103 新たな旅立ち
カシュー達との会談を終え、出発は明日ということが決まった。その場は解散となり、カリナはエデン王城の居住区にある自室へと戻ってきた。
近代的なセキュリティシステムが導入されているエデン王城。カリナは懐からカードキーを取り出し、リーダーにかざす。ピッ、という電子音と共にロックが解除され、重厚な扉が静かにスライドした。
「おかえりなさいませ、カリナ様」
部屋に入ると、すぐに柔らかい声が出迎えてくれた。妖精族の側付、ルナフレアだ。彼女はいつものように慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、カリナの上着を受け取るために歩み寄ってくる。
「ただいま、ルナフレア。すまないが、また少し忙しくなりそうだ」
カリナが申し訳なさそうに告げると、ルナフレアは小首を傾げた。
「何かございましたか?」
「ああ。明日からまた、旅に出ることになった。行き先は北の隣国、騎士国アレキサンドだ」
その言葉を聞いた瞬間、ルナフレアの表情が曇る。美しい翠眼に、心配の色が滲んだ。
「明日、ですか……? カリナ様、つい昨日まであんなにお苦しみだったのですよ? 初潮が明けたばかりのお体で、またすぐに旅だなんて……」
彼女はカリナの手をそっと包み込む。その手は温かく、カリナの体調を何よりも案じていることが伝わってきた。この一週間、つきっきりで看病してくれた彼女だからこそ、その心配は深い。カリナは安心させるように、握られた手に自分のもう片方の手を重ねた。
「心配してくれてありがとう。でも、もう大丈夫だ。お前の献身的な看病のおかげで、体調は万全だよ。痛みも嘘みたいに引いたしな」
カリナは努めて明るく振る舞い、笑顔を見せる。
「それに、今回は戦いがメインじゃない。騎士国アレキサンドの国王に会って、友好を深めるのが主な目的だ。あとは……まあ、ちょっとした剣術大会に参加するくらいだ。危険な任務じゃないし、用が済めばすぐに戻るよ。……それに、今回はカグラも一緒だ」
「カグラ様も、ご一緒なのですか?」
「ああ。彼女がついてきてくれる。だから何かあっても大丈夫だ」
カグラの名前が出た途端、ルナフレアの表情がふっと緩んだ。
「そうですか……。カグラ様がご一緒なら、安心ですね。あの方の実力は私もよく存じておりますし、何よりカリナ様をとても大切に思っていらっしゃいますから」
ルナフレアは安堵の息を漏らし、改めてカリナを見つめた。
「わかりました。カリナ様がそう仰るなら、私は笑顔で送り出すのみです。……ですが」
ルナフレアの瞳が、妖艶な光を帯びて細められる。
「今夜だけは、私が精一杯お世話させていただきます。旅の疲れも、一週間の不調の残り香も、すべて私が洗い流して差し上げます」
◆◆◆
案内されたのは、自室に備え付けられた広いバスルームだった。湯気が立ち込める浴室には、フローラルな香りが充満している。
「さあ、カリナ様。こちらへ……」
一糸纏わぬ姿となったカリナを、洗い場に据えられた椅子へと促す。ルナフレアもまた、その豊満で美しい肢体を惜しげもなく露わにし、カリナの背後に回った。
たっぷりと泡立てられたスポンジが、カリナの白磁の肌を滑る。首筋から背中、そして腰のくびれへ。ルナフレアの手つきはどこまでも優しく、慈しむようだ。
「ん……くすぐったいぞ、ルナフレア」
「我慢してくださいね。……ここ数日、ずっと痛みに耐えてこわばっていた筋肉を、まずはこうしてほぐさなくてはなりませんから」
ルナフレアの指先が、泡越しにカリナの肌を優しく、時に妖艶に這う。剣を振るうために鍛えられたしなやかな筋肉と、女性特有の柔らかな肌質。その両方を持つカリナの身体を、ルナフレアは崇拝するように洗い上げていく。
「では、髪も洗いますね」
ルナフレアはカリナの燃えるような赤い髪にお湯を含ませ、特製のシャンプーを泡立てる。指の腹で頭皮をマッサージするように洗われる感覚は、極上の心地良さだ。泡を流し、トリートメントを馴染ませる手つきは、まるで絹糸を扱うかのように繊細だった。
「はい、綺麗になりましたね。では、湯船に参りましょう」
ルナフレアはシャワーで丁寧に泡を流すと、カリナの手を引いて湯船へと誘った。ハーブと魔法薬が溶かされたお湯は、適度な熱さで肌を包み込む。
「ふぅ……」
お湯に浸かった瞬間、カリナの口から安堵の溜息が漏れた。体の芯まで温もりが染み渡り、重力から解放されたような浮遊感が心地良い。すると、お湯の波紋と共にルナフレアも静かに入ってきて、カリナの隣ではなく、背後へと回り込んだ。そのまま、後ろからカリナを抱きしめるようにして密着する。
「ルナフレア……?」
「こうしていると、お湯の温かさと私の体温、両方で温められますから」
背中に感じるルナフレアの豊満な柔らかさと、確かな体温。カリナは抵抗することなく、その身を彼女に預けた。お湯の中で揺蕩う二つの身体。ルナフレアの手が、お湯の中でカリナの手をそっと握る。
静寂と湯気の中で、ただ互いの存在を感じ合う贅沢な時間が流れていった。
◆◆◆
極上のバスタイムを終え、バスローブに身を包んでリビングに戻ると、テーブルの上には香ばしい匂いを漂わせる料理が並べられていた。
メインディッシュは、黄金色に焼き上がったキッシュだ。
「これは……キッシュか?」
「はい。以前、カリナ様がカリンズの街に行かれた際、『あそこのキッシュが美味しかった』と仰っていたのを思い出しましたので。……私も、心を込めて作ってみました」
ルナフレアがナイフを入れ、湯気の立つ一切れを皿に盛り付けてくれる。パイ生地の焼けた香ばしい匂いと、バターとチーズの濃厚な香りが鼻腔をくすぐり、風呂上がりの空腹を強烈に刺激する。
カリナはフォークで一口分を切り取り、口へと運んだ。
「んっ……!」
噛んだ瞬間、サクッという軽快な音と共に、幾層にも重なったパイ生地が口の中でほどける。続いて、中から溢れ出すアパレイユの、雲のようにふわふわで、かつクリームのようにトロトロの食感。
たっぷりと使われた新鮮な卵と生クリームの濃厚なコクが口いっぱいに広がり、そこにほうれん草のほろ苦さと、厚切りベーコンから染み出したジューシーな肉の旨味が絶妙なアクセントとなって駆け巡る。
さらに、表面のこんがり焼けたグリュイエールチーズの芳醇な香りと塩気が全体をきゅっと引き締め、噛めば噛むほどに幸せな味が広がっていく。
「……美味い! すごいな、これ。カリンズで食べたやつより数段美味いぞ」
カリナが目を丸くして絶賛すると、ルナフレアは花が綻ぶような笑顔を見せた。
「まあ、嬉しいです……! 隠し味に、エデン特産のミルクを煮詰めたものを使ったのが良かったのかもしれません」
「いや、それだけじゃないな。きっと、心を込めて手間暇かけてくれたことが、一番の隠し味になってるんだろう。……本当に、最高だ」
カリナは夢中でキッシュを頬張った。外側のサクサク感と、内側のクリーミーな食感のコントラスト。その温かさは、胃袋だけでなく、心まで深く満たしてくれるようだった。
◆◆◆
食事を終え、就寝の時間が近づいた頃。ルナフレアが、恭しくいくつかの衣服を持って現れた。
「カリナ様、明日からの旅路に向けて、こちらをご用意いたしました」
「これは……?」
「リアさん達メイド隊が手掛けた新作の衣装セットでございます。それと、以前の戦いでボロボロになってしまった黄色の衣装も、このように綺麗に修繕しておきました」
ルナフレアが見せた黄色の衣装は、継ぎ目も分からないほど完璧に直されていた。そして、彼女がメインで差し出したのは、全く新しいデザインの服だった。
「へぇ、すごいな……。随分と凝ったデザインじゃないか」
「はい。カリナ様の可憐さと、冒険者としての動きやすさを両立させた自信作だそうですよ」
カリナが感心して見ていると、ルナフレアはにっこりと微笑んだ。
「では、早速着てみていただけますか? サイズは大丈夫でしょうけど、確認も兼ねて、私にお着せさせてください」
言われるがまま、カリナはルナフレアに身を委ねる。
インナーは薄い水色の、膝上丈の冒険者ドレス裏地は淡いピンクでスカートの裾にはフリル。肌触りの良い生地が身体にフィットする。その上から羽織るのは、フリルとリボンがふんだんにあしらわれた、紺色のコートだ。袖はフレアーになっており、動くたびに優雅に揺れる。
足元は、白に黒のラインが入ったニーハイソックス。それをガーターベルトで留め、最後に白を基調に紺のデザインが施されたショートブーツを履かせる。
「……いかがでしょうか?」
鏡の前に立たされたカリナは、自分の姿を見て目を見張った。フリフリとした可愛らしさがありながらも、紺色が全体を引き締め、凛とした印象も与えている。
「うん、悪くない。動きやすいし、何より可愛いな」
「ふふ、とてもよくお似合いですよ、カリナ様」
ルナフレアが満足気に微笑む。その夜は、新しい衣装をハンガーにかけ、二人はいつものようにカリナの広いベッドに入った。
「では、カリナ様……。旅のご無事をお祈りして」
ルナフレアが、自身の左手を差し出す。カリナは自然な動作で、自分の右手をそこへ重ねた。
「ああ、頼む」
指と指を絡ませ、しっかりと手を繋ぐ。ルナフレアの左手から、淡い光と共に神聖な力が流れ込んでくる。それはカリナの右手の甲に集束し、やがて神秘的な紋章となって刻まれた。
――『妖精の加護』。状態異常を完全に無効化する、妖精族からの最上級の守りだ。
「おやすみなさいませ、私の大切なカリナ様……」
儀式が終わっても、ルナフレアは手を離さなかった。それどころか、彼女は身を寄せ、カリナを横から包み込むように抱きしめた。ふわりと香る、彼女自身の甘い匂い。背中に感じる確かな体温。
誰かの体温を感じながら眠る安心感が、心の奥底まで染み渡り、カリナはルナフレアの温もりを噛み締める。ルナフレアの腕の中で、カリナは泥のように深い眠りへと落ちていった。
◆◆◆
翌朝。
雲ひとつない快晴。旅立ちには絶好の日和だ。ルナフレアに着せてもらった真新しい紺色の衣装に身を包み、カリナは城内の待ち合わせ場所へと向かった。
そこには既に、旅装に身を包んだカグラが待っていた。
カグラは、彼女のいつものお気に入りの衣装――白の狩衣に鮮やかな赤の羽織を重ね、下はミニスカートのような丈にアレンジされたピンクの袴。そして白のニーハイに赤の足袋という、彼女らしい活動的かつ艶やかな出で立ちだ。
「おはよう、カリナちゃん。いい朝ね」
「おはよう、カグラ。待たせたか?」
「ううん、今来たところよ」
カグラはそう言って微笑むと、カリナの新しい衣装を見て目を輝かせた。
「あら、素敵な服ね。フリルとリボンがとっても可愛いわ。よく似合ってる」
「そ、そうか? ルナフレアが見立ててくれたんだが……、ありがとう」
少し照れくさそうにするカリナを見て、カグラは楽しげに笑った。
二人は並んで城内を歩き、巨大な城門へと向かう。門の両脇に立っていた兵士達が、二人を見てビシッと直立不動の敬礼をした。
「カリナ様、カグラ様! おはようございます!」
「おはよう。ご苦労様」
カリナが返すと、兵士達は尊敬の眼差しで門を開け放った。
「お気をつけて! いってらっしゃいませ!」
兵士達の力強い送り出しの言葉を背に受け、二人は外へと踏み出す。目の前には、活気あふれる城下町が広がっていた。朝市が開かれ、商人や住民達の元気な声が行き交っている。
「いつもながら活気があるな。さすがはエデンだ」
「ええ。皆、笑顔で幸せそうね。カシューの統治が行き届いている証拠だわ」
二人は城へ続く広い道の上で立ち止まる。
「さて……。ここからアレキサンドまでは少し距離があるわね。魔導列車もまだ開通前だし……」
カグラが扇子を広げて尋ねる。
「ねえ、カリナちゃん。今回はあなたの召喚体に乗ってみたいわ」
「私の召喚体に?」
「ええ。ちゅん太郎もいいけれど、たまには違う乗り心地も味わってみたいじゃない?」
カグラの要望に、カリナは少し考えてから頷いた。
「そうだな……数人でも乗れるなら、ガルーダかな」
カリナは道の中心で、両手を広げて魔法陣を展開し簡易的な祝詞を唱える。
「天空を統べる金色の翼よ、我が声に応え顕現せよ。 来い! ――ガルーダ!」
高らかな鳴き声と共に、空から巨大な影が舞い降りた。黄金色に輝く羽毛、燃えるような深紅の翼を持つ、巨大な神鳥ガルーダだ。その威風堂々たる姿に、カグラも感嘆の声を漏らす。
「まあ、近くで見ると壮観ね。美しいわ」
「だろ? 自慢の子なんだ。……それと、もう一人、旅のお供を呼んでおこうか」
カリナはニヤリと笑い、もう一度詠唱する。
「来い、相棒! ケット・シー!」
ポンッ! という間の抜けた音と共に、白い煙の中から二足歩行の猫、ケット・シーが現れた。黒い毛並みにお腹の部分だけ白い斑点模様。頭には小さな黒いシルクハットを被り、背中には青いマントを靡かせ、足元は赤い長靴で決めている。
「お呼びでありますかにゃ! 隊長!」
ケット・シー隊員はビシッと敬礼して現れたが、召喚体は主であるカリナと記憶を共有しているため、即座に状況を理解した。そして、頬を膨らませてジタバタし始めた。
「むぅー、隊長! 酷いのにゃ! 先日の連合の戦い、なんでおいらを呼んでくれなかったのにゃ!? おいらだってカッコよく活躍したかったのにゃー!」
プイッと顔を背けて拗ねる隊員。そんな彼の頭を、カリナはガシッと掴んだ。
「お前なぁ……。あそこは地獄のような最前線の戦場だったんだぞ? お前みたいなマスコット枠が出たら、私の召喚体とは言え一瞬で蒸発して終わりだ。私が守りきれるか分からなかったから置いていったんだよ」
「そ、それはそうですけどにゃ……。でも、仲間外れは寂しいのにゃ……」
「文句があるなら送還するぞ。今回は楽しいご旅行じゃないからな」
カリナがそう告げると、ケット・シー隊員はビクッと体を震わせ、即座に地面に額をこすりつけた。
「ご、ご無体にゃ! 後生ですからお許しをにゃ! お供させてくださいにゃー!」
「全く現金なやつだな。……ほら、今回はお客様も一緒だぞ。挨拶しろ」
カリナが指差した先には、懐かしそうに目を細めてやり取りを眺めていたカグラがいた。ケット・シー隊員はパッと立ち上がり、カグラの姿を認めると目を輝かせた。
「おっ! カグラじゃないかにゃ! ワダツミ以来、久しぶりにゃー!」
ゲーム時代からの顔なじみであり、この世界に来てからもワダツミで会っているカグラに対し、隊員は親しげに手を振る。
「ええ、久しぶりね。元気そうで何よりだわ」
「元気モリモリにゃ! 改めて自己紹介するにゃ! おいらは隊長の隊員にゃ! 旅のサポートはおいらに任せるにゃ!」
ビシッと敬礼する隊員。カグラはその愛らしい姿に目を細め、頭を優しく撫でた。
「ふふ、よろしくね。相変わらず可愛いわねぇ」
「にゃふぅ……カグラは撫で方が上手にゃ……」
デレデレする隊員を横目に、カリナは苦笑しながらガルーダの背を叩いた。
「さて、そろそろ行くか。カグラ、隊員、乗ってくれ」
ガルーダが乗りやすいように身体を低くする。カリナ、カグラ、そしてケット・シー隊員がその広い背中に乗り込むと、ガルーダは力強く翼を広げた。
「よし、ガルーダ! 行き先は北、騎士国アレキサンドだ! 頼んだぞ!」
一際大きな鳴き声と共に、ガルーダが大地を蹴る。ふわりとした浮遊感の後、景色が一気に遠ざかる。風を切り、一行は蒼穹の彼方へと飛び立った。
「わあ……! すごい! エデンの街がこんなに小さく見えるわ!」
「絶景だな。このまま一気に国境を越えるぞ!」
「落ちないように気をつけるにゃー!」
黄金の翼を煌めかせ、彼らは新たな冒険の地、アレキサンドを目指して空を駆けていった。




