ロストメモリア(2)①
「名倉伊黎です。好きな物は……リンゴです。よろしくお願いします」
等間隔に並べられた机と、セットになっている椅子に座っている人達が三十数名、外部からの情報を得ることのできないこの密室で、たった一人の大人と約三十人ものの視線を集めながら彼はそう自己紹介をして席に座った。
次は彼の後ろの席に座っている人が立ち上がり、同じように自己紹介をする。彼がその人の方を見ようと体を捻ると、私と目が合ったような気がした。
彼の目は、何か物を捉えている様子は全くなく、まるで、ぽっかりと空いてしまった穴を埋められるものを求めるかのように、虚空を見つめていた。そんな彼は、当然、私と目が合ったことに気づいた様子は無かった。
私の前の席の人の自己紹介が終わり、番が回る。最後列に座る私が立ち上がると、最前列からも、この教室の隅の席に座る人からも視線を集めた。彼も、私のことを見ていた。何も期待していない、無気力な目だ。
「舞原凪咲、好きな物は……」
その日、私がなんと答えたのかは記憶にない。見ず知らずの彼の、伊黎の目が気になりすぎていたからだ。
私は、能力者。いや、この学校に通う皆が能力者だ。
動物と会話ができる。人の心を読む。少し先の未来を視るなどと言った力を、この学校の生徒は何かしら持っている。しかし、彼は違った。彼の力はまだ発現していなかった。
この学校は、既に力に目覚めた子供を昼の間だけでも隔離するだけでなく、素質のある子供を目覚めさせる場でもある。伊黎は、その素質ある子供であるため、この学校に入学できた。
不運にも、この学年の、いや、この学校で未だ目覚めていないのは彼だけだった。そのためか、いつしか彼は真っ先に落ちこぼれの烙印を押され、迫害を受ける身となってしまった。それでも彼は、何か支えがあるかのように、ほぼ毎日学校に来ていた。いつしか周りも、彼のことが飽きて、標的を別のものへと変えた。
その標的は、私だった。
私の力は時間遡行。自分だけの記憶を引き継ぎ、時間を戻して望んだ未来だけを見つけ出す力、それ故に、私が力を行使したところは誰も見た事がない。誰も覚えていないのだから。
伊黎で弄ぶのが飽きた同級生たちは、私が一般人だと噂を流し、各々が私の目の前で自らの力を行使し、優越感に浸る。とある異文化地域で魔女狩りというものがあると聞いたが、恐らくこれはその逆だ。力があると信じて貰えず、誰かに助けを求めることも出来ずに辱めを受ける。そして、家に帰れば、酒乱の父親のストレスの捌け口に使われ、母親は稼ぎを探しに家を空け、服で隠れる場所をカッターナイフで自らを傷つける日々。
自室でつけるこの傷が、痛みが、唯一の安らぎだった。
痛みを堪能しつつ、机の上に置いたティッシュをくしゃくしゃに丸めて傷口に当てる。赤く染っていく白い紙くずが、異様に見ていて心地が良かった。
止血が終わったあともカッターは仕舞わず、芸能事務所から届いた、私が表紙に写ったアイドル雑誌に刃を突き立て、ビリビリに裂いてゴミ箱に投げ捨てる。私でない私が写るこの雑誌にはこの程度の存在価値しかないのだ。
「はぁ……寝よう」
ゴミ箱の中にはビリビリに裂かれたポスターや雑誌、写真集が捨てられている。そのどれもに眩しい笑顔の私が写っている。カメラに向けるこの作り笑いを求めて金を落とす人々に憎悪を抱きながら、傷だらけの体をそのままに睡眠薬を飲んでから眠りについた。
ある日、目が覚めると既に日が沈みかけていた。幸運なことにこの日は休日で、特に予定もなく、酒浸りな父親に怯えて自室で過ごすだけだった。
ベッドから起き上がろうとしたその時、全身から痛みがじわじわと出始める。昨日つけた切り傷ではない、打ち付けたような痛みが襲う。特に強い痛みと熱を帯びた腹部に目を向けると、酒瓶の底で何度も押し潰したような円形の痣がくっきりと浮かび上がり、塞がっていたはずの古傷が再び開かれ、固まって残った血液が体や服を汚していた。
服薬していた睡眠薬の副作用からか、ベッドから降りると今までに感じたことの無い激しい吐き気に襲われる。全身に残る痛みに思うように身体を動かせず、口元と腹を抑えながら雑誌の入ったゴミ箱の中へと汚物を全て吐き出した。
重くなった身体を引きずって一階へと降りると、テレビをつけっぱなしにしながら父親がソファにもたれかかっていびきをかいている。リビングにも、キッチンにも、トイレにも、母親の姿がなかった。
これが我が家の当たり前だ。最後に母親の顔を見たのはいつだったかなどと考えてしまうも、それが全く意味を成さないことであると瞬時に諦める。ここには会話も、笑いも、癒しもない。それが我が家だ。
平日ともなると、無理やり身体を起こして制服に着替えて登校しなければならない。相も変わらず酒に酔いつぶれた父親を尻目に家を出ては、重い足を引きずって一人孤独に通学路を歩く。
今日は気分転換に意味もなく近くの神社に立ち寄ってみることにした。肝試しに使われることすら無くなった誰も立ち寄るのことない廃れた神社に。
運命的な出会いすら期待しないまま学校とは真反対に位置する神社へと足を踏み入れると、たった一人だけ、見た事のある背中が賽銭箱に向かって願い事をしていた。次の日も、その次も、さらにまたその次の日も……彼は、伊黎は毎日神社に通ってはなにか願いを神に向かって打ち明けていた。
入学当初から迫害を受けていた彼は、神頼みを得てようやく解放された。それでも彼が落ちこぼれの烙印を押されていることには変わりなく、私のことを気に止めぬまま憂鬱に通学路へと戻って行ってしまった。
試しに私も賽銭を投げ、同じく解放されるよう祈りを捧げるも、こんなものは気休め程度にすらならないと境内を出た。
彼の背中を追いかけるよう足早に歩く中、角を曲がった先から、学校へ向かう方向から、何かと金属が激しくぶつかるような音が耳に入る。生気が感じられない彼の目が突然脳裏に浮かび、音がした方へ無意識に走り出す。
「あ……あ、あ……伊……黎……?」
足元へ伸びてくる鮮血、粉々に砕かれた全身の骨、曲がるはずのない方向へ曲げられた四肢……
彼の傍に寄らなくてもわかる。彼は何かにぶつかって弱々しく死んでしまった。行き交う人々は決して彼を助けようとせず、かくいう私もその場から動くことが出来なかった。そんな中、彼は、腐敗していくのみだった。
道路の真ん中で佇む一人とひとつ、こんな未来なんて願ってすらいない。ならば、変えてしまえばいいと、歯を食いしばり、静かに零す。
「……遡行」
頭の中でカチカチと進む秒針がその瞬間歯車を止め、ふわりと浮き上がる感覚が全身を襲う。まるで無重力空間に投げ出されたかのようなこの意識に身を委ね、時の流れを遡る。今日彼を最初に見た、あの神社まで。