように調整しておく、と。そこで彼女に一太刀でも入れられたら、この制約を解除してくれるらしい」
「一太刀……」
「現状、まるで勝てる気はしない。剣を交える以前に、存在の格が違いすぎる。だが……」
カリナは拳を握りしめる。
「神が嘘を吐くなんてことはないだろう。勝てる気はしないが、一太刀くらいは入れてみせる」
「やっぱり本物の女神様なのにゃ……。どうりで、精霊にとっては遥か上位の存在、懐かしさを感じると思ったにゃ」
隊員が納得したように頷く。精霊であるケット・シーには、アリアの神気がより鮮明に感じ取れていたのだろう。
「でも、どうするの? カリナちゃんの剣技でも、相手にならないかもしれないのよ? あんな見たこともない魔法技術を展開する女神、厄介ね……」
「まあそうだが、自分達と敵対する存在じゃない。彼女には彼女の、天界からの使命があるらしいからな」
カリナは少し声を潜めた。
「それに、この世界から脱出するには『悪魔』を駆逐する必要があるらしい。あいつらが、この世界の楔になっているそうだ」
「悪魔を、駆逐……」
「彼女は超常の存在だ。そんな力があるなら、全部片づけてくれたらいいのにな」
「本当よね。私達が命がけで戦っている相手を、指先一つで消せるんでしょう?」
カグラが不満げに頬を膨らませるが、カリナは首を横に振った。
「それは『天界の掟』で、人間に過剰に肩入れはできないらしい。あくまで、人間の可能性を確かめるのが彼女の姿勢らしいよ」
「なるほど、試練というわけね。……まあ、悪魔退治なら私達にとっても重要なことだし、言われなくても何としても駆逐してやりましょう」
カグラはパチンと扇子を鳴らし、不敵に笑った。
「私達の力、その女神様に見せつけてやろうじゃないの」
その楽観的で頼もしい彼女の姿に、カリナの胸のつかえが少し取れた気がした。
「……ありがとう、カグラ。お前のそういう前向きなところ、好きだよ」
「あら、急に言われると照れるわね……。そういう無神経に素直なところは、昔から変わらないのね」
カグラがほんのりと頬を染め、嬉しそうにはにかんだ。
◆◆◆
食事を終え、一息ついた頃。カグラが立ち上がり、カリナの手を引いた。
「じゃあ、本格的な訓練は明日からにして、今日は羽を伸ばしましょう。まずは大浴場に行くわよ!」
「え、またか? 昨日も一緒に入っただろ」
「バカねー。城の大浴場は別格よ。それに、悩み事があるならお湯に流すのが一番だわ」
有無を言わさず連れ出され、二人は再び城の大浴場へと向かった。隊員は「おいらも行くにゃ」と男湯へ。脱衣所に入ると、カグラは当然のようにカリナの前に立った。
「さ、バンザイして?」
「いや、さすがに自分で脱げるって……」
「だーめ。今日は一段とお疲れでしょう? 全部お姉ちゃんに任せなさい」
カグラは手際よくカリナの冒険者服のボタンを外し、フリルのついたコートを脱がせていく。まるで着せ替え人形を扱うかのような手つきに、カリナはされるがままになるしかない。
服が脱がされ、下着姿になると、カグラが目を細めて微笑んだ。
「あら、今日のパンツもブラジャーも可愛いわね。薄い水色にレースの縁取り……。それに、ちゃんと着けられてるのね」
「う……うるさいな。まあ、最初は苦労したけどな。それにこれはルナフレアが用意したものだし」
カリナにとって、女性用下着のホックや着け心地には随分と悩まされたものだ。今では慣れてしまったが、カグラに指摘されると気恥ずかしい。カリナが顔を赤らめて胸元を隠すと、カグラは楽しそうに笑いながら最後の一枚まで脱がせ、自身の服も流れるような所作で脱ぎ捨てた。
◆◆◆
広大な浴室へと足を踏み入れる。昼下がりの大浴場には、休憩中の城仕えのメイドや、女性騎士たちの姿もあった。
「わぁ……見て、あの方達」「あの国賓の冒険者の方よね? 可愛い……」「ええ、ザラーの街を救ったって言う……」
カリナとカグラが現れると、周囲から感嘆の溜息と尊敬の眼差しが向けられる。燃えるような赤髪の美少女と、艶やかな茶髪の和装美女(今は裸だが)。その組み合わせは、同性の目から見ても眼福であり、英雄としての輝きを放っていた。
カグラは周囲の視線を気にする様子もなく、カリナを洗い場へと促した。
「さ、カリナちゃん。ここへ座って」
有無を言わせず椅子に座らせると、カグラはたっぷりと泡立てたスポンジで、カリナの白い背中を優しく洗い始めた。
「ん……」
「気持ちいい? こわばってるわよ、力を抜いて」
首筋から肩、そして背骨に沿って滑る手が、溜まっていた緊張を溶かしていく。体だけでなく、カグラはカリナの長い赤髪にも指を通した。
「このクセ毛、本当に可愛いわねぇ。ぴょこんとしてて」
ツインテールの特徴である跳ねた毛先を指で弄び、泡で包み込む。
「……あの女神様も、同じ髪型だったわよね。毛先の色が違うだけで、瓜二つ。不思議ね」
「……ああ。ドッペルゲンガーかと思ったよ」
「ふふ、でも中身は全然違うわね。カリナちゃんの方がずっと可愛げがあるわ」
カグラは悪戯っぽく笑いながら、泡だらけの手でカリナの脇腹をくすぐるように洗う。
「ちょ、そこは弱いって!」
「あはは、ごめんごめん。……さ、流しましょうか」
シャワーで泡を流し、二人は中央の巨大なライオンの浴槽へと浸かった。手足を伸ばしても縁に届かないほどの広さ。豊富な湯量が、二人を温かく包み込む。
「ふぅ……。生き返るな」
カリナが安堵の息を漏らすと、隣にいたカグラがそっと身を寄せ、正面からカリナを抱きしめた。
「カグラ……?」
「じっとしてて。……大変だったわね、カリナちゃん」
お湯の中で、肌と肌が密着する。カグラの豊満で柔らかな胸の感触が、カリナの胸に押し当てられる。水圧と体温、そしてカグラの柔らかさが混然一体となり、カリナの思考を甘く溶かしていく。
「制約だなんて怖い思いをして……。女神だなんて途方もない相手に挑まなくちゃいけなくて……。怖かったでしょう?」
カグラの手が、お湯の中でカリナの背中を優しく撫でる。 まるで怯える子供をあやすような、慈愛に満ちた仕草。その光景を見ていた周囲のメイドや騎士達が、頬を染めて囁き合う。
「あら、仲が良いのねぇ……」「まるで本当の姉妹みたい」 「はあー……美女同士の絡み合いは尊いわね……」「絵になるわぁ……」
周囲からの生温かい、そして若干熱のこもった視線に気づいているのかいないのか、カグラは愛おしそうにカリナを抱きしめ続けた。
「……怖くない、と言ったら嘘になるな」
カリナはカグラの肩に額を預け、正直な気持ちを吐露した。強大な神の力。底知れぬ恐怖。それを一人で抱え込んでいた緊張の糸が、カグラの温もりによってほどけていく。
「でも、大丈夫よ。私がいるわ。隊員も、エデンの皆もついてる」
揺蕩うお湯の中で、二人の体が一つに溶け合うような錯覚。カグラの吐息が耳元にかかり、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
それは単なるスキンシップを超えた、魂を癒やす儀式のようだった。カリナはこの温もりがある限り、自分は折れないと確信した。この日常を守るためにも、絶対に一太刀入れてやる。そう強く心に誓った。
◆◆◆
夜。
貴賓室には、昼食以上に豪勢なディナーが運ばれてきた。 専属のシェフが腕を振るったフルコースに舌鼓を打ち、明日の予定を確認する。
「明日は朝から騎士団の演習場に行く。約束通り、彼らに稽古をつけるつもりだ。それに私が決勝まで行けないとどうしようもないからな」
「いい心がけね。でも、無理はしないようにね? 相手は女神様なんだから、コンディションは万全にしておかないと」
「ああ、分かってる」
食事を終え、就寝の時間。広いベッドが二つあるにもかかわらず、当然のようにカグラはカリナのベッドへと潜り込んできた。
「……カグラ?」
「ん? なぁに? 今日は特別甘えん坊さんにしてあげる」
カグラはカリナを正面から抱きしめ、その頭を自身の胸に抱き寄せた。柔らかい感触と、リズミカルな心音。カグラの手が、カリナの背中をポンポンと一定のリズムで叩く。
「よしよし……。良い子ね、カリナちゃん。ゆっくりおやすみなさい」
「……子供扱いするなよな」
口ではそう言いながらも、カリナは抵抗することなくその腕の中に身を預けた。隊員は隣の豪華なエキストラベッドで、大の字になって爆睡している。
静かな夜。カグラの母性にも似た愛情に包まれながら、カリナは安らかな眠りへと落ちていった。
明日から特訓だ。……待っていろ、女神アリア。必ず一太刀入れて、その制約を解いてみせる!
女神への挑戦権を賭けた一週間が、始まろうとしていた。




