前編
本作は、拙作「庭作シリーズ」の第三弾です。
前作をお読みいただいた方が、よりお楽しみいただけるかと思います。
本作は前後編の二部作です。お兄ちゃんの別れた彼女との話です。
※逃した魚というのは比喩です、実際に飼っている魚を野生に放すのではありません。念のため。
どうぞよろしくお願いします。
最近、弟はご機嫌だ。
ヤツが思いを寄せている女の子、サナさんとの仲が進展しているからだ。
進展と言ってもだよ。なんでも、弟は彼女が興味あると言っていた植物園への招待状を知り合いから手に入れて、サナさんにあげたんだそうな。しかも二枚。お友達と行ってくださいって。そしたら、サナさんが、勇気を奮って、プルプル震えながら、一緒に行きませんかと誘ってきたそうな。で、一緒に行く約束をした、と。それだけだ。ま、姿を見たら逃げ出されていた時のことを考えれば、進展と言えなくもないけどね。
ヤツはもう有頂天で、頭の上に大量の花を咲かせている。あの花だけで庭が作れそうだ。それでか知らないが、ふと思ったんだろう、自分は幸せだけど、兄貴はどうなんだ?と。そうでもなけりゃ、こんなことを突然聞くわけがない。
「率直に言って、兄貴、ユノさんのことはどう思ってるんだ?」
ある日、朝飯を食いながら弟に尋ねられて、僕は目をパチクリさせた。
「どうって……?取引先のお嬢さんだろ」
「そう言うことを聞いてんじゃないのは、わかってんだろ?最近、ユノさんが兄貴のこと、興味持って接してるのくらい、気付いてるんだろ?」
僕は驚愕した。ユノさんが!?僕のことを?
興味を持ってるってなんだ?
だが、驚いている僕の顔を見ると、弟はしまった、と言う顔をした。
「俺から言うことじゃなかったな、ごめん。でも兄貴、意外と鈍いんだな、こういうことには」
弟はニヤリと笑った。冗談じゃない。
「……いやいやいや、ユノさんがはっきりそう言ったのじゃなければ、お前の勘違いだと思うよ?そもそもユノさんの野望を、僕じゃ叶えてあげられないしな」
「野望」
「うん、なんでも、いずれ誰かと結婚しても、なにかしらの事業で腕を振いたいんだとさ。ウチじゃ実務家には僕がいるから、二人もいらないしな」
「つまり兄貴としても、そもそもユノさんを恋愛の対象にすら入れてないってことか……。なるほどね。そんな話までするほどなのに、残念」
弟はモゴモゴと独り言を言っている。僕は半ば呆れて、テーブルの向かいに座る弟を眺めた。
「じゃあさ、兄貴。リンはどうなんだよ」
「リン?」
誰だ?リンって。
記憶をひっくり返してようやく思い当たった。自称ヒロインの元貴族、ウチに数日滞在してた、現在料理屋のあのトンデモ女だ。僕は顔をしかめた。
「あの女がなんだって?お前、まだあの料理屋に行ってるのか。ああいう手合いに関わるなって言ったろ?」
「そんなこと言って、兄貴だってこの間、リンと一緒に歩いてたじゃないか」
歩いてた?っけ?
「……あー、あれは、町を歩いてたらアイツが寄ってきて、話しかけてきたんだ!外国語の絵本を持っててさ。言葉を勉強したいから教えてくれっていうから即、断っただけのことだ!実際あんなのも読めないなんて信じられない。元貴族のくせに、教育はどうなってるんだ!僕らの税金だぞ!」
僕が税金の高さについてひとしきり文句を言っているのを、弟は眉を寄せて見た。話が脱線してしまったな。
「と、とにかく、あのトンデモ女の話なんてヤメロ、飯がまずくなるよ」
僕は飯の続きを黙って食い始めた。弟はそんな僕を、さらに深く眉をしかめて見ていたが、苦い声で切り出した。
「兄貴、まだ、ミワのこと、吹っ切れないのか?」
「ウェっ!?ぐっ、げほげほ」
僕は口にしていたものを危うく吐き出すところだった。
「がは、えぇ?ミワ?な、なんで!?」
ミワというのは、その昔、僕が付き合っていた女性で、いわゆる幼馴染だった。家族ぐるみの付き合いだったけど、彼女は数年前、十ほど年上の男性と結婚している。
「いい加減兄貴も、もういい歳なのに、あれから浮いた噂ひとつないからさ」
「いい歳ってお前、僕はまだ二十歳だ」
「浮いた話があるには十分いい歳だ、棟梁になるなら伴侶は必要だろ」
弟は、僕に棟梁になってほしい、というか、自分に棟梁の役目が回ってきてほしくないのだ。困ったやつだ。
「伴侶って、お前なあ。そんなに心配しなくても、僕はちゃんと、いずれは棟梁になるよ」
「そんな心配してんじゃねぇ、わかってんだろ」
弟の強い口調に僕は口をつぐんで彼を見た。憤慨半分、心配半分といったところだ。僕は苦笑した。
「そうか、お前にも未だに心配かけてたんだなぁ」
「……そういうわけじゃないけどさ……」
弟は俯いた。可愛いやつめ。
「大丈夫だよ、ゼン。ミワのことならとっくに吹っ切れてるよ。僕だってこの先、気持ちが通じる人がいたらいいなって思ってるし、恋愛する気も大いにあるよ。そのうち、自然に気になる子でも現れたら、まずお前に報告するからさ」
そう言って笑いかけてやると、弟もぎこちなく笑い返してくれた。
「とにかく、食っちまおう、遅れたらジイさんがうるさいぞ」
「だからジイさんじゃなくて棟梁って呼べってば。じゃなくて、こんな話をし始めたのには実は、訳があってさ……。」
弟はスプーンを置くと表情をあらためた。
「俺、ミワの実家の庭、今でも面倒みてるだろ?
こっちは昔馴染みだからと思って、タダ同然で引き受けてるけど、ミワんちの親父さんが、というよりは、あの後妻さんが、無理めの要求してくるようになっててさ。もう依頼は断ろうかと思ってるんだ。
けど、棟梁も昔馴染みと波風立てない方がいいっていうし、肝心の兄貴はあれから新しい彼女も作んないし、ミワん家とはこのままで本当にいいのかな?ってさ」
僕は頷いた。そういうことか。
「なるほどね、わかった。まずは、それ食っちまえ、そんでその無理めの要求とやらが、どんなのか教えてよ」
弟は頷いて、猛然と食い始めた。
ミワというのは、ひとつ年上の僕のいわゆる幼馴染だった。ミワの爺さんとウチのジイさんが仲がよかった。それで自然と遊ぶようになった。ミワは、早くに母親を亡くし、家事を一手に引き受けて、ちょっと頼りない親父さんの面倒を見ながら親父さんの小間物屋の手伝いもしていた。
十四になった時、僕は彼女に告白して、正式に交際し始めた。僕は彼女が好きだったし、彼女も僕を好きでいてくれた。このままお互い大人になって、いずれは結婚したりもするんだろうと思っていた。
そのすぐ後、ミワの親父さんが若い女性に入れ込んで、子供ができたからと言って後妻として迎えるまでは。
この後妻さんとミワは、とことん合わなかった。後妻さんは妊婦だからとなにもかもミワにやらせて使用人のように扱ったし、ミワは後妻さんとも親父さんとも喧嘩が絶えないようだった。
すぐに後妻さんにミワの弟が生まれると、ミワは家を出たがるようになった。家を出るために、彼女は早く僕と結婚したがった。
僕は、いずれ遠い未来では彼女と結婚したいと思っていたけど、その時は、弟には敵わないから棟梁にはなれないと思っていたし、かといって庭作以外で収入を得て、自分の家庭を支えられるような展望も全く見えていなかった。勉強中の身で、何より若すぎた。僕は十五歳、彼女は十六だった。世間的にも結婚するにはまだ若い年齢だ。
だが、傾いていく一方の小間物屋と、小さな弟と、頼りない親父さんとを抱えていたミワにとって、そういった抱えているものを全て捨てて出ていくには、大きな理由というか、名分というか、出来事が必要だった。それが「結婚」だったらしい。
当時の僕には、それがわかっていなかったし、たとえわかっていたとしても、あの時は(今でもだが)とてもじゃないがすぐに結婚なんて考慮の外だった。でもミワは、僕が棟梁になるのも、すぐにでも結婚するのも、もう決まったことのように言っていた。だんだんと僕は、ミワは僕が好きだから結婚したいのか、家を出たいからなのか、わからなくなってしまった。
僕たちの不和が決定的になったのは、将来のことをはっきりしない僕に業を煮やしたのか、ミワが「ゼンよりもナギの方がずっと棟梁に向いてる」と言ってジイさんやゼンに僕を棟梁にするよう説得したと聞いた時だった。
今ならば、ミワも僕の運営面での能力に気付いた上での説得だったとわかる。でも、あの頃の僕は、設計士として弟に対して劣等感の塊だったのだ。なんでそんなことをした、どんなに惨めな気持ちかわかるかと、彼女を詰った。彼女は泣いた。
それでも彼女への気持ちが無くなったわけではなかった。僕がもっと大人になって、他人への責任も果たせるようになったら、いずれ結婚だってしたかったし、なにより、ミワが家を出るには結婚以外の道だってあるだろうと思っていたのだ。
そう言った意味では、僕は甘かった。
ミワが庭作の家に入るため、人足たちの台所に入ったり自ら畑に入ったりして手伝っていたのは知っていた。でも、ミワがあの時の僕以上に毎日、惨めな思いをしていたのかは思い至らなかった。小さな頃から学校はおろか勉強の類は全くさせてもらえなかったとか、浪費家の向きのある後妻さんがミワをどこかの金持ちに勝手に縁づかせるか娼館に売り渡すため、僕とミワを引き離そうと画策していたとか、学が全くなくほとんど文盲な彼女が紹介もなく働けるまともな場所などなかったとか、彼女がしばしば一人で、鐘楼のてっぺんから思い詰めた顔で下を眺めていたとか、全ては後から知ったことだった。
僕がぐずぐずしているうちに、彼女は僕に見切りをつけた。はじめこそミワは後妻さんの悪意や家計の傾きに必死で抵抗してたけど、頑張る原動力であるべき肝心の僕がミワの状況を真剣に受け止めていなかったのだ。彼女は、頑張る気力も僕への気持ちもどんどんすり減らしていったのだろう。そんな状況に向き合わない僕に、彼女は呆れたというか諦めてしまったんだろうと思う。
別れを告げられ呆然としているうちに、彼女は十ほど年上の男性と付き合い始めると、ほどなく婚約してしまった。楼閣の上で彼女を止めた人物なのだと風の噂で聞いた。
しばらく腑抜けていた僕に、ジイさんは容赦なかった。何故だがわからない、という僕に、何故だかわからんからじゃないか?と言われてしまった。
そうして、お前が望めば、ミワをウチであずかるってやり方もなくはなかった、だがお前は動かなかった。俺がしゃしゃり出る場面じゃないが、もっと状況が悪くなるようならお前が動くのを待たずに俺が動くつもりだった。だがミワの方が早く動いたな。こうなったのは、お前の行動力の無さとミワん家とことを構えるだけの気概の無さも原因だ、と、真顔で言われた。
それで奮起したってわけでもないけど、しばらくして一度だけ勇気を奮ってミワに復縁を願いに行ったこともある。彼女はキッパリと断るとイタズラっぽい笑顔で「私みたいなイイ女なんて、そうはいないわよ。逃がした魚が一番大きかったって、身に染みたらいいと思うわ」と言われた。その後、真顔で、「待てなくて、ごめん」と言われた。実はこれが一番、こたえた。
しばらくは引きずったし、彼女や自分を恨んだりもした。振られ方が振られ方なだけに、前を向くには相当かかった。だけど、いつまでも下を向いてもいられない。
僕は馬鹿で無力な子供で、「大きな魚の世話」をしきれず、逃がすしかなかった。ミワだって、きちんと「世話」をしてもらえるまで待っていたら、ますます追い詰められていただろうし、悪くすればあの楼閣の上から……。そんなことだってあり得た。考えただけでも恐ろしい。そんなことにならずに済んだのは、ミワのご主人のおかげでもあるので、今ではただ感謝している。
こういうのを縁がなかったって言うんだと思う。僕とミワは縁がなかった。それだけだと思うようにした。そして、ミワには悪いことをしてしまったと思っている。
ただ、ミワに失恋したことは吹っ切れても、恋愛に関しては、また自分が捕まえた「魚の世話」ができるようになれるとは、なかなか思えなかった。たとえイイなと思える女性に会っても、また逃がすしかない状況になるだけだという諦めのような気持ちがどこかにあって、積極的になれなかった。
要するに僕は、自分に自信がない。
自信が持てない理由は、ミワを追い詰めてしまったこともあるけど、根源は自分でもわかってる。三つ年下の弟、ゼンだ。
弟は、ご先祖にいた例の庭師の神様の「再来」とまで言われる天才だ。こんなのを弟に持つのは、なかなか大変なんだ。大変なのは僕だけじゃないのはよくわかってる。でも目指す憧れ(言いたくないけどジイさんだ)と同じ土俵に天才の弟がいるのは、まあ、キツい。これがまたイイ男で僕に懐いてくれる可愛い弟だから、なおさらだ。
庭作の棟梁になれば、少しは自信がつくのかな?
ジイさんが僕を買ってくれたのは単純に嬉しかったし、設計士としてやっていくことはとっくに諦めがついていたけど、やっぱり実務面のみを期待されたことにちょっとだけ拗ねてもいた。それですら今のところは手伝いの範囲だし、実績はほとんどない。自信につながるには程遠い。
僕は結構、メンドくさい奴だったんだな、と我ながら思う。
ありがとうございました。
後半は、来週末に投稿の予定です。
後半もどうぞよろしくお願いいたします。