鬼の守護者~裏切りの姉との闘い~
満月があやしく光る夜。
辺りにはなにもないだだっ広い草原で、二人の人間が数メートルの距離を挟んで対峙していた。
一人は少年だった。年の頃は、一六、七歳ぐらいか。身長は一六五センチぐらいで、どちらかと言えば小柄な方だろう。痩せ気味の身体だが、それは無駄な贅肉がついていないだけで、ひ弱さは微塵もなかった。
もう一人は、女だった。年齢は、少年より上で、二〇歳前後。身長も少年より一〇センチは高い。無駄なく鍛えられたしなやかな肉体を誇示するように、少年を見下ろしていた。
二人とも、全身黒ずくめの装束に身を包み、静かに見つめ合っている。
少年は、つらそうに顔を歪めて。
女は、凶々しい笑みを浮かべて。
と――
「姉さん……」
先に声を出したのは、少年の方だった。
少年は腹の奥底から絞り出すように、なんとか声を出した。
「姉さん、今すぐ、『鬼の社』から奪った神器『翔鶴』を渡して下さい。そうすれば、手荒なことはしません」
女は、凶々しい笑みを崩さず、楽しげに言った。
「イヤだ、と言ったら?」
そんな女を見て、少年は俯き、拳を強く握っていた。
「渡してくれないと言うのなら…………僕は……僕は……」
強く握りすぎて、掌から血がにじみ始めていた。
少年は、ゆっくりと顔を上げて、告げた。
「姉さん、あなたを殺さなければなりません。――これ以上、あなたの凶行を見逃すわけにはいかないんだ!」
*
『鬼の社』。
遥か昔、人を喰らい続けたと言う、鬼の魂が眠る場所である。
そこでは、祈祷師たちが鬼の魂が永遠の安息を得られ、再び目覚めぬように、日々祈りを捧げていた。
少年と女は、そんな『鬼の社』を護り続けている『守護師』の一族――加賀見家に生まれた。
名は、少年の方が零司、女の方は、阿耶と言った。
二人は、立派な守護師になるべく、父・良昭の指導の元、日々厳しい修行を繰り返していた。
まず、その類い希な才を発揮したのは、阿耶だった。
女の身ながら、厳しい修行をなんなくこなし、加賀見流の業の数々をいとも容易く習得していった。
それに比べて、零司は落ちこぼれもいいところだった。厳しい修行に音を上げないのはさすがだが、それだけだった。すべてにおいて、未熟だったのだ。だが、根が争いに向いていない零司は、姉と違い無理に強くなろうとは思っていなかった。ただ、大好きな姉と一緒に修行ができるだけで、幸せだった。
そして、時が流れ、運命の日が訪れる。
父、良昭から守護師の座を受け継ぐ時がきたのだ。
加賀見流は、守護師となれる者は一人だけだった。守護師になれなかった者は、守護師補佐役に回るのだ。
社に住む大方の人間は、守護師になるのは阿耶だろうと、思っていた。女性が守護師になったことはこれまで一度もないが、阿耶の天才ぶりを目の当たりにしてきた彼らにとってそれは些細なことに過ぎなかった。
零司自身も同じくそう思っていた。そして、自分は補佐役として姉を支えよう、と既に決意を新たにしていたぐらいだった。
だが。
守護師に選ばれたのは、零司の方だった。
零司もその意外な結果に驚いた。
だが、阿耶は、その比ではなく、絶望的なほどショックを受けていた。
阿耶はすぐに、父に詰め寄り、問いただした。
「何故、あたしが守護師になれないのよっ! どうしてっ!」
「確かに、お前は天才だ。その身のこなし、業のキレ、どれをとっても申し分ない。だが、お前は、天才過ぎるが故に、自分の業に溺れ、酔ってしまっている。――己が身の程を知り、業を振るうことの『恐さ』を知らぬ者には、守護者は任せられぬ」
「じゃあ、零司にはその『恐さ』がわかるって言うの?」
「そうだ。――零司と一緒に修行してきたお前ならわかるはずだ」
「嘘よ! そんなの! わかるはずがないじゃない!」
阿耶は、父の言葉を聞いても、何一つ納得できなかった。
これでは、なんのために厳しい修行に耐えてきたのかわからない。
「だが、お前の実力が素晴らしいものだと言うことには変わりない。補佐役として零司を立派な守護師に育てあげて欲しい」
阿耶には、そんな言葉とってつけたものにしか聞こえなかった。
「そうよ……あたしが女だから、前例にないから守護師にしなかったのね……そうに決まってる……」
「違う。――阿耶、私の話を聞け」
もう、阿耶には誰の声も聞こえなくなっていた。
立ち上がり、駆け出す。向かった先は社の――神器の間。そこには、守護師になった者だけが扱うことを許される封印されし鬼の力が宿った神器『翔鶴』が飾ってあるのだ。
『翔鶴』は漆黒の鉄扇だった。派手な装飾など微塵もないがただ、存在するだけで圧倒的な禍々しい威圧感はただの鉄扇であるはずがなかった。
阿耶は、なんの躊躇もせずに、『翔鶴』を手に取った。
そして――『翔鶴』に魅入られてしまった。
鬼の力が宿っている『翔鶴』は、その強大な力故、資格なき者が扱えば、その力に魅入られ、その身を『呪い』に支配されてしまうのだ。
「『翔鶴』に触るんじゃない、阿耶!」
阿耶を追いかけ、神器の間に入ってくる父。
阿耶は、迷うことなく『翔鶴』を素早く投げつけた。
凄まじい速度で飛来する『翔鶴』に胸を貫かれる父。父は、なにもできずに、そのまま前方に倒れ込んだ。
『翔鶴』は何事もなかったように、阿耶の手に戻った。
「うふ……うふ……うふふふふ……」
同族殺しの快楽に目覚めた阿耶は、延々と笑い続けていた。
ようやく神器の間にたどり着いた零司は、それを震えて見ていることしかできなかった――
*
その後、社を『翔鶴』と共に飛び出した阿耶は、快楽に身を任せ人を殺し続けた。
阿耶が『その気』になれば、たとえ白昼堂々、どれだけの人がいようとも惨劇の宴は始まった。
だが、阿耶が殺人事件の犯人として捕まることはない。
なにしろ――阿耶の姿を見た者は、すべて阿耶に殺されてしまっていないのだから。
いつからか、阿耶は、関わる者すべてを消し去る殺人鬼『イレイザー』と呼ばれるようになり、人々の恐怖の象徴となっていた。
*
女――加賀見阿耶は、笑みを浮かべながら言った。
「殺す? あたしに一度たりとも勝ったことのないあんたにそれができて? ――しかもあたしの手には『これ』があるのよ」
阿耶が懐から『翔鶴』を取り出す。
そして、淫靡な表情を浮かべ、『翔鶴』をぺろりと舐めていた。
少年――加賀見零司は、そんな姉の姿をとても見ていらないのか眼を逸らした。
「甘いわよ! 零司!」
零司が眼を逸らした隙を狙い、『翔鶴』を投げる阿耶。
びゅっ、とうなりを上げて飛来する『翔鶴』。零司は、横に大きく跳ぶことで、なんとか躱した。
「よく躱したわね。――でも、まだ終わらないわ!」
零司に躱され、そのまま飛んでいった『翔鶴』が、軌道を変え、再び、襲い掛かってくる。
「な!」
「これが『翔鶴』の力、『自在扇』よ。超高速度で飛び続ける『翔鶴』をいつまで躱せるかしら?」
一回躱しても、またすぐに襲い掛かってくる『翔鶴』に、零司はただ躱し続けることしかできない。
そんな零司を見てに、阿耶は狂喜乱舞した。
「零司、もっと華麗に踊ってお姉さんを楽しませなさい。力尽きたら、苦しむ間もなく殺してあげるからね!」
『翔鶴』の攻撃はさらに激しさを増した。
だがそれに対抗するように、零司は全神経を集中させ、それでも躱し続ける。拳銃の弾丸並の速度で飛ぶ『翔鶴』の攻撃を躱すには、見てからでは間に合わない。すべて早め早めで予測し、回避する。それを完璧にこなす零司も尋常ではなかった。
「なんなのよ……」
危なげなく躱し続ける零司に、阿耶は驚愕の声を漏らした。
その動きは、阿耶の知っている零司のそれではなかった。
阿耶は、ひとまず『翔鶴』を自分の手元に戻し、零司の方を睨みつけるように見た。
零司も、阿耶に向き直り、静かにつぶやいた。
「言っておくけど、僕に『自在扇』は効かないよ。今の僕は、加賀見流免許皆伝の身であり、『鬼の社』の正統な守護師なのだから。――ただ、人を殺し続けただけで進歩のない姉さんには負けない」
「思い上がるんじゃないよ! 躱しているだけのくせに!」
再び、阿耶は『翔鶴』を投げた。
「そら、今度はもっとスピードを上げてあげるよ!」
阿耶の言葉通り、さらに今まで以上の速度で、『翔鶴』が襲い掛かってくる。
もはや、予測とかそういうものが通用するレベルを遥かに超えていた。
完全に避けきることは、零司でも無理だった。
無駄な動きを最小限に抑え、直撃だけは避けるが、かわりにかすってしまうのはどうにもならない。
いつの間にか、零司は全身傷だらけになっていた。
――もう少し……もう少しだ……
それでも、零司は諦めずに躱し続けた。
そして――
がくっ。
見ると、阿耶が呆然と膝を突いていた。
同時に、『翔鶴』は勢いを失い、零司に到達する前にすとんと地面に落ちた。
阿耶は、わけがわからずこちらを見ている。
零司はボロボロになりながらも、ゆっくりとだが阿耶の方に近づいていった。
「姉さん。これほど長時間の間、しかもあれほどの速度で『自在扇』を使い続ければ、さすがの姉さんも力尽きて当然だよ」
「な、なんですって……そ、そ……ん……な……」
「言ったはずだよ。僕は守護師だって。守護師なら己が使うべき神器の特性と弱点を知っていて当たり前だろ」
一歩、一歩、阿耶に近づいていく。
阿耶は、もはや指一本動かす力も残っていないはずだ。
「あ……あ……」
「姉さんは天才だよ。僕のような凡人にはおよびつかないほどね。でも、神器に魅入られ冷静な判断ができない姉さんであれば負ける気はしない」
零司は、阿耶の目の前に立った。そして、懐から小刀を取り出す。
「さよなら、姉さん。――あなたのことは忘れない……」
「あ……」
それが、姉の最期の言葉となった。
姉の死を悼んでというわけではないだろうが、それまで無風状態だった草原に強風が吹き荒れ始めた。
「……終わった……」
零司は、大きく息を吐きながら独りごちた。
――よく、あの姉さんに勝つことができたよな……
もし姉が、零司の実力を認め、『翔鶴』に頼らずに闘ってきたら、やられていたのはこっちだった。
なんだかんだ言っても姉は天才なのだ。
零司もあの頃に比べればある程度は上達したが、姉に超えるほどではないことは零司本人が一番良くわかっていた。
己の実力を過大評価せず、相手の実力は最大に評価し、警戒する。そんな凡人の臆病さが勝敗を分けたのだ。
――姉さんにもそんな『恐さ』を感じることができれば守護師だってなれたのに……
零司は、強風を一身に浴びながら歩き、『翔鶴』が落ちたであろう場所に向かった。そして、予想通り見つけた『翔鶴』を拾い上げた。
「こんなものがあるから……」
どこかへ投げ捨てようかと思った。だが、そうすればまた何者かが『翔鶴』に魅入られてしまうかもしれない。
零司は、『翔鶴』を懐にしまい、歩き出した。
『鬼の社』へ。