第一話 一人暮らし開始早々のトラブル
その日俺は、引っ越した先のアパートの部屋で荷解きをしていた。
諸手続きの遅れで、春休み中に完了するはずだった引っ越しが、夏の気配が訪れている今になるまでズレ込んでしまったけれど、まあ大きな問題はない。
念願の一人暮らし。
自由な分、背負わなければいけない責任も多い。
交渉は難航したものの結局は一人暮らしの後押しをしてくれた両親に迷惑をかけないためにも、20歳を迎えたばかりの大人としてちゃんとやろう。
二階角部屋の俺が、お隣さんに挨拶をしようと思い立ったのもそういう理由。
壁一枚隔てているだけの隣人には、愛想と礼儀があった方が今後の生活がスムーズだと思ったから。
もっとも、隣人が同年代の女性って可能性もある。
できれば男性でありますように! と祈りながらチャイムを押す俺の指は、緊張で震えてしまっていた。
現れたお隣さんは、分厚い眼鏡の奥にある瞳に怪訝そうなものを浮かべていた。
小柄な体を大きめのパーカーで覆っていて、男性なのか女性なのか、はっきり言い切ることができない中性的な見た目をしている。
とりあえず今のところは例の恥ずかしい発作は起きそうもない。
今のうちだ。
「す、すみません。先日隣に越してきた者ですが」
「ああ、そういえばこの前から隣の部屋に人通りがあって騒がしかったですね」
「すみません、ご迷惑をおかけしまして」
「いえ、いいんです。気にしないでください」
合点がいってくれたようで、少なくとも俺を見知らぬ不審者と疑うことはなくなったみたいだ。
お隣さんは185センチある俺より30センチは低く見えるけど、一人暮らしをしているあたり、俺とそう歳は変わらないのだろう。
「これ、ご挨拶代わりに! あっ、俺、市沢新太っていいます。何かあったら隣にいますので、よろしくお願いします!」
急遽用意した引っ越しそばを手渡そうとしたとき、初めて俺とお隣さんの視線がバッチリ合った気がする。
お隣さんは、厚いレンズの向こうにある瞳を大きく見開いた。
「新太……?」
「えっ?」
「やっぱりそうだ! 新太だ! 凄い! 小学生ぶり?」
急激にテンションを上げてきたお隣さんに面食らった俺だが、小学生のときに交流があったらしいことを聞いて、ピンと来るものがあった。
そして、俺に一切発作が起きなかった理由も。
「もしかして……大嶌夏向か?」
「そうだよ!」
満面の笑みを見せてくれるお隣さん……いや、夏向。
まさかこんなところで再会するとは。
「よかったー、気づいてくれないかと思ったんだ。ぼく、結構印象変わっちゃったから」
「そうか? 昔からそんな感じだった気がするけど」
「えっ、そうかな?」
「ああ。女の子みたいな男の子って感じで」
「え……」
「俺も初めはびっくりしたんだ。女の子に見えたから。だから男子のお前でよかったよ」
「……」
「いや、別に異性が苦手だからってわけじゃないけどな? 本当だぞ。でも同性ならではの気安さってあるだろ? しかもお前とは小学生時代のライバルだったわけだ」
お隣さんが昔なじみの夏向なら、初めての一人暮らしも心強い。
「男同士、これからもよろしくな! ――痛っ!」
どうして俺は、再会を懐かしんでいた旧友からケツキックを食らっているんだ?
「もうっ! もうっ! 久々に再会したっていうのにノンデリなんだから!」
「俺が何したっていうんだよ!? キックするのは酷くね!?」
「ひどくなーい!」
どういうわけか急にキレだした夏向をなだめるのに手間取ること数分。
相変わらず猫がフシャーッと威嚇するみたいな態度は崩さないけれど、ばたばた暴れるのはやめてくれたみたいだ。
すると今度は、おそばを小脇に抱えて俺の右腕を両腕で引っ張ろうとする。
「久々に会ったんだから、ご挨拶して終わりってことはないでしょ? 寄っていきなよ」
「俺に拒否権は?」
「そんなのない!」
妙に騒々しいかつてのライバルに引っ張られて、俺は夏向に家にお邪魔することになってしまうのだった。




