第1話 三度目の入学式、落ちこぼれの逆襲
鐘が三度鳴った。
石畳の中庭で、レオンは掌を握ったり開いたりしながら、空の青さを確かめる。――同じだ。風の匂いも、校舎の尖塔に留まる白い鳥も、壇上で巻物を広げる教頭の咳払いも。
三度目の朝は、いつも最初の朝と瓜二つの顔をしてやって来る。
「新入生諸君、王立アルカナ魔法学園へようこそ――」
祝詞は知っている。暗唱もできる。最前列の貴族子女がつまらなさそうにあくびを堪え、後ろの方の平民枠が背伸びをして肩をぶつけ合い、中央の噴水の縁には、あと少しで足を滑らせる少年がいる。
そして、右手の渡り廊下の陰では、栗色の髪を結わえた少女が、慣れないローファーの踵を踏み外しそうになって――。
レオンは一歩、踏み出した。
これで三度目だ。最初は何もできなかった。二度目は助けようとして遅れて、彼女は膝を打って泣いた。だから三度目は、滑る前に手を伸ばす。
「危ない」
彼女の手首をつかむ。軽い。糸のように細い脈が跳ねる。
目が合う。蜂蜜を溶かしたみたいな淡い金色の瞳。――アメリア・ハートレイ。上位貴族。二度目の人生で、救えなかったひと。
「ありがとう……えっと、あなたは?」
「レオン。レオン・グレイ。靴紐、ほどけてる」
しゃがんで結びなおしてやると、アメリアは頬を染めた。周囲のざわめきが少し変わる。
この程度の小さな改変でも、未来の歯車はわずかに狂う。二度目で学んだことだ。救えるものは、早めに救っておく。遅れれば遅れるほど、代償は大きくなるから。
式が終わると、すぐに魔力測定がある。
――あれも知っている。レオンの測定結晶は、いつだって濁った灰色で、針は最低値の「E」に張りついたまま。
だから一度目の人生で彼は“落ちこぼれ”と烙印を押された。二度目も、烙印は剥がれなかった。違うのは、烙印を押されたあとにどれだけ足掻けるか、だけ。
測定室の扉が開く。生徒たちは順番にクリスタルの台座へ進む。
アメリアがふと振り返って、小さく手を振った。もう既に、さっきの一瞬が彼女の中に残っている。三度目のやり直しでも、出会いはやっぱり甘い。
「次、レオン・グレイ」
名を呼ばれて進むと、最前列から鼻にかかった笑い声がした。灰青の髪、切れ長の目――ヴィクトル・ローレンス。侯爵家の天才。二度目の人生では親友だった男で、同時に最後の局面で――。
いや、今はまだいい。段取りを飛ばすと、取り返しがつかなくなる。
掌をクリスタルに置く。冷たい感触。
深呼吸一度。魔力を押し付けるのではなく、導線を開く。二度目の人生で見つけた、たったひとつの抜け道――循環式導魔呼吸。測定結晶は純粋な出力しか見ないが、呼吸で微細な流速を整えるだけで“揺れ”が抑えられ、最低値の誤差が切り上がる。
もし、ほんの少しでも針が動けば、割り当てられる初期授業が変わる。初期授業が変われば、出会う教師も、触れられる禁書も変わる。
針が震え、カチ、と音を立てて――Eから、わずかにDの境界に触れた。
測定官が目を瞬かせる。ざわめき。ヴィクトルの眉が、一瞬だけわずかに動いた。
「珍しいな。下限が上がるとは」
「呼吸が良かったのかもしれません」
レオンは淡々と答える。歓喜もしない。絶望もしない。ここで感情を見せても、いいことはひとつもなかったことを、二度目で骨に刻んだ。
測定の待ち時間、壁際でノートを開く。
――講義棟の構造。地下書庫の鍵の在りか。薬草園への近道。第一週の終わりに、訓練場の魔獣柵が老朽化で壊れること。
そして、裏切り者の最初の兆候。
ページの端を指でなぞると、乾いた紙の音が耳に心地いい。どれだけ周到に準備しても、世界は毎回いくらか変化する。蝶の羽ばたきほどの差で、雪崩の規模が変わる。
それでも――救える確率は上げられる。
「おい、レオン」
ヴィクトルが歩み寄ってきた。
貴族然とした笑み。けれど、二度目の彼を知っているレオンには、その笑いの奥にある疲労と諦念が透けて見える。
「成績を少しは上げたらしいな。見直したよ」
「偶然だよ。君に教えを乞うほどの度胸もない」
「そうか? だったら勝負しよう。午後の初等術理、筆記の小テスト。負けた方が勝った方に、ひとつだけ何でも言うことを聞く」
二度目の人生でレオンは、この賭けに乗らなかった。自分の低さを自覚して逃げた。その結果、ヴィクトルと距離は縮まらず、彼は別の誰かに肩を貸すことになった。
その“誰か”が、後に学園を内部から食い破る導火線になった。
「いいよ」
レオンは即答した。
ヴィクトルが片眉を上げる。アメリアが遠くで、驚いた顔をしている。
板書を写す手の速さは勝負にならない。だが問題なら――知っている。午後の小テストは、初歩的な魔力理論の穴埋めと、簡単な応用問題が一問。出題者は初等術理のレーヴェン先生。癖として、例年誘導質問で落とす。正解は複数あるが、もっとも“美しい”式変形で書いた者に加点がつく。
鐘が鳴り、授業が始まった。
白衣を翻し、レーヴェンがチョークで黒板を叩く。
「魔法は“力”か、“言葉”か。はい、そこの金髪の子、君の意見は?」
アメリアが立ち上がる。緊張している。声が上ずる――二度目ではそうだった。
レオンは視線だけで合図を送る。息を整えて、最初の語を低く。
「“言葉”です。けれど、言葉を力たらしめる“意思”が必要です」
教室に柔らかな感嘆が走る。レーヴェンの目尻が笑った。
小さな修正。けれど、これでアメリアは初等術理の最初の加点を得る。彼女は自信を一つ積む。自信は、選択の場で彼女を立たせる土台になる。
配られた小テストをめくる。予想通りの設問だ。
式を走らせる。筆先が紙を滑る。行間を詰めず、読みやすく、誘導に乗らずに、しかし出題者の“美意識”に寄せる。
最後の一行で、レオンはペンを止め、ほんの一拍だけ置いてから、余白に小さな注釈を書いた。
――二度目で、天才と呼ばれた同級生が好きだった癖。彼はいつも余白に、未来の自分宛てのメモを書いていた。「ここから先は、もっと上手くできる」。
その癖に、レーヴェンは弱い。
テストを終えると、窓の外の空が、不意に陰った。
雲の流れが速い。校庭の隅にある古い楡の枝が、わずかに軋む。
――この風は、覚えている。第一週の“最初の揺れ”の前触れ。訓練場の柵が壊れて、下級魔獣が一頭だけ入り込む。怪我人が出る。二度目では、そこでレオンは走り遅れて、後悔だけを背負って夜を越えた。
レオンは席を立ち、教室の後ろのロッカーに歩いた。
ロッカーの底板のさらに下。外れた釘の隙間。そこに、二度目の人生で遺した小さな“保険”が眠っている。
取り出したのは、掌に収まる半透明の札――封呪札。
本来なら二学期で習う上級の応用術式だが、書式だけなら真似できる。紙片に、簡略化した封印回路と、魔力を瞬間的に吸い取って硬化させる補助陣。
訓練場の木製柵なら、破断部を即席で“固める”には十分だ。
「どこへ行くの、レオン?」
アメリアが後ろから声をかけてくる。
振り返ると、彼女の額にはうっすらと汗。緊張が解けたのだろう。
言い訳は簡単だ。だが――ここで彼女を連れて行くか、置いて行くか。どちらの未来も、レオンは見たことがない。
連れて行けば、彼女は現場を知り、強くなる。だが危険も増える。
置いて行けば、彼女の安全は保たれるが、後で彼女は「知らないこと」に怯えるようになる。
「……来る?」
レオンは差し出した。
アメリアは一拍置いて、頷いた。その頷きは細いが、確かな弾みがあった。
訓練場へ向かう渡り廊下は、午後の光で長い影を落としている。
角を曲がった瞬間、遠くから悲鳴が上がった。
走る。風が頬を切る。柵の外側で、灰色の獣が肩を怒らせ、唸っている。目は赤く、涎を垂らし、前足が柵板を抉る。――予習通りだ。
崩れた柵の隙間から、生徒が一人、尻もちをついて後ずさっていた。
レオンは封呪札を取り出し、指先で素早く循環式導魔呼吸を回す。肺が熱くなり、掌に集まる。
「アメリア、三数える。合図で、右へ回って囮になって」
「囮……? わ、わかった!」
「一、二――今!」
アメリアが走る。獣の目がそちらに向く。
レオンは崩れた柵板の継ぎ目に札を叩きつけ、短く詠じた。
「《封》」
乾いた音とともに、札の光が走り、割れ目が鈍く硬化する。獣が体当たりしても、板はびくともしない。
次の一手――足元の砂を蹴り上げ、獣の視界を奪い、アメリアの足がもつれないよう、彼女の進路に短い滑り止めの術式を描く。
たった数秒。けれど、世界はこういう瞬間で決まる。
「大丈夫、こっちだ!」
レオンが手を伸ばし、アメリアの手を掴む。
獣は怒りの咆哮を一つ残し、柵の外側へ退いた。遅れて教師たちが駆け込み、拘束の術式が空に編まれる。
「誰が封を――」
訓練場監督の教官が周囲を見回し、レオンの手の札を見つけて目を細めた。
叱責が来る。規定外の術式使用。だけど――
「……機転は評価に値する。だが、これは本来上級課程の術だ。術式の出典をあとで報告に来なさい」
「はい」
短く返事をする。アメリアが肩で息をしながら笑った。
「すごい……落ちこぼれ、じゃないね」
レオンは首を振る。
落ちこぼれ――それはたぶん、正しい。魔力値は低いし、生まれつきの才能はない。
それでも、三度目だ。負け方なら、もう誰よりも知っている。
渡り廊下に戻る途中、ヴィクトルが壁にもたれて待っていた。
彼はレオンの手元の封呪札に一瞥をくれると、口角を上げた。
「面白い。君は“何か”を知っている顔だ」
「君こそ。“何か”を疑っている顔だ」
視線がぶつかり、短い静寂が生まれる。
二度目には交わらなかった線が、三度目の今日、かすかに触れた。
夕刻。寮の自室に戻ると、レオンは机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
紙には、たった一行だけ、震えるような文字で書かれている。
『救えるのは、三人まで。四人目を選べば、誰かが落ちる』
二度目の最終夜、火の海の図書館で、煤にまみれた自分が書いたメモだ。
紙を握る指が、わずかに震える。
――誰を救い、誰を見捨てるか。その選択の稽古は、もう始まっている。
窓の外で、塔の鐘が四度鳴った。
三度目の学園生活は、まだ一日目の黄昏。だがレオンは知っている。ここから先の分岐は、想像よりも近い。
「今度こそ」
小さく呟いて、レオンはペンを取った。
明日の時間割の端に、細い字で書き込む。図書館地下書庫――禁書『回帰素描録』、第一章。
そこから、すべてが動き始める。




