ロストメモリア(2)②
過去の体と未来の意識が結びつき、現在が進み始める。最初で最後にして彼とすれ違った無銘の神社。伊黎は、今参拝を終えて鞄を背負ったところだった。
「伊黎!」
なぜ初めからそうしなかったのか、この小さな境内中に、本殿にまで届くほどに呼ぶ声を響かせる。彼はピクリと体を弾ませ、おずおずと振り向く。その目はいつも通りの虚空を見つめる目だったが、私をその目で捉えると、僅かに光を灯しながらゆっくりとこちらへ歩き始めた。
「俺と同じ制服……えっと…はじめまして…かな」
思わぬ発言を不思議に思いながらも、話すことがこれが初めてのことだったと振り返る。
「私、同じクラスの凪咲……君の後ろの方の席……って言っても分からないよね」
「……ごめん、あんまり人を気にしたことがないんだよ」
伊黎の沈んだ表情に引き込まれるようにこちらも気持ちが沈んでしまう。私と同じ境遇ではないと分かってはいるものの、彼の気持ちが理解出来る。きっと私は、同情しているのだろう。
「それより、なんでここに?俺と同じ通学路の人はいないはずだけど」
「たまたま……そう、たまたま。今日はまだ時間に余裕あるから寄り道しようって」
「そっか、それじゃ俺は先に」
彼はそう言い残して足早に、逃げるように俯きながら走って私の横を通り過ぎてしまう。話しかけて足止めはできたものの、このままでは彼が死んでしまう未来が変わらない。
「待って、伊黎」
呼び止める声に彼は耳を貸さず、そのまま自らの死地へと知らずに走っていく。角へ曲がろうとしたところで、私の中で秒読みが始まる。残り十秒……九……
なんのために遡行したのか、彼と話すためだけではないと、重い荷物を背負った体を酷使させるよう無理に動かして彼を追いかける。残り八……七……六……五……
「ダメ……待って……今そっちに行っちゃ……!」
角を曲がり、同じく重荷を背負った彼の背中が目に映る。見通しの悪い十字路へ、遅刻ギリギリでもないのに走っていく。四……三……
足を止めてしまっては未来を変えられない。彼より早く走らなければ止められない。彼との距離は十数メートル、息切れしながらでも声を振り絞れば届くだろうか、いいや、届かせるしかない。二……一……
「止まって!伊黎!!」
彼の耳に届いたのか、交差点に差し掛かろうとした時、彼は足を止めて怒りを見せながら振り返る。……ゼロ
「なんだよ!なんで俺に構うんだ!」
怒号を飛ばした直後、彼の背をかすめるように前方不注意で制限速度を超越した軽トラックが走り抜けた。
「間に…あった…」
遡行した時に消費した体力と、ここまで体を酷使した影響で体の力が全て抜け、顔を青ざめながら交差点を見つめる彼の前で膝をつき、汚れなど気にする余裕もなく座り込んだ。
「もしかして……俺……」
「はぁ……はぁ……私が呼び止めなければ……死んでたよ?」
「そう、だよな……その、ありがとう。立てるか?」
膝を軽く曲げながら差し出された手に甘えて引っ張り上げられ、そのまま肩を組まれて力が戻るまでゆっくりと歩き始めた。
それから学校では互いに話すことはなく、そのまま何事もなく放課後を迎える。鞄に教科書や荷物を詰め、制服の乱れを直したところで伊黎の姿が消えていたことに気づく。周りはグループを作り、和気あいあいと話す声がする中、彼と私だけ、どのグループにも属することなく、教室を後にする。
忽然と消えた彼を探すでもなく、夕日に照らされた校舎を出る。外でも他学年のグループが話を弾ませている中、どこからか、微かに鈍い音と共に嘔吐く音が聞こえてくる。その声はつい今朝聞いた彼の物、校舎脇から聞こえて くるそれには周りの誰もが聞こえていないのか、聞かぬふりをしているのか、それを聞いて走り出すのは、私以外誰一人として居なかった。
『あんまり人を気にしたことがないんだよ』
人混みをかき分け、鈍い音に近づいていく中、突如として今朝の彼の言葉が幻聴として脳裏に響く。もしも彼がもっと愛想のいい人間だったなら、この学校の生徒のように能力が発現していたのなら、きっと、苦しむのは私だけで良かったのかもしれない。誰も助けてくれない……孤独なアイドルだけで……
「伊黎!!」
そこに辿り着いた時には、鈍器を持った複数人の男が彼を袋叩きにし終えたところだった。壁にもたれかかって座り込んでいる彼の全身からは血が流れ、肉がえぐれ、壁に血飛沫を付け、男たちはそれを見て嘲笑っていた。それも私が声を出すまでの事。
存在を気づかせてしまったからか、男たちが鈍器を見せびらかしながらこちらに詰め寄り、内の一人が私の後ろに回り込み、他数人が私の体を押さえつける。
「やめ……やめて……」
目の前の恐怖に為す術なく、後頭部から鈍い痛みが走り、伊黎のもう動かなくなった体を前にして意識が薄れ行く中倒れ込む。男たちはそんな私の姿を見て嫌味に見下しながら八つ当たりを近くの木にぶつけながら校舎脇を後にして行った。
「助け……なきゃ……」
両足に力が入らなくなり、暗転と明転を繰り返す意識の中、腕の力だけで地を這い、彼の傍に少しでも近づいていく。体重を支えきれず、倒れることを繰り返しながらも、歪みきった一つの冷えた体に手を触れる。この冷たさは、およそ人が放っていい冷たさでは無い。
最期に彼を見ながら、視界が完全に暗くなる。電球が切れた時よりも暗く、目を閉じる時よりも暗い。光が完全に入らなくなったこの体で、最後の力で、再び過去の体へと意識を飛ばす。
「遡……行……」
目覚めると、その時は今日の昼休みだった。どうやら机に突っ伏して寝ていたようだった。太陽の光と周りの声を遮断するよう組んでいた腕を解き、寝起きで普段より重く感じる体を起き上がらせ、目を擦って前の席の彼を視認する。飽きもせずグループで話を弾ませている中、やはりどのグループにも入ることなく、一人で静かに本を読んでいた。
昼休み開始から十分程度しか経っていない中、席を立ち、本を読んでいる彼の元へと歩く。
「ねぇ、伊黎」
名を呼ぶと、本を閉ざすことは無かったものの、「ん?」とたった一言だけ反応を見せた。
「今日、一緒に帰らない?」
「いや、いい、一人で帰りたいんだ」
周りの邪魔になることなく静かに交わす中、返せずにいると、彼は大きく鼻でため息をつきながら再び本に没頭しだした。
「……どうして伊黎はいつも一人になりたがってるの」
ページをめくろうとする手が止まり、代わりに栞紐を開いていたページに挟んで本を閉じ、大きくため息をついた。
「今朝言ったよね……どうして俺に構うんだ」
「それは……」
「俺は一人で居たいんだ。灯織もいないこの学校なんて……本当は居たくないんだから」
「灯織?」
「くそっ……忘れてくれないか」
「それは出来ない」
「どうして」
「私じゃ……その灯織って人の代わりになれないかな」
無神経なことを言ってしまったのか、彼は閉ざした本を机の中にしまい込み、手を組んで目を伏せた。
「ふざけてるのか?」
今朝とは違う静かに怒る声に内心震え上がり、何も返せずに彼を見下ろしながら硬直していた。
「お前は……俺を好きでいてくれるのか?こんな俺を守ってくれるのか?お前に……そんな力があるのか?俺は弱いんだぞ」
卑屈な彼は強がりながらも声を少し震わせる。きっと伊黎は、私以上に孤独で、誰かに寄り縋っていなければ、あの時のようにすぐに死んでしまうような人間なのだろう。
「……伊黎をすぐに好きになるなんてできないよ」
「なら……」
「でも、守ることならできる。今だって、君を守りたいからこうして話しかけてる」
「……バカバカしい」
「だから、まずは友達からじゃダメかな」
彼は下唇を強く噛み、組んだ手が拳へと変わる。
「……図書室で待ってる」
彼の答えが聞けたところで昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
放課後、鞄に教科書や荷物を詰め、彼の席に目をやると、やはり誰よりも先に居なくなっていた。しかし、今回はあの時のように校舎脇で袋叩きにはされず、図書室で待っているはず。そう思うだけで気持ちが幾分か楽になり、一階の昇降口付近にある図書室へと、重いカバンを背負って軽い足取りで向かった。
「伊黎、いる?」
引き戸をあけ、僅かに電気がつけられた図書室の中へ入ると、たった一人だけ、伊黎が扉付近の手前の席でまたも本を読んでいた。
「伊黎、帰ろ」
彼は自分が呼ばれたことにようやく気づき、文字だけが書かれた本に栞紐を挟み、軽く頷いてから立ち上がった。
校舎を出ると、遡行前に伊黎を袋叩きにしていた複数人の男たちが目に映る。男たちは正門へと向かう人混みの中を逆行し、こちらにまっすぐ、わざとぶつかろうと向かってくる。当然、これから先のことは経験済みのため、欠伸をしながら退屈そうに歩く彼の腕を引き、男グループを避け、不満げな彼と横並びになって帰路についた。
「本当に……なんで俺に構うんだよ……」
「目を離すとすぐに死んじゃうから、かな」
「はぁ……?何言ってんだ」
呆れながらも隣を歩く彼に、冗談だと微笑みかけることすらできぬまま、周囲に同級生もいない街道を、共通の話題があるはずもなく、ただただゆっくりと歩く。
「おい、凪咲、凪咲!!」
「え?」
世間話すらしにくい間柄で、退屈な時間を紛らわせようと考えていた中、その思考に割り込むように彼の声が響く。それと同時に、背後から迫るクラクションの音も耳に入ってきた。
私がクラクションの音に気づいたところで彼に腕を引かれ、その勢いが余って、外壁に押さえつけるように一回りほど大きい伊黎の体に抱きつく形が出来上がってしまった。
「全く……すぐに死ぬのは俺じゃなくて凪咲の方なんじゃないのか?」
「ご、ごめん、ありがと……」
「いいから、さっさと離れてくれないか」
「……いいじゃん、友達なんだし」
「はぁ……俺が知ってる友達は抱き合ったりしないし、そもそも俺は凪咲と友達になった覚えはない」
「酷い、傷つく」
悪態をつきながらも、決して私を突き放したりはせず、私から退いてくれるのを待つ彼に、クスクスと笑いながら、外壁を支えにして距離をとる。ようやく離れたことによる開放感に、伊黎は制服についた埃を払い、そそくさと私を置いて歩き出してしまった。
「待ってよ伊黎」
走らずとも追いつく所を走って横に並び、私のペースに合わせるようゆっくりと歩く彼の表情を伺う。仏頂面と言うべきか、無表情と言うべきか、喜怒哀楽のどれにも属さない表情を見せていた。
「……やっと笑ったな」
「へ?」
すぐ横にいる私とは目を合わせようとすらせず、彼はただ道の先を見ているだけの中、そう呟いた。
「入学式の次の日の自己紹介、凪咲は俺と同じ目をしていた。誰にも、何にも期待してない虚ろで無気力な目を」
「私が……?まさかそんな……」
「それから凪咲は俺とは違ってグループに入っていった。可愛いから引っ張りだこだったな」
「え……あ……うん……そう……だったね」
おかしい。今朝、『人を気にしたことがない』と言っていたがために、入学当初の事実を述べられ、嬉しさとともに照れくささがふつふつと湧き上がってくる。
「でも、凪咲は少しも嬉しげじゃなかった。それどころか、学校では一度も笑っていなかった。だから、『やっと笑ったな』って」
「なんだ……私の事、見てくれたんだ」
「言ったはずだ。『あんまり』って」
「……ずるいよ。ってことは今朝のあれは?初対面だと思っての演技?」
「いや、名前と顔が一致しなかっただけだ」
「なら」
ようやくまともに話してくれるようになった彼の手を無理に握り、離さないように、指の間に指を入れ、思いきり力を込めて筋肉質な手を握りしめる。
「痛い痛い!何するんだよ離せって」
「ダメ、離したら伊黎、すぐ死んじゃうから」
「そんなことじゃ死なねぇって!」
「わかった。じゃぁその代わりに」
「代わりも何もないだろ」
「いいから聞いて……私の顔と名前、覚えて帰ってね。舞原凪咲、好きな物は……一度手放したら二度と戻ってこないものだよ」