夜明けと共に静まる波を失った街
「私の……娘……?」
灯織のすすり泣く声を聞きながら、今朝方にも聞いた私の娘のことについて記憶を探る。
灯織と凪咲の元から命からがら逃げ出してからエルピスに出会うまでの間に、切り取られたかのような記憶の空白が生じている。その日までの間に私は何をしていたのかすら思い出せない。
「そうだよ、君の娘、名前は……アリスだったかアルスだったか……でももうどうでもいいや」
「どうでも良くないだろ!凪咲が何かされたんだろ!?」
「自分のことより凪咲ちゃんの心配するなんて……伊黎君は私より凪咲ちゃんのことが好きなのかな……」
「それは……分からないけど……」
「それもそっか……今の君は私のこと嫌いだもんね」
灯織は諦め口調で自嘲しながら力なく笑う。そこに人一人を吐血させるまでの力があったことが幻であったかのように、首の後ろに回された手がするりと抜けて地面に向けて垂れてしまった。
「ねぇ、伊黎君……助けてよ……もう私には君しかいないの、この街には私と君だけしかいないの!」
その言葉はどれも切実で、段々と潤みを帯び、今にもこぼしてしまいそうな程に涙を貯めていた。
「なんでなんだよ……大人はいないのかよ、なんで私達だけなんだよ!」
先程と全く同じ問いを改めてすると、灯織は先程私にぶつけた手を広げ、その平を見せる。それまでは暗闇の中で全く見えていなかったが、ほんの僅かな月明かりの元で彼女の両手を見てみると、手首から指先までもが切り傷や擦り傷だらけで、黒い痣が散見し、黒ずんだ血で汚されていた。
「私が全部、ぜーんぶ壊しちゃったんだよ……!」
彼女は自らの行いを悔いもせず、誇らしげに笑う。その目は常人のそれではなく、狂気に満ち溢れ、私をその狂気の中に引きずり込もうとしていた。
「この街ぜーんぶ!人も建物も道路も土地もぜーんぶ!ねぇ、ねぇ!私ってすごいでしょ!?褒めてよ!昔みたいにいっぱい褒めて!全部君のためにやったんだよ?だからね、ねぇ!!」
彼女が事を成し遂げた子供のようにご褒美をせびる。私の足りない知恵ではそんな彼女を正常に戻す方法や言葉など思いつかず、力で訴えかけた。互いの息が当たってしまう程に近づいた彼女の頬を力強く叩き、音を無人街に響かせた。
「お前どうかしてるよ!全部私のためだって?こんなことしてなんの得があるんだよ!私の家まで変えちまってさ!それにこの街の人みんな壊したって、殺したってことだよな……それなのに褒めろだ?馬鹿馬鹿しい!」
思ったことを言葉を考えずそのまま口にすると、彼女は叩かれた頬を抑えながら貯めていた涙を弾けさせる。
「みんなそうだよ!!私はただ言われた通りのことをしただけなのに!それが喜んでもらえることだと思ってやっただけなのに!必死になって伊黎君を探したっていうのに……!なんで?君を幸せにしたくてしたのに、君に喜んで欲しくてしたのに!」
彼女の言葉に怒気が混じり始める。それに伴って声も街中に響く。寒空の下、月が雲に隠れては微かな光すら届かなくなり、この街を照らすのは切れかけている電灯だけだった。
「君の娘に、日が暮れるまでに君を見つけ出せたら凪咲ちゃんを返すって持ちかけられたんだよ」
月明かりが隠れ、暗みが増したところで彼女はようやく落ち着きを取り戻し、手を強く握りながら語り始める。笑ったと思えば一喝すると怒り始め、今はその怒りを自ら押さえ込みながら冷静を装っている。この感情の不安定さには私の情緒の安定も狂わせそうだった。
「必死になって探したんだ。この街は狭いけど、建物はやたら多いから……」
「ちょっと待て、凪咲を返すって……?」
「あの子に連れ攫われたんだよ。必要な人材なんだって」
「抵抗しなかったのか?」
「もちろん私はしたよ!でもね……凪咲ちゃんはニッコリ笑ってたんだ」
彼女の悔しみに涙する姿に返す言葉が思いつかず、目の前の事実から目をそらすことしか出来なかった。
「私じゃあの子には敵わない。君を見つけだすことを条件に返すことを約束されたけど、もちろん見つけられるはずがなかった。だって君は私の前から去ったんだもんね」
「そんなこと、私に言われたって知ったこっちゃない……」
「それでも私は!……君を見つけたくて、凪咲ちゃんを取り戻したくて……この街の全てを壊したんだ……」
灯織はそう言って自らの傷だらけになった素手を見つめ、傷口に雫を落とす。落ちてくる雫が段々と大粒になり、染みていく両手の震えが目に見え始めてきた。
「ねぇ……返してよ……あの時の幸せな時間を……三人で笑い合える場所を……私の居場所を……返してよ!!」
そう怒りを爆発させながら私の胸ぐらをつかみ揺さぶる。焦点の定まっていない目は私を見ているようで見ていない。まるで凪咲を連れ去った犯人を重ね合わせているような、やり場のない怒りを私にぶつけているようだった。
「ねぇ、助けて伊黎君……私を可哀想だと思ってさ、慰めてよ……励ましてよ、一緒にいてよ……お願いだから……もうどこにも行かないで……もう独りにしないで……今朝のこと謝るから……だから、だから……!」
彼女の必死の懇願に、私は目を伏せ首を横に振って応える。灯織は目を大きく見開き、眼球を揺らした。
「なんで……なんで……?」
「決して今朝のことを怒ってるわけじゃないんだ」
「なら!」
「でも、私にはやることがある。戻ってきたのはたまたま通り道だっただけだからなんだ」
「それなら私も連れてってよ……!いいでしょ……?」
「……来ないでくれ、灯織まで巻き込みたくない」
今となっては大昔のように感じるあの時のように彼女に背を向け歩き始めると、執拗に灯織は私の袖を掴んで引き止める。微かにだが力の抜けた笑い声が聞こえてきていた。
「ははは……カッコつけてるつもりなのかな……でもそんな伊黎君もカッコイイよ」
「おだてたって連れていく訳にはいかないんだ」
「どうして……」
どんなに表向きに当たり障りのないことを話しても、何もかも諦めたかのような彼女を引き離すには及ばないだろう。そんな中、隠し事などをする必要もなくなり、大きくため息をつき、目の前にいる灯織を注視する。今までと全く違う空気感を察知したのか、彼女は半歩後ずさって強ばらせた。
「私は魔族と同盟を組んだ。だからこれからは敵同士になるかもしれない」
「嘘……嘘だよ……嘘だと言ってよ、小さかった頃一緒に学んだよね!魔族は人間を虐殺した極悪非道な種族だって!伊黎君はそんな奴らに手を貸すの?」
「幻想種同士の争いの中で人間が介入した時も、龍は人間を喰ったという噂を真に受けて龍を滅ぼしたじゃないか」
「え……そうなの……?」
「そうだよ」
驚嘆しながら私から距離を取り始めると突然彼女の背後から、聞き覚えのある少年の声が聞こえてくる。この街には他に人がいないはずと思ってか、吃驚な声をあげて後ろを振り向く。街灯の灯りで翡翠色の髪色を放つレイカがそこに立っていた。彼の目は灯織ではなく、その奥にいる私に向けられていた。
「さっきからお話が聞こえてきてるから来てみたんだけど……龍の話し、聞きたい?僕ならいくらでも話せるよ」
「君は……誰……?なんでこの街に」
「僕はね、最後の龍にして元人間、レイカって名前だよ。今は訳あって君の後ろにいる人と一緒に居るんだ」
「最後の龍……?元人間……?訳分からないよ!伊黎君もなんとか言ってよ、こんなの夢物語だよ!だって龍は」
「十年前に絶滅した。人間の手によってね、それで僕は死んだ龍の血を浴びて龍になったんだ」
灯織は目の前にいるレイカからも距離を取り、挟まれる状態となっていた彼女は十字路の真ん中へと飛び出し、頭を抱えて震え始める。その光景をレイカと共に見ていると、なにかに怯えて塞ぎ込んでいるように見えた。
震えながら何かをブツブツと唱えているようだが、声が耳に届く前にノイズとなって風の音でかき消されてしまう。しかし、今まで教えこまれた常識が一瞬にして否定され、彼女の中で混乱が起きていることは間違いなさそうだった。
「ご主人様、外寒いからお家入ろう?あの二人もう寝ちゃったよ」
そこまで長い時間拘束されていたとは思わず月を見上げようと空を見る。朧月も見えないほどに厚い雲で空は覆い尽くされ、星を見ることも出来なかった。
「明日の朝もご飯は食べられそうにないな」
「そっか……それは残念」
グルグルと音を立てて主張する彼の腹に謝意を込めながら言って、すぐ隣にある自宅へ帰ろうと歩き始めると、ふと気になって後ろを振り向く。目に飛び込んできたのは、先程までそこにいたはずの灯織の姿が消えた十字路だった。人間たちの描いた理想と、現実との格差に耐えきれず逃げ出したのか、これまでのやり取り全てが幻のような気がしていた。
「……居なくなってるね」
「帰ろう、明日また背中に乗せてね」
「うん!僕に任せて」
家に帰る頃にはもう灯織のことは頭から離れ、空腹ながらも寝息を立てている二人に毛布をかけ、特にアルプスに風邪をひかせないよう布団を使わせて四人横に並んで眠りについた。思いのほか空腹でも眠りにつけるのか、意識は簡単に手放され、気づけば瞼は重く閉ざされていた。
「あーあ、壊れちゃった。でもこれで、扱いやすくなるね、誰かさんと同じで」