第38話 お返事
元亀2年(1571年)6月の中旬。
わたしはいつものルーティンを終え、1日ももう終わりかけであろう、そんな時。
「虎姫様、御屋形様がお呼びです」
わたしは部屋で父上に与えられた本を読んでいた。そんな時に襖の向こうから側仕えである信綱からそう声がかかった。
「父上が……? わかった。すぐに行くわ。……お船、支度を」
「かしこまりました」
適当に読書していただけだから髪は乱れていて、服装もとても人に会いに行ける格好ではない。いくら父上といえどそれは許されない。
―—
「父上、ただいままいりました」
父のいる書斎部屋の前で顔を伏せ、許可を待つ。
「おお、虎か。入れ」
「はい」
許可をもらったわたしは礼儀作法通りに父上の書斎部屋に入る。
「こんな時間に呼んですまなかったな」
「いえ。何の問題はありませぬ」
「そうか。こちらにおいで」
わたしは父上の手招きにより父上の膝の上に座った。もう6歳になるんだから、膝の上に乗るのはいい加減卒業しなきゃいけないけど、まだまだ甘えていたかったし、父上が膝から離れるとすごく寂しそうにするので、罪悪感からなかなか卒業できなかった。
「何をしていたのだ?」
「父上にいただいたご本を読んでいました」
「そうか。どういう話だ?」
「平家物語です」
「ふむ、面白いか?」
「はい! すっごく面白いです」
「それはよかった」
父上の大きくてごつごつとした手がわたしの頭に当たる。父上に撫でられるのが何となくうれしい。
「……それで、だ」
「はい」
この部屋に呼ばれた時点で何となく察していたけど、やはりここの部屋に呼んだのはこんな世間話をするためだけではない。なにかある。しかし、いったい何の話だろうか。心当たりがいろいろありすぎて何がなんだかわけわからない。
「この間の北条氏康との面会の件についてだ」
「氏康との……」
ぞういうことならおそらく、先日わたしが必死に書いた手紙の返事が来たのかもしれない。そう感じたわたしは父上の膝の上に座ってはいるけど、姿勢を正した。
「お返事が来たのですか?」
「ああ。そうだ。念のためにあらかじめわしも内容を読んだが、内容的には面会についての日程が書かれていた」
「そうですか……」
父上から渡された手紙にも確かにそのようなことが書かれていて、このままいけばおそらくこの通りに進むはずである。本当にあれが実現するんだ。
この時代同盟していてもその名手が直接知り合うのは珍しい。伝説上の存在で今では確認しようもないが、甲相駿三国名締結時に行ったとされる善徳寺の会盟の面会もあり得ない話だ。だというのになぜ氏康はわたしに直接会いたがっているのだろうか。今頃確か病床に伏せているはずだ。そんな時期に今は同盟を結んでいるとはいえいつ綻ぶかわからない国の大名の娘に会いに意向だなんて氏康は一体何を考えているのだろうか。
「氏康、あやつの思惑はわからぬ。だが、それでも会いに行くのか?」
「はい。会いに行きたいです」
「……そうか」
父上はうれしいのかうれしくないのか複雑そうな表情を浮かべた。けれど、なんであれ氏康に会いに行く事は決まったのだった。




