存在、消滅
空気の中で溺死する。今の二人の前で生命の常識は通じない。体が、重く、沈む。空気に押し潰される。地面と同化してしまいそうな程に張り付いている。もうこの意識のある所が自分の体中なのかすらも分からない。実はもう地獄に落ちているのかもしれない。その中でも唯一感じられる感覚は、苦しみの中で、更に自分を苦しめるかのように、首を締め付ける自分の手。
「おや、もがいているつもりなのでしょうか。私はご主人様とは違って慈悲はありません」
真っ暗に閉ざされた意識の中で司書の声が響き渡る。私は、アルプスは、無慈悲に沈められる。私の背中を守っていたエルピスの声も届かない深い闇の中、冷酷な彼女の声だけが荒れる吹雪のように意識の中で纏わり付く。
「『生きたい』ですか。自らの命を容易く投げ出すような貴方がよくもその言葉を口にできるものですね。心底呆れてしまいます」
本能と理性が切り離されていた体が、生命本能に従い、命乞いをしていたようだ。私の言葉を復唱し、自らの見解を口にする司書の言葉が、意識の中の私は到底理解できなかった。何より、命を投げ出した覚えがないからだ。
「ええ、理解できないでしょう。未来の話ですから。お忘れですか?私は未来を視ることが出来るのです。近い将来、貴方は赤の他人の為にその命を投げ出すのです。そんなことをするのであれば、あなたの為にも、その相手のためにも、ここで果てた方がいいのでは無いでしょうか?貴方が今ここで死ねば、出会うことはないのですから」
神様から貰った命を容易く投げ出す……そんなことをするなんて到底考えられない。きっとこれは命を手放させるための、抵抗を諦めさせるための戯言だ。そうだ、そうに違いない。それなのに何故だ。首を押さえていた両手が離され、苦しみの中で、楽になり始めている。
「ええ、それでいいのです。貴方の妹も既に息絶えました。いつまで抗うのですか?近いうちに自殺するとしても、それまで生きたいとでも言うのですか?」
この体は既に私の意思では動かせない。それなのに、ほんの僅かな力が流れ、指先だけが微かに動いている。
「まだ、抗うつもりなのですか、苦しみ続けるだけだと言うのに。貴方を守る者も死んでしまったと言うのに。それでも生きたいと言うのですか。ならば、見せてください。力を、情報を得るに値する、存在の血族としての力を、最後の抵抗を」
一体、この指先がどのように動いているのか、体と意識が切り離された今の私では到底分からない。それでも、死に抗おうと動いている。
中指が私のものでは無い別の肌に触れた瞬間、静流と化していた力の流れが、血の流れが、ゆっくりと胎動を始める。動きはそれだけにとどまらず、口も動くようになり、その力の名を意識の外で声にする。
「存在……消滅……!」
その瞬間、切り離されていた意識が元の体に戻り、ようやく自らの意思で自分を動かせるようになった。そうして光を取り戻し、溺れる苦しみから開放された瞬間、ここが世界図書館の中ではないと気づく。ここは、私が消滅させたモノの全てが一切整理もされずに放置される場所、消滅世界だった。
私のものでは無い誰かの咳き込む音で脳が覚醒する。
そこは太陽もなければ光もない、されど真っ白な世界。視界の奥の奥に点として存在する翼の生えた死屍累々からは臭いなどしない。この世界は、私が消したもの全てが詰め込まれていた。
隣で延々と咳き込む少女を抱き上げ、窒息から蘇らせようと背中を擦る。擦り続けるうちにアルプスは少しずつ落ち着きを取り戻し、うっすらと目を開いてこの消滅世界の一点を見つめた。
「お兄……どこ……?」
首を動かす余力もなければ、すぐ隣に求める物がある事にも気づかない彼女に目を見張り、すぐさまアルプスの目の前へ体を動かし、両頬を挟んで目を合わせる。
「アルプス!アルプス!!私はここだ!大丈夫か!?」
安定した呼吸は取り戻したものの、顔色は悪く、僅かに衰弱している。光の無い目からは雫がきらりと輝きながらこぼれ落ちる。彼女の震えた手が弱々しく私の手に触れた時、少女の目はようやく私を捉え、ほんのりと笑った。
「よかっ……た……お兄、居てくれた……!」
大粒の涙を流しながら、完全に調子を取り戻したアルプスは、その喜びのあまり私に飛びつき、勢い余ってそのまま白い壁に倒れ込む。
ある程度私の感触に満足したのか、自ら起き上がり、膝丈のスカートについた埃を振り払うと、ようやくこの世界が別の場所であることに気づいた。
「すごい……図書館より真っ白……!お兄が連れてきてくれたの!?」
本ばかりだった向こう側とは打って変わって、あまり目立つものがないここに彼女ははしゃぎながら遠くに見えるものを肉眼で見ようと目を細めながら、この世界を世界の中心で見渡す。
「あぁ、ここは私が消したものが集まる場所なんだ」
この答えはあまりに受け入れ難い事実のようで、アルプスは反射的に体を強ばらせ、顔を青ざめながらその場でうずくまってしまう。
「ということは……私はお兄に消されたってこと……?もう戻れないの……?嫌だ……もうミーアさんに会えなくなるなんて嫌だ……!」
「大丈夫だって!戻れるから!だから泣かないで」
感情の起伏が激しい彼女は宥めることも容易く、ほんの少しだけ手を差し伸べるだけで何事も無かったかのように、嘘泣きだったのかと思わせるように、目をキラキラと輝かせて寄り縋ってくる。
「本当!?戻れるの?なら今すぐ帰して!」
「その前に、ひとつ聞きたいことがあるんだ」
最高潮に達した喜びも、この一言で無へと化してしまった。すぐに帰れないと知ってからは、あからさまに不貞腐れた顔を向け、悪態をつきながらも聞く耳は持ってくれていた。
「ここに来た瞬間、急に苦しくなくならなったか?」
「え?うん、なんで?」
「いやね、私の力は物質の状態をそのままにしてここへ飛ばす。いわば元の世界から消滅させる力なんだ。だから、普通ならアラリカの力で息を詰まらせたまま、ここに飛ばされないとおかしいんだよ」
「ごめんお兄、難しい話はあんまりわかんない。もっと分かりやすく!」
そこまで難しい話をしているつもりはないのだが、自らの疑問を晴らすためには、自己満足のためにより噛み砕いて説明する他なかった。
「えっと……私とアルプスは、息が苦しいーってなったまま、図書館からこっちの世界に来た。ここはわかるね?」
「うん」
「アラリカは直接私たちの首を絞めてないから、本当なら苦しいーってなったまま、ここにいるんだよ」
「でも今苦しくないよ?」
「そう。私が知りたいのはそれなんだよ」
自ら疑問にたどり着かせ、考えさせるも、その後数秒足らずで頭がパンクしてしまったようで、すぐに思考を止めてしまう。考えるのをやめたアルプスは、『そんなことより』と言わんばかりに私の服をつかみ、力強く前後に揺らし始める。余程帰りたいらしい。
「もうそんなこと考えても無駄!あの人に聞いて!早く帰ろうよ!」
「あぁもうわかったよ!存在消滅!」
このモヤモヤが一切解決しないまま、消滅世界から図書館内へと戻る。二人並んで司書の前にたった時、すぐ後ろではエルピスが息を整えている最中で、目の前のヴィオリとアラリカは少し驚いた表情で固まっていた。
「まさか……自力で解くなんて」
「これはこれは……君たちには謝らなくてはならないみたいだ……いやぁ、本当にすまない。この通り」
ヴィオリは調子を崩さず、潔く深々と頭を下げる。アラリカはすぐには下げなかったものの、私たち兄妹の現状を目の当たりにし、渋々頭を軽く下げた。
普通ならここで背中の剣を抜き、今すぐにでも斬りかかってもおかしくはないのだが、どうにもその気が微塵も湧き上がらない。怒ろうと自らを鼓舞しようとする気力も、許さないと思う気持ちも、二人に対する嫌悪の感情が全て抑制されてしまう。そんな中で私たちは、許すという選択肢しかなかった。
「もうそれはいいんだ。それよりアラリカ、君の力について少し聞きたいんだ」
「私の力、ですか……貴方達兄妹を苦しめた力のことでしょうか」
「そうだ。私が存在の血族としての力を使った瞬間、息ができるようになったんだ。あの力は、アラリカが自分の意思で解除できるものなのか?」
彼女は少し考え、アルプスを一瞥してから私の方を向いた。
「いえ、あれは呼吸不可の状態にさせる力です。状態異常の能力は本人の力ではどうすることも出来ず、何らかの外部干渉がなければ解除できない、とても不便な力なのです」
「だからヴィオリよりも君が驚いていたのか」
「ええ、存在消滅は貴方の力で、物質をその場から消し去る力だと見受けられます。だとすると、私の呼吸不可の力を解除したのはおそらくですが」
見えない物と戦っていたエルピスが置いてきぼりになってしまっている中で、私を含め三人の視線がアルプスに集まる。釣られてエルピスもアルプスを見つめるも、彼女らはお互いなんのことなのかサッパリで、首を傾げて笑いあっていた。
「えっと…話の流れから汲み取るに、アルプスちゃんがラクイラさんを助けたということですか?」
それが共通認識で間違いないと頷くも、たった一人だけ、アルプスだけがわけも分からず、理解出来ずに疑問符を浮かべていた。
「僕からも一つ不思議なことがあるんだよね……」
「エルピスさんにだけ見えて、この兄妹には見えなかったことですか」
「結局あれはなんだったのですか?ラクイラさんだけを執拗に狙っていましたが」
「あれは忠実なる無幻の騎士団と言って、僕に与えられた力でね、ある特徴を持った生物にしか視認できない魂を使役するんだ」
そう言って彼は先程と同様に手を二度叩き、何かを呼び出す。私とアルプスは何が現れたのか全く分からぬまま、彼の周りを視線を泳がせる。エルピスは、先程のような警戒は全くせず、彼の空いている左隣を凝視していた。
「……やっぱりエルピスさんだけか……」
「もしかして、その特徴って」
「そう、存在の血族、あとはもう一方の者だね。でも、アラリカの前で見せた通り、君たち二人は間違いなく該当者だ。それなのに見えない理由、これは憶測に過ぎないのだけれど、君たち兄妹の力はまだ完全に目覚めきっていない、特にアルプスさん」
「私?」
「現にアルプスさんはアラリカの呼吸不可を解除した自覚がないのでしょう?つまりはまだ自分がどんな力を持っているのかすら分からないということなんだ。問題は……ラクイラさん、貴方ですよ」
アルプスとは違って私はもう既に存在消滅という力に目覚め、自覚している。それなのに、ヴィオリの忠実なる無幻の騎士団を見ることが叶わなかった。これがどういうことなのか、自分でも分からない。存在消滅は存在の血族としての力では無いとでも言うのだろうか。
「存在消滅とはまた別の血族としての力があるとでも……?」
「そこまでは僕にも分からない。そうかもしれないし、存在消滅は前段階のものなのかもしれない。いずれにせよ、君たち兄妹はまだ目覚めきっていないことに変わりはないんだ」
ヴィオリはここに来て初めて私たちに背中を向け、本棚の迷路へと入っていく。
彼の意図が汲み取れず、棒立ちしていると、本棚から顔をのぞかせた彼が手招きをする。
「おいでおいで、君たちが知りたい情報、存在の血族についての文献がある場所へ案内するよ」