第3話 崩れる予定調和――もう一人の“観測者”
翌朝、学園はいつも通りのざわめきに包まれていた。
中庭では新入生たちが杖を構え、初歩の詠唱練習をしている。教官の号令、羽根ペンの音、石畳の反射光――すべてが整然とした「日常」の顔をしていた。
けれど、レオンの中ではその風景が、どこか薄い膜を隔てたように見えた。
地下で見た《回帰素描録》の一文が、ずっと頭から離れない。
――“観測者は一人ではない”。
では、誰が。
誰が、もう一人の“回帰者”なのか。
アメリアの表情を思い返す。あの驚きは演技ではなかった。ならば彼女ではない。教師か? いや、もし教師がそれを知るなら、この学園はもっと別の形で保たれているはずだ。
思考が堂々巡りを始めたそのとき、声がした。
「考え事か? レオン」
振り向くと、ヴィクトル・ローレンスが立っていた。
いつも通りの無駄のない制服の着こなし。けれど、どこか疲れた目をしている。
――やはり、彼だ。
ヴィクトルの声には、どこか既視感のような、時間の奥行きを感じる調子があった。
二度目の人生でもこの瞬間があった。だが、そのとき彼は「模範的な天才」でしかなかった。今のヴィクトルの言葉には、何かを知っている者の響きがあった。
「昨日の訓練場での動き、見てたよ」
「……あれを?」
「普通じゃない。封呪札の使い方も、詠唱の省略も。まるで――何度も繰り返して習得したみたいだった」
レオンの胸が、冷たくなる。
ヴィクトルの笑みは穏やかだったが、その目の奥には探るような光が宿っていた。
「君は、三度目の人生を生きている。そうだろう?」
喉が乾いた。
言葉を失ったレオンに、ヴィクトルはゆっくりと歩み寄り、低く囁く。
「安心しろ。俺もだ」
その瞬間、世界が裏返ったように感じた。
胸の奥で、何かがはじける音がする。――“観測者は一人ではない”。
それは単なる文言ではなかった。現実の宣告だった。
「どうして……君もループを?」
「理由は、わからない。最初はただ、夢だと思ってた。二度目の入学式で、同じ風景を見たとき、ようやく悟ったんだ。世界は戻る。でも、俺たちは戻らない。記憶だけが、増えていく」
「……何度目なんだ?」
ヴィクトルは微笑んだ。その笑みは、少しだけ壊れていた。
「七度目だ」
七度。
レオンの背筋を、冷たいものが駆け上がる。
自分の三度目でさえ、すでに心が擦り切れ始めているのに、七度も繰り返した者の心がどうなっているか、想像したくなかった。
「なぜ俺に話す?」
「君がようやく“思い出した”からだよ。……それに、次の“揺らぎ”はもう近い。放課後、塔の上で待っている。見せたいものがある」
そう言い残し、ヴィクトルは背を向けた。
陽光が彼の髪を照らす。光の粒が揺れるたびに、どこか遠い記憶が軋む。
――七度の人生。その果てに、彼は何を見てきたのか。
◇
放課後。
学園の最上塔、観測塔。
レオンが扉を開くと、そこには魔法陣が描かれていた。円環が幾重にも重なり、中心には精緻な時計のような機構。
そして、ヴィクトルが待っていた。
「これは、俺が三度目のときに見つけた《時環核》だ。学園の地下に埋められている。世界の“巻き戻し”は、これが中心になっている」
淡い光を放つ装置を指差しながら、ヴィクトルは静かに続けた。
「この核に干渉すれば、回帰の周期を変えられる。俺はそれを六度試した。だが、どんな改変をしても、世界は――同じ日に戻るんだ」
「同じ日?」
「そう。学園崩壊の前日。俺たちはその前で、必ず終わる。だから、おそらくこの核は“崩壊の記録”を保つための器なんだ」
レオンは息をのんだ。
つまり、このループの目的は救済ではなく、“観測”。
世界の破滅を、何者かが繰り返し見つめ続けている。
誰が? 何のために?
「レオン。三度目の君が来たってことは、ようやく“選ばれた”んだろう」
「選ばれた?」
「観測者同士の“接触”は、条件がそろわなければ起きない。おそらく……次の回帰で、君は俺の位置に立つ」
塔の外では、夕陽が沈み、赤い光が雲を染めた。
ヴィクトルの瞳が、その色を映している。
それは血のようで、同時に、祈りのようでもあった。
「俺はもう疲れた。七度目の俺は、終わりを見たい。君が次を――託せ」
その言葉と同時に、塔の足元が震えた。
警鐘が鳴り響く。
下層から、魔力の奔流が吹き上がる。空が割れ、光がねじれる。
「もう来たか……“崩壊の前日”だ」
レオンは叫ぶ。
「まだ早い! 昨日が一日目のはずだ!」
「違う。おそらく、誰かが“加速”させた。――第三の観測者だ」
地鳴りが広がる。塔が軋む。
風に紛れて、アメリアの声が聞こえた気がした。
レオンは咄嗟にヴィクトルの腕を掴む。
「一緒に行こう。俺たちで止める!」
だがヴィクトルは、静かに笑って首を振った。
「もう、時間がない。次のループで――会おう」
光が弾けた。
世界が白く染まり、音も色も飲み込まれていく。
レオンは叫びながら、指先に残るヴィクトルの体温を確かめた。
そして、すべてが崩壊した。
――落下の感覚。
――耳の奥で、誰かの声。
『次は、四度目の朝だ。観測者、レオン・グレイ。』




