第17話 小田原城
元亀2年(1571年)4月。小田原城。
この城の主たる屋敷で、一人の男が床に伏せていた。
「父上! 床へ戻られぬと病状が悪化しますよ!」
声を荒らげたのはこの小田原城を居城とする北条家の形式上の当主の北条氏政。その言葉に彼の父である北条氏康は苦笑いを浮かべた。
この日、氏政は苛立っていた。それには2つ理由があった。
一つは腹違いの弟である景虎からの手紙(第壱章の第17話参照)が大変失敬なことだ。確かに彼にはこちらの勝手な事情を押しつけ、恨まれているかもしれないが、兄に対してここまでする必要はないだろう。
もう一つは父親がなかなか死なないことだ。はっきり言って死んで欲しい。いや、さすがにそんなことは思っているだけで命を狙おうだなんて考えていない。それでもやはり老いぼれはさっさと死んで欲しい。
そんな彼を見越すように氏康は気丈に振る舞う。床に伏せていても余裕そうな表情ができるのは相模の獅子と呼ばれるからだろう。
「なんだ、氏政。さっさとこのわしに死んで欲しい__そう顔に書いておるな?」
「うぐっ……」
「はは。図星じゃな?」
言葉を詰まらせた氏政は、顔を真っ赤にし、次いで青ざめた。
そんな息子の様子に、氏康は目を細めた。
……こやつも、まだまだ子供よのう。
相模の獅子と呼ばれた男の余裕は、病に伏してなお衰えてはいなかった。
「……して、なにようじゃ?」
氏政が自分に小言を言いに来るためにわざわざ自分の部屋に訪れるわけが無い。そう読んで言ってみたが、氏政の顔を見てやはりと内心理解した。
氏政は一応当主だが、事実上の実権を氏康に奪われていて、自分がどんなに優良な施策を打ち出してもみんなこの父の顔色を伺うばかりでなにもできていない。お飾りな当主にも甚だしい。正直邪魔だ。けれど、殺そうとはしなかった。そんなことをする勇気なんてない。そんなことをするほど氏政は愚かではない。ま、そう簡単にこの父を殺せるわけないと知っていたからというのが1番大きな理由だ。
「上杉との同盟についてです」
「ふむ……それがどうした?」
この息子が言わんとしていることは察しているが、あえてすっとぼけてみる。氏康にとってまだまだ可愛い息子と言えど、世間から見れば充分立派な大人でいつまでも甘やかしておくわけにも行かなかった。
「わかっていますでしょう!? 家中では上杉との同盟に反対するものが多いのですよ!? 実際上杉と同盟して大きな利点は敵が減る。ただそれだけです。武田は上洛を目指すのではないかという噂があります。故に上杉との同盟を継続する意味がありません。どうか考え直してくだされ!」
「……うるさいわ。病人の耳を壊す気か」
予想していた氏政の反応になんだか少し物足りなさを感じた。
「す、すみませぬ。しっ、しかし……、ここは1度考え直してみてくだされ。益のない同盟など不要も同然です」
「当主たるもの家中の意見に流されてどうする」
「うぐっ……」
言われてみれば、お飾りと言えど氏政は一応当主。そして、実権のある氏康も今は病気で事実上の実権は氏政のものになりつつある。ならば、少しは自分で考えなければならない。
「なんのためにここがあるんだ。少しは考えてみろ。上杉と同盟を継続する意義を」
頭あたりをとんとんと叩いて自分で考えてみろと視線を向けた。
「意義……まさか、景虎とか?」
上杉景虎はいくら側室の子と言えど氏政と同じく氏康の息子であることに間違いはなかった。しかし、この戦国時代はそんな個人的な感情が許されるほど甘くはない。実際氏政だって実感したことだ。それはこの父も当たり前な常識だ。
「半分正解だ」
「半分……? では、もう半分はなんなのですか?」
氏康らしくない個人的な感情もあるが、それ以外の理由は思いつかない。一体なんだと言うのだ?
氏政の顔を見た氏康はまあ、だろうな。という顔をした。この話はだれにもした事の無い話だ。
「それはな……実際に会ってみろ。わしも話がしてみたいからな」
「誰にですか?」
「ふふ。お主がよく知っているやつじゃ」
不敵に笑いながら文を認め出す父を見て何となく嫌な予感がした。
「父上、まさか……」
「そのまさかじゃよ」
顔を青くさせた氏政に氏康はにやりと笑った。




