第2話 駿河侵攻
永禄11年(1568年)12月ー
「なに!? 武田が攻めてきただと!?」
武田信玄が駿河侵攻を決行。
「はっ。荻清誉さま、内房口にて討死とのこと」
「もうそこまで来ているのか!? 内房口というとここ、駿河のすぐ目の前ではないか! そんな……一体わしはどうすればいいのだ…………」
「氏真さま! ここは奥方様の実家である北条に援軍を頼みましょう!」
「そ、そうだな……あいわかった。なら、忠胤、信輝、信置、氏元に声をかけろ! 薩埵山にて迎撃させろ。我は清見寺で出陣の準備をする!」
「はっ! かしこまりました」
庵原忠胤に1万5000の兵を持たさせ、氏真の舅の北条氏康に援軍を要請の上で要衝の薩埵山にて迎撃の姿勢を見せた。氏真自身も清見寺にて陣取っていたが……
「瀬名忠胤殿、朝比奈信輝殿、葛山信置殿ら含めた21名の重臣らが武田に内応とのこと!」
「なん、だと……」
「氏真さま、今すぐに駿河に撤退致しましょう! ここはもう危険でございます!」
「……わかった」
重臣の相次ぐ離反により身の危険を感じた氏真は密かに駿河へと撤退して賤機山城にて籠城戦を図ろうとするが、がもう既にそこは武田軍に占拠されており、そのため氏真は妻の春と娘の定、妹の貞春尼(万が出家して号した名前)とその娘の園と共に家臣の朝比奈泰朝の居る掛川城に退去。その後、氏真が撤退したことにより前線が総崩れした駿河を武田軍は戦わずして占拠した。
「おばば様が生きて居ればなにか変わっていたのだろうか……」
氏真はこの武田が進行してくる数ヶ月前の3月に亡くなった氏真、貞春尼、春の祖母に当たる寿桂尼を思い出した。寿桂尼こと本名桂は女性の身であるのにも関わらず氏親、氏輝、義元、氏真の4代に渡って政務を補佐したため尼御台や大方殿と呼ばれていた。その手腕は確かなものであった。氏真の慣れない政務を手助けしてくれた。が、彼女はもう居ない。
「氏真様、気を強く持ってください!」
「春殿の言う通りですよ。兄上。それにあなたの妻である春殿の実家は北条ですよ!もうすぐ北条の援軍が来るはずです。それまで気を確かに!」
「……ああ。そうだな。もう一度舅殿に援軍の催促の手紙を送ろう」
「わたくしも手伝いますわ」
「春がそう言って貰えると助かる」
春と共に書いたこの援軍催促の手紙が北条家でも揺るがす事態となった。
◇◇
一方その頃北条家では─
「武田が今川に侵攻しただと!?」
北条家の実質の当主である北条氏康は武田信玄のまさかの行動に驚きの声を挙げずにはいられなかった。
「はい。それで今川氏真様と春姫様が援軍を要請しているようです!」
「……なるほど……信玄め! まんまと盟約を破りやがって!! 大事な娘の春が輿にも乗れずに徒歩で逃げ惑わせるなど危険にも程があるだろう! 甲相同盟を即刻破棄しろ! 氏政! 軍を引連れて即刻に今川家を助けろ!」
「それ、は……」
「いいな? 氏政! お前の妹*が危険な目にあっているんだぞ!」
「……は。かしこまりました」
甲相同盟の破棄は氏政とその妻小梅の離縁を意味した。
◇◇
「……そうですか……」
「すまない。小梅。あのままじゃ父上を止められそうになかった」
「いえ。これは全てわたしの父上が悪いのです。貴方様が悪い訳ではありません。それに貴方様の妹殿を助けるのは兄として当然の役目ございます」
「……小梅……」
一刻でも長く小梅と居たかった氏政だが、形式上でも当主である身がそんなことも許されず、妻を残して氏政は駿河に援軍として出兵することになる。
一方小梅は甲相同盟の破棄に伴い実家の武田家に戻された*。その後鬱々とした生活を送っていた小梅だったが、翌年の永禄11年(1569年)6月17日に病死した。27歳であった。
そんな氏政だったが一応活躍し、富士郡や駿東郡の城を降伏させるとと蒲原城を抑えた。翌年の永禄12年(1569年)1月26日に氏政は薩多峠にて信玄と対峙して、さらに同月の27日には今川方が駿府を奪還したため信玄の動きを抑え込んだ。加えて氏康は信玄の動きに不信を買った徳川家康と密約を結び、駿河で挟撃をした。この状況で駿河を維持することは難しいと判断した信玄は甲斐に一旦退避。ここで信玄に逃げられたことにより駿河情勢の運命を変えることになる。
*武田家には戻されずに北条家に残ったという説もあり。