第十九話 大雨の帰り道
大雨の中、傘を差して歩く俺の隣で、夏向は俺の胴体にぴたりと身を寄せていた。
濡れないようにする都合上仕方がないとはいえ、歩きにくいったらない。
「お前も災難だったな。ちょうどバイトの日にこんな悪天候に見舞われるなんて」
「うーん、天気のことは残念だけど、新太がぼくの体を心配して迎えに来てくれたから、それだけでプラマイゼロっていうか大幅にプラスかな!」
俺にキラキラした視線を向けてくる夏向。
こんなに喜ばれたこと、男女問わず今までなかったかも。
そんな感謝されるようなことなんてしてないっていうのに。
傘一本忘れちゃうしさ。
「バイト先でクッソ嫌なことがあったんだけど、見事に浄化されたよね!」
「え、嫌なこと?」
夏向のバイト先は接客業だから、いろんな客が出入りする分トラブルもありそうだ。
「あっ、気になっちゃう? ぼくがどれだけ苛ついちゃったのか」
「嫌なら言わなくていいって。思い出したらムカつく気分がフラッシュバックするだろ」
「でもー、新太にこの苛立ちを共有してもらった方が気が紛れるかもしれないしー、どうしよっかなー、言っちゃおっかなー」
悩むフリをして、俺に額を擦り付ける夏向だけど、これ、言いたくてたまらないってことだろ?
「……お前が話してスッキリするのなら聞くぞ?」
「きゅん! 優しい!」
「あー、そういうふざけたノリなら聞かなくても平気なやつかな」
「聞いてー!」
夏向は、傘を持っていない方の俺の腕を持ち上げると、首に巻き付けるようにした。
肩を抱き寄せたみたいにするなよ……。
「ぼく、お店の客にセクハラされたんだよ!? 新太の一大事じゃん!」
「えっ、そうなのか?」
俺の一大事かどうかはともかく、夏向が被害を受けたのは素直に心配だった。
「そうそう! ほら、この前きみに見せたメイドさんのコスプレがあったでしょ? 今日はあの衣装で接客をする日で、偶然厄介な客に当たっちゃって」
「男性客?」
「そうだけど?」
男子が男性客からセクハラされるとは。
とはいえ、夏向の場合、見た目が女子っぽい上に女装コスプレもしているわけだから、事情を知らない人間からすれば華奢な女の子にしか見えないのかもな。
「もーね、最悪だったなー。注文を聞くのと料理を運ぶのとで、フロアを行ったり来たりしないとけないんだけど、その人のところ通りがかるたびに何か言われるんだから。うちの店に来るまでに酔っ払ってたみたいで、あんな変な酔い方するなら初めから飲まない方がいいのにね。大人って変なの」
「他の店員が守ってくれたり、店長が何か対策してくれたりしなかったの?」
「新太、どうしたの?」
「何がだよ?」
「うーん、新太にしては怖い顔してるから、何があったのかと思って」
「そんな顔してたか? ……いや、まあ。友達がトラブルに巻き込まれてるのに、そのまま放置されるっていう危ない環境にいるっていうのは心配だし」
「それは大丈夫だよ。店長が間に入ってくれたから」
「店長が?」
謎のコスプレをさせている店長って時点で、俺の中ではいまいち信用がならない人物ではある。
「新太の中では店長の評価低いんだね。まあしょうがないか。そんなに店長のこと教えてないし。店長は変なイベントいっぱい開く人だけど、ちゃんと社員やバイトを守ってくれるから。その辺は心配しなくていいよ。迷惑客もつまみ出してくれたしね」
「それならいいんだ。いっそ俺がその場にいれば心配はないんだけど」
「新太が近くにいたら、どうにかしてくれてたってこと?」
「そりゃあな」
俺は体がデカい分、パッと見だけは厳しい雰囲気があるから、短期決戦なら魔除けの役割くらいはできるかもしれない。
「だったら、新太もぼくと一緒に働く? 守りたい放題だよ?」
「一瞬考えたけど、コンセプトと俺の存在が相容れないだろ」
夏向みたいな美少年が働くようなカフェには、俺みたいなゴリラはお呼びじゃなさそうだ。
それに、問題は別にある。
「お前が働くくらいだし、女性客がいっぱい来そうでなぁ……」
男性がコスプレをするってことは、女性ウケしそうな執事とか王子様とか、そういう系統の美形を好む女性客が殺到しそうだしな。
「そんなことないよ。男性客の方がずっと多いもん」
「えっ? 男性客の方が……?」
もしかして今は、男性の中でもイケメンを愛でるトレンドが来てたりするの?
「……あー、うそうそ! いや、うそじゃないんだけどー、イベントによって客層が違うから。男性客中心だったり、女性客中心だったり」
「ああ、そういうことか……」
たぶん、切れ者らしい店長とやらは、コスプレイベントによって男性客と女性客のどちらも取り込もうという経営戦略を取っているのだろう。店舗経営のセオリーとしては、どちらの客層を取り込むのかあらかじめ決めておかないとどっちつかずになってかえって経営が悪化するらしいのだが、俺は経営者じゃないからわからん。
「だから新太は、新太の苦手が克服できるまでは、うちの店には立ち寄らない方がいいかもね」
「そうだな」
「残念そうにしないでよ。一生来られないってわけじゃないんだし! それに今日は新太のおかげでストレスもぐーんって減ったんだ。どうしてぼくだけこんな目に遭うんだろうって釈然としなかったからさ」
「可愛いからじゃないか?」
それは、深く考えているわけでもなく、俺の口からぽろりと溢れるように出てきた言葉だった。
「えっ……」
「あっ……」
違うんだ。
俺個人ではなく、世間一般的に見た夏向は、女装をしていたとしたら可愛いと判断する人が多いだろうから、それで『可愛いからじゃないか?』と言ったのだ。
別に、俺個人の感性だけで夏向の容姿を褒めたわけじゃない。
だというのに。
「えーっ!? 新太、ぼくのこと可愛いって思っててくれてたんだ!?」
夏向は疑いようのないくらい大喜び。
「いや、俺の評価じゃなくて、世間ではってことで……」
「ふふふ、新太ったら、気にしないフリしてぼくのこと意識しまくりだったんだね!」
聞いちゃいないな、これ……。
「それなら初めから言ってよー。あのね、実はぼくね――」
調子に乗りまくった夏向が何かを俺に伝えようとしたときだった。
俺たちが歩いているとき、ちょうど曲がり角に行き当たったんだ。
「わっ!」
「あっ、す、すみません……! 暗くてよく見えなくて!」
死角になる位置から飛び出してきた人と衝突してしまった。
幸い、吹き飛ばしてしまうことはなかったものの、ぴったり密着するかたちになってしまった。
大変なことになったのは俺の方だ。
ぶつかった拍子に傘を落としてしまったらしく、20代半ばくらいの働くお姉さんの顔をしっかり見てしまった。
こうなると、俺はもうダメだ。
「……」
顔と背中が熱を持ち、心臓が鷲掴みされたみたいに、きゅっと縮む感触がしてしまう。
今の俺は、傘を差した地蔵である。
「あの、これ」
女性が落とした傘を拾って渡したのは、夏向だ。
「す、すみません、その、彼氏さんは大丈夫ですか……?」
「ああ、大丈夫です。いつものことなんで」
それで納得してくれたのか、それとも急に赤鬼状態になって黙り込む俺を不気味に感じたのか、女性はその場をそそくさと去っていった……らしい。
「新太、新太。もう女の人は行ったよ?」
「……そ、そうか?」
「相変わらずだねぇ」
「いや、すまん。みっともないところを見せて……」
「いいよ、新太のことはわかってるからさ。ぼくの前では気にしないで」
「重ね重ね悪いな……」
こういうフォローをしてくれるあたり、恥ずかしすぎる苦手を知っているのにバカにすることなく真摯に対応してくれる夏向を大事にしなきゃいけないのかもしれない。
気を取り直した俺は、再び傘を手にして家路へと向かおうとする。
「そういえば、さっきなんて言おうとしたんだ?」
「えっ、ぼく、何か言おうとしたかなー?」
「俺の聞き間違いか……まあ女性に触れたせいで俺の記憶もだいぶ怪しくなってるからな。……ん?」
傘を打つ雨粒の音が、また激しくなってきた気がする。
「この調子だと、まだまだ雨脚が強くなりそうだ。夏向、急ごう。ここまで来て風邪引くことになったらもったいないから」
「そうだね……」
「悪いけど、ちょっと急ぐぞ」
夏向と二人で、急ぎ足でアパートを目指す。
「うーん、やっぱり今の新太に言ったって、逆効果だよなぁ。ぼくがここまでしてるのに、どうして気づいてくれないんだろう……」
さっきまでの上機嫌とは打って変わって、どこか残念そうな夏向が、何やらぶつくさ言っているらしいのだが、それ以上にビニール傘で破裂する雨粒の音のせいで上手く聞き取れなかった。
結局夏向は、アパートにたどり着くまでずっと黙ったままだった。




