白露の大祭り
海風になびかれ、肌寒さにくしゃみを一つして目を覚ます。船頭から見える景色は相変わらず一面の海。太陽が水平線から顔を見せ始め、船外で夜明けを迎えた。周囲に人影は見当たらず、ウミネコが群れをなして太陽へ飛んでいるだけだった。
客船であるにも関わらず甲鈑に座って寝ていた私は体の節々がじんわりと痛み始め、老人がゆっくりと歩くような腰を折った姿勢で船内へと足を踏み入れる。早朝に目を覚ましたのは私だけではなかったようで、どこからか漂う香りに誘われ、船内食堂へとたどり着いていた。
気づけば痛みは和らぎ、乗客用の食事を受け取り一人静かに椅子に座る。厨房の奥から油で焼かれるベーコンの音が聞こえて来るが、この船全体を貸し切っている気分だった。
カリカリに焼けたベーコンにこんがりと色がついたトースト、白と黄色が程よく混ざったスクランブルエッグにミルクと砂糖を多量に混ぜ入れたコーヒー、我ながら優雅な朝食だと愉悦に浸りつつ、アルプスにも食べさせてやりたいと言う独り占めの罪悪感が同時に襲いかかってきた。それでも空腹に抗うことは出来ずにすぐさま腹を満たし、元の味がすっかりと無くなったコーヒーを啜った。
「……苦いな」
久々の満足感に浸りながら食堂を後にして再び風に当たりに外へと出る。温まり始めたからか、風もいくらか心地よくなっていた。そんな心地良さに欠伸をしながら歩いていると、船頭で一つの影が海の先をじっと見つめていた。セミロングのくすんだ銀髪をなびかせる一人の少女だった。家族連れの観光客なのだろうか。
「こちらへ来て、お話しませんか」
少女は私の足音にでも気づいたのか、柵に手を乗せながらお淑やかに微笑みかける。その顔立ちは少女の影を思わせながらも淡麗で、世の中の穢れを知らないような純粋な佇まいを見せていた。初対面であるはずなのに気さくに話しかけられたことにいつしか警戒していた。
「貴方様は白露の国へ一体何をしに?」
ゆっくりと歩を進め、彼女の横で見慣れた海を並んで見ると、尋ねられる。
「祭りを……見に」
「うふふっ、この時期になりますと、遠路はるばる旅行される方もいらっしゃいますから、貴方様もそうなのでしょう」
少女の姿は私とほぼ同年代に見えるはずなのに、その言葉使いは私よりもずっと流麗で、ずっと大人びているように思えた。
「私もそうなのです。一人で、あの大祭りに」
「家族と一緒ではなかったのか……」
「両親は私が幼い頃に亡くなりまして、身寄りのない私は拾われて捨てられることを繰り返すさなかであります」
思いもよらない事実に同情しつつも、己の罪深さを思い知る。しかし彼女はなんとも思っていないような、それどころか喜んでいるような素振りであった。
「白露でも拾ってくれる人を探しに?」
「うふふっ、貴方様は私の考えていることを見透かしてしまうのですね。その通りです」
「捨てられて辛くないのか?」
「私は捨てられるために拾われるのです。運命の出会いを果たすために」
私には彼女の言葉を理解しつつも、納得することが出来なかった。決してボロボロでは無い衣服の隙間からは包帯が映る。拾われ、傷つけられ、捨てられ、それでもまた拾われようとする。きっとこの少女は、私よりも穢れを知っているのかもしれない。知った上で、たった一つのきらめく宝石を手にしようとしていた。
「貴方様が私の運命の相手……であるならば、私の旅はここで終わります」
「他を当たってくれないか……多分、私は悪い奴だから」
「ならば、約束して頂けますか」
「約束?一体何を」
「実はこの旅を白露の国で最後にしたいと思っているのです。ですから、もしもまた貴方様にお会い出来たのであれば、その時は惨めな私を拾ってやっては頂けませんか」
「だから、私は悪い奴だって」
「善人と名乗る者に真の善人が居ないように、自らを悪人と卑下する者は真の悪人ではないのですよ。現に貴方様は、私の思いに静かに耳を傾けて下さいましたから」
その時になってようやく気づいた。彼女が身の上話をした時から、私のペースなんてとうに彼女の手中であったことに。私はそんな自分に呆れてため息をついた。それも彼女が驚く程に大きく。
「あまり期待しないで欲しい。私は人間の敵だから」
「それでも構いません。私は自死を拒む臆病者ですから、貴方様が私を嫌いになってしまったならば、その時は存分に私を痛めつけて殺してください」
私を見つめる彼女の目は胸の内を見透かしているようだったが、そんな目を見ていると深淵を覗いている気分になり、自分から叫んでいるような気がした。
それからいくつの言葉を交わしたのだろうか、気づけば船内の一室のベッドで天井を見つめ、名も知らぬ少女との約束のことを忘れ去ろうと奮闘していた。それでも一向に頭から離れることは無く苛立ちに歯を削っていた。
我欲のために王になりたいと願ったことは無いが、なりたくないと願ったのはこれが初めてだった。あの少女のことが気になって気になって、余計謎めいた存在に思えてしまった。
船の揺れが治まり、花火がそこかしこから弾けだす。部屋の外から賑やかな声が動き始め、それにつられて外へ出ると、大衆でごった返す港町がそこには広がっていた。私もその一部になるべく船を降りると、気づけば彼女のことを探していた。
屋台が多く並び、食欲をそそる香りが誘惑する。玉乗りをしながら口から火を吹き観客から歓声を浴びる大道芸人や、人間を一瞬にしてその場から消し去り別のところで再登場させるマジックショーなどが白露の玄関口にて大変賑わっていた。そんな中を一人歩いていると、周囲から少し頭が飛び出し、薄手のジャケットに身を包み、銀白色の三叉槍を携えた見覚えのある背中が少し前を歩いていた。
「リヒト!」
そう名前を呼ぶと、目的の人物はすぐさま足を止めて振り返った。
「あ……兄、貴……?」
あまり予想外の登場ではなかったようで、驚きよりも疑心に溢れたかのようななりでゆっくりと私へ近づいてくる。人混みをかき分け、リヒトの顔が細かいところまではっきりと見えてくる。深く刻まれたクマ、開ききった瞳孔、一切整えられていない髪……以前より僅かにやつれた印象を受けた。
「なんで兄貴がここに……いや、そうか、お前名倉家の人間だもんな、招待状が来てもおかしくはねぇか」
リヒトはそんな自問自答の末懐から封筒を取り出す。私がミーアから受け取った封筒と全く同じだった。
「俺もコレだ。気が進まねぇが来るしか無かったんだ」
封筒をくしゃりと握りつぶし、ジャケットのポケットに戻す。ずっと何かを見下ろしたように俯くその先を見てみると、以前会った時と比べて明らかに足りないものがあった。
「アルカルテはどうしたんだ?」
その時、リヒトの口からガリっと削れるような音が聞こえてきた。地雷でも踏んでしまったのかと恐る恐る目を向けると、身震いさせてしまうほどの射殺しそうな視線で睨んでいた。すぐに撤回の言葉を口にしようとした途端、金縛りのような力が働いて声が出せずにいた。
「今はそのことは考えたくねぇ。この華々しい祭りも今となっては忌々しいんだ」
「そう、なのか。でも私は知り合いがいてなんか安心したよ」
「……わりぃ、今の俺は兄貴みたいに笑える気がしねぇんだ」
話題を変えようと思っても、どうしても結びついてしまうのか、いくら感情の起伏を誘ってもリヒトは沈んだまま浮上することはなかった。
「なぁ、兄貴」
花火が上がり、大道芸人にお捻りが投げられ、屋台で張り切る声がする中、ただ一人リヒトは弱々しく静かに私を呼んだ。
「どうしたんだ」
「兄貴はなんのために王になりに来たんだ。ここにいる以上、そうなんだろう?」
リヒトには私が魔族と繋がっていることを伝えたことがない。ましてや人前でそのことを話してしまうと、信用の失墜は愚か、この場で刺されることも十分に有り得た。それがとても怖くて本当の理由は話せなかった。
「王になれば世界機関に近づけるかもしれないから、かな」
「……楓に何か吹き込まれたな」
「私の両親は世界機関に殺されたらしい」
「……そうだったのか」
リヒトはどこか虚ろげな表情で私の横を歩き、話を聞きとめているのか流しているのか定かでない返事をする。初めは興味がなさそうだと感じていたが、段々と青くなっていく表情にどこか後ろめたさがあるのではないかと思ってしまっていた。また、リヒトが名倉家を監視したい理由がここにあるのかもしれないと思い始めていた。
悩みの種が増えたところで、王城を囲む白い壁が目の前に現れた。中へと続く門は固く閉ざされ、資格の無いものがその場で帰らされる姿が多く見られ、強引に入ろうとしたものはどこかへ連行されてしまう。確かに持った招待状を手に、私とリヒトは長い列につく。祭りの本会場は、この先らしかった。