107 女神の言葉
「いらっしゃい、カリナさん。まあ、立ったままではなんですし、掛けたらどうですか?」
アリアは優雅な仕草で、向かいの席を手で示した。テーブルの上には、既に湯気を立てる二つのティーカップ。最高級の茶葉の香りが、部屋の中に満ちている。まるで、カリナがこのタイミングで訪ねてくることを、最初から知っていたかのような準備の良さだった。
カリナは一瞬躊躇したが、意を決して椅子を引き、アリアと対面する形で腰を下ろした。
「いただきます」
勧められるままに紅茶を一口含む。渋みがなく、花のような芳醇な香りが鼻腔を抜ける。それは、毒など入っていない、純粋なもてなしの一杯だった。カップをソーサーに戻し、カリナはその碧眼を細めて、目の前の美女――自分と瓜二つの髪色を持つ、違いはカリナの毛先が金髪くらいの、謎の存在を見据えた。
「……単刀直入に聞く。あなたは一体、何者なんだ? なぜ私のことを知っている? そして……先ほど言っていた『女神』というのは、本当なのか?」
矢継ぎ早に繰り出された質問に、アリアはカップを口元で傾け、ふふっと楽しげに笑った。
「せっかちですねぇ。でも、答えは先ほど言った通りですよ。――女神です」
またしても、はぐらかすような返答。だが、その言葉には嘘の匂いがしない。それどころか、彼女が纏う空気そのものが、人知を超えた何かであることを雄弁に物語っていた。
カリナは深呼吸をし、ずっと胸の内に秘めていた「確信」をぶつけることにした。
「……私は以前、ある場所で『真実』の一端に触れた」
「ほう?」
「『死者の迷宮』の最深部……そこにあった祭壇の鏡だ。私はそこで、現実世界で死に別れたはずの幼馴染――『彩』と再会した」
カリナの脳裏に、あの時の情景が蘇る。鏡の向こうで微笑んでいた、懐かしくも切ない少女の姿。
「彼女の髪は、生前のような赤茶色ではなく、透き通るような銀髪に変わっていた。そして彼女は言ったんだ。『女神様に、別の世界に転生させてもらった』と」
アリアの手が、わずかに止まる。
「さらに彼女はこうも言っていた。『その女神様が、今、あなたのことを探している』と。……今の私がいるこの世界では因果が正しく回っていないため、私がトラブルに巻き込まれやすくなっているとも教えてくれた」
カリナは畳み掛けるように言葉を続ける。
「それだけじゃない。先日、私の召喚体であるカイザードラゴンのアジーンを呼び出した時、あいつは言っていた。『龍の谷に、自分とよく似た赤い髪の女神が滞在していて、人化の術を教えてもらった』と」
そこまで言い切って、カリナはアリアの深紅の瞳を射抜くように見つめた。
「アリアさん。……彩を転生させ、アジーンに術を教えた『女神』とは、あなたのことじゃないのか?」
静寂が部屋を支配する。アリアはゆっくりとカップを置き、切れ長の目を細めて微笑んだ。
「へー……。彩ちゃんと会ったのですか。懐かしい名前ですね」
肯定も否定もしない。だが、その口ぶりは明らかに「知っている」者のそれだった。
「それに龍の谷……ああ、アジーン君ですね。彼、元気にしていましたか? 少し甘えん坊ところがありますけど、素直な良い子でしたから。ああ、母上に会いたいとも言ってましたね」
まるで教え子の話をするように、慈愛に満ちた表情を浮かべるアリア。カリナはテーブルに身を乗り出した。
「やっぱり……! なら、あなたが私を探している女神なのか?」
その問いに、アリアは小首を傾げ、困ったように眉を下げた。
「そうですねぇ……。確かに私は、ある『探し人』を見つけるために、はるばる天界から地球まで降りてきました」
「天界、から……!?」
「ええ。ですが……その人には、魂にとても小さくて、今にも消えそうな『目印』があるんです。私はそれを頼りに探しているのですが、まだ確証が得られていません」
アリアはカリナの顔を、いや、その奥にある魂を覗き込むように見つめる。
「この虚構の世界では、アバターという仮初めの肉体が邪魔をして……カリナさんの本当の姿の中にある目印までは、はっきりとは分からないんですよねぇ」
「虚構の世界……?」
その単語に、カリナは背筋が凍るような感覚を覚えた。 この世界が、現実となったはずのこの場所が、虚構だと言うのか。
「……あなたは、この世界が元々『ゲームの世界』だったと知っているんだな?」
「もちろんです。知っていますよ」
アリアは悪戯っぽく舌を出した。
「だって私も、人探しの暇潰しに、このVAOというゲームをプレイしていた『PC』の一人でしたから」
「なっ……!?」
女神がネトゲをしていたという事実に、カリナは開いた口が塞がらなかった。あの圧倒的なまでの雰囲気は、女神としての力と、プレイヤーとしての知識が融合した結果なのか?
「なら……! 女神なら、この世界を元に戻せないのか!? いや、この世界から脱出することもできるんじゃないのか!?」
カリナが食い下がると、アリアは事も無げに言った。
「脱出? そんなの、次元を斬り裂いて外に出ればいいだけですから、簡単ですよ?」
「か、簡単って……」
次元を斬る。その言葉の重みが、あまりにも軽過ぎる。だが、今のカリナにとって、それは喉から手が出るほど欲しい希望の糸だった。
「だったら……! 今すぐ私の現実の体……いや、魂を調べてくれ! 私にその『目印』があるかどうかが分かれば、あなたの目的も果たせるはずだ!」
カリナは必死に訴えた。もし自分がその探し人なら、この異常な世界から抜け出し、彩のいる世界へ行けるかもしれない。
しかし、アリアの表情から笑みが消えた。部屋の空気が、急激に重くなる。
「……そうして、もしあなたにその目印があったなら。あなたはすぐに、彩ちゃんがいる異世界に行きたいのですか?」
冷徹な響きを持つ問いかけ。カリナは一瞬言葉に詰まったが、すぐに答えを絞り出した。
「当たり前だ……! 彩にもう一度会いたい。それが、私の……俺の、一番の願いなんだから」
「そうですか」
アリアは感情の読めない瞳でカリナを見据える。
「この世界が虚構だとしても……。今、世界を覆おうとしている悪魔の脅威や、あなたを慕う友人達を放り出してまで、そうしたいと?」
「っ……!」
カリナの言葉が詰まる。脳裏をよぎるのは、この世界で出会った人々だ。
カシュー、エクリア、カグラ、サティアといった大切なPC仲間達。そして、自分を心から慕い、支えてくれるルナフレアや代行のリーサ。街の人々の笑顔。共に戦った兵士達。彼らは元NPCだったかもしれない。この世界は虚構なのかもしれない。だが、彼らは今、確かに生きていて、感情を持っていて、人生を歩んでいる。
「私は……」
それでも、彩への想いは強い。長年の後悔と、再会への渇望。カリナは迷いながらも、声を絞り出した。
「私は……それでも、行きたい。彩の元へ……」
その言葉が落ちた瞬間。アリアの真紅の瞳が、カッと鋭く輝いた。
「――Doubt。嘘ですね」
空間が歪むような重圧が、カリナの全身を押し潰す。
「な、なに……?」
「私は正義と公平を司る女神。私の固有能力である『魂の天秤』は、言葉の真偽を魂の重さで量ります。……あなたの言葉は、今、天秤を大きく揺らしました」
アリアは冷ややかに、しかしどこか諭すように言った。
「あなたには、この虚構の世界でも、掛け替えのない大切な人達や仲間がいる。それを放り出して、自分一人だけこの世界から抜け出そうとは……本心では、微塵も思っていませんね?」
「……っ!」
図星だった。彩に会いたいのは本当だ。だが、それと同じくらい、いや、それ以上に――今の自分を支えてくれているルナフレアの笑顔を、カシュー達の信頼を、裏切って消えることなどできないと、魂が叫んでいる。
あいつらを置いて、自分だけ逃げる? そんな薄情な真似は、今の自分には到底できるわけがなかった。
カリナは拳を握りしめ、俯いていた顔を上げた。その碧眼には、迷いのない光が宿っていた。
「……ああ、その通りだ。私は、確かにこんな目に遭って、初潮の痛みにも苦しんで、散々な思いをしてる。でも……」
カリナははっきりと告げる。
「この世界の人々は、元NPCだとしても、今はちゃんと人格があって、感情があって、必死に生きている。カシュー達は大切な仲間だし、ルナフレアは……私の帰りを待ってくれている」
カリナは自分の胸に手を当てた。
「この状況で、大切な仲間を見捨てて自分一人だけ抜けるなんて……、そんな薄情な真似、私にはできない!」
カリナの魂からの叫びを聞いた瞬間。部屋を支配していた重圧が、ふっと霧散した。アリアの顔に、花が咲くような美しい笑顔が戻る。
「ふふっ……。そうですよね。あなたの心が、とても清らかな魂をしているのは分かりましたよ」
試されていたのだ。カリナは安堵と共に、深い溜め息をついた。
「……意地悪なんだな、女神様は」
「あら、ごめんなさい。でも、大事なことですからね」
アリアは紅茶を一口飲み、表情を引き締めた。
「では、本題に入りましょうか。カリナさん、あなたは聞きましたね。『この世界は一体どうなっているんだ』と」
「ああ」
「この世界は……ある強大な存在によって創られた、魂の実験場なのです」
「実験場……?」
「ええ。強い魂を持つ者を閉じ込め、過酷な環境に置くことで何が起きるか……それを観察し、実験をしている存在がいます。それは、悪魔などとは比べ物にならないほど強大で、私達天界の神族と敵対している『奴ら』の仕業です」
アリアの声のトーンが落ちる。それは、神ですら忌避する存在への警戒心なのか。
「人間の力では、どうあがいても決して敵わない存在です。……ですが、ヒントとして一つだけ教えておきましょう。この世界から脱出したければ、その存在の手下である『悪魔』を駆逐していくのが、方法の一つです」
「悪魔を……駆逐する?」
「はい。この世界を維持している楔のようなものですから」
カリナは眉を寄せた。
「悪魔が主の復活を企んでいるということは知っている。それを阻止、または斃せばいいのか?」
「そう簡単にできますか? 相手はこの世界の理すら書き換える力を持っていますよ」
「なら……、あなたがやってくれればいいじゃないか! 女神の力があれば、そんな存在や悪魔など、瞬殺できるんだろう?」
カリナの問いに、アリアは静かに首を横に振った。
「そう簡単にはいきませんよ。私には『天界の掟』があるのです。人間にそこまで深く干渉することは許されていません。あくまで、人間の可能性を見定めるのが私の役目……。それに」
アリアは窓の外、広大な空を見上げた。
「私が直接手を出せば、それこそこの世界そのものが壊れてしまうかもしれませんからね」
圧倒的な力の差。それを自覚しているからこその不干渉。 だが、アリアはカリナに向き直り、真紅の瞳を妖しく光らせた。
「それに……少し、喋り過ぎましたね」
「え?」
アリアが指をパチンと鳴らす。その瞬間、カリナの心臓がドクンと大きく跳ね、胸の奥に冷たい鎖のようなものが巻き付く感覚が走った。
「な、なんだ……ッ!?」
「『制約』です。カリナさんの魂を、少し縛らせてもらいました」
「制約だって……!?」
「ええ。今お話しした『悪魔以上の存在』のこと、そして『この世界が虚構の実験場である』こと。……これに関しては、誰にも喋れなくなる制約をかけました」
アリアは悪びれもせず微笑む。
「そんな絶望的な存在がいることが知れ渡ったら、人々は希望を失い、きっと心が折れてしまうでしょう? そうなれば、人間の可能性も見れなくなってしまいますから」
口封じ。神の力による強制的な沈黙。カリナは自分の喉を押さえた。確かに、先ほどの話を口に出そうとすると、声が出なくなる感覚がある。
「勝手なことを……!」
「ふふ、ごめんなさい。……でも、もし」
アリアは立ち上がり、カリナに顔を近づけた。
「今度の剣術大会で、私に一太刀でも浴びせられたら……その時は、この制約を解いてあげましょう」
「……は?」
「あなたとは、決勝でぶつかるように調整しておきますから。そこで私に一撃でも入れられたら、あなたの実力を認めて、もっと深い話をしてあげてもいいですよ?」
それは、神からの挑戦状だった。人間が神に剣を向け、一太刀浴びせる。無謀とも思える条件だが、カリナの闘志に火がついた。
「……面白い。上等だ」
カリナは不敵に笑い、アリアを睨み返した。
「だったら、絶対に一撃入れてやる。その澄ました顔を驚かせてやるからな」
「ふふっ、楽しみにしていますよ。途中で負けることなどないと思いますけど」
アリアは余裕の笑みを浮かべ、優雅に手を振った。
これ以上は何を聞いてもはぐらかされる。そう感じたカリナは、「話せて良かった。大会で会おう」と言い残し、部屋を退出した。
◆◆◆
パタン、と扉が閉まる。
カリナの気配が遠ざかっていくのを確認してから、アリアは一人、窓の外の景色へと視線を戻した。
その真紅の瞳には、先ほどまでの悪戯っぽい色はなく、どこまでも深く、冷徹で、それでいて慈愛に満ちた複雑な光が宿っていた。
「……『彼』が、本当に私の探している存在であるかどうか。見定めさせてもらいますよ」
アリアは誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。カリナというアバターの中に眠る、一人の青年の名前を。
「――一色和士さん」
謎めいた女神の言葉は、アレキサンドの風に溶けて消えていった。




