ティナ・アルプスという名の少女
「私が……この子の兄……?」
成長期真っ只中であろう、私の腹部に頭頂を置く低身長の少女が、大切なものを思い出したかのような、幸福に満ちた涙を流し、自らの頭の上に置いた私の手を抑えては離そうとしない。
振りほどこうとしても、結果的にそれは少女の頭を撫でてしまうことになり、ただ幸せを与えるだけだった。
「いや、まさか、そんなはずは……だって私は、家族は一人も……親の顔だって知らないのに、妹だなんて」
最後の記憶はとある一軒家で一人で暮らしていた場面。そこには幼馴染を名乗る灯織や凪咲もいなければ、この少女の姿もなかった。路地裏での記憶なんて……
「……人間、ティナ・アルプスという名の人間に憶えはあるか?」
「ティナ……アルプス……?いいや、初めて聞いた名前だ」
目の前にいる少女と、自らの記憶と、ミーアが言ったティナ・アルプスという人物が一度に頭の中で入り交じり、混乱を招く。全ての分からないに一度首を横に振ると、少女は懐疑の眼でこちらを見上げ、服を強く掴み、少しでも顔を近づけようと引っ張り始めた。
「嘘だよね!?私とお兄を助けてくれた人なんだよ!?ご飯をくれた人なんだよ!?私のことも……ティナさんのことも……忘れちゃったの?」
「ごめん、何も分からないんだ。君のことも、ティナって人のことも……」
「ティナ・アルプス……ですか」
先程の喜びが一転して慨嘆している少女に困惑する中、何かを考え込んでいたエルピスが突然口を開いた。翼族である彼女が何年か人間領で生活していた中で、風の噂か何かでその話を聞いたのかもしれないと、淡い期待を寄せていた。
「私が人間領に降りて間もない頃でしょうか、とある噂が流れていたのです。死神は実在するという噂が」
生命の神がいるのだから、対をなす死神がいてもなんらおかしくは無い。とは思いつつも、それは私が神様から命をもらい、今や身近な存在となってしまっているのだからそう思えてしまうのであって、神の信仰が根付いていない一般常識からすると、「神」というものは抽象的なもので、実在しない、目に見えないものだとされているのだから、大々的に噂となってしまうのだろう。
「初めは無差別大量殺人犯の俗称だという話もありましたが、どうもそうではないらしく、実際は、自殺志願者や事故などによって死にかけていた人を助け、その根源となった者を殺すという、救われた身としてはまさに『神』と崇めるべき人物だったそうなんです」
「それが……ティナ・アルプスだということか」
神様がいつぞやに言っていたような気がする。人は日頃、神を信じず、自らが都合のいい時にだけ神を崇め、自らの行いを悔いる時に初めて神に懺悔する。人間の中での神は、都合のいい道具に成り下がってしまったのだと。
「そうです。ティナさんの素性は未だ掴めず、人間かどうかすらも分からず、まだどこかで死神として活動していると怯える者もいます」
「そんな人に……私とこの子は救われたのか……?」
「恐らく、噂通りであるならば、事故で死にかけていたか、もしくは行き倒れていたお二人を、完全なる善意で助けたのでしょう」
エルピスがそう言い終えて少女に目を向けると、私の服に顔を埋め、服を掴む手から震えが感じられた。僅かに離れたところでも少女の異変を感じたミーアがベッドから立ち上がり、暗い表情を持って扉際に立つ私たちに近づいてきた。
「その子の名前、まだ教えていなかったな。今では後悔しているかもしれないが、本人たっての希望でつけた名だ」
ミーアは少女の背中を見下ろし、歯を食いしばり、悔みを浮かべながら、その名を口にした。
「ティナ・アルプス……それがこの人間の名だ」
恩人であるが、残忍な人物の名を安易に自分の名にしてしまい、後悔していないはずがない。死にかけていた根源となる者を殺す。私とアルプスが捨て子だとしたならば、アルプスの矛先は私達の親となる。
ティナ・アルプスは、アルプスにとっての恩人であり、親殺しの仇となるやもしれない死神だ。
「だがこの名は魔族の間で通っている、ここだけの名前だ。こいつの本当の名は……」
「ミーアさん!!言わないで!!」
アルプスが掴む服にさらにシワが寄る。彼女の号哭に魔王が怯み、その場に一瞬の静寂が訪れる。ミーアはたじろぎながらも、アルプスの人間としての名を告げたいらしく、私と彼女の背中を視線を行ったり来たりさせていた。
「だが……お前は……」
「ティナさんが死神なら、私も死神になる……私も一緒に同じ罪を背負って、誰かの恩人になりたい!自分の名前を捨ててでも……!私は……死神になる……!」
アルプスの手の力が段々と弱まり、涙に濡れた顔で私を見上げる。決意と言うよりも、諦めからくる微笑みが、背中を見るミーアや、傍で見ているエルピスでなく、たった一人、私だけを震撼させた。
「だからね、お兄、私のことはティナって呼んで、アルプスって呼んで……ね?」
「アル……プス……」
「えへへ」
「それにしても驚きました。ラクイラさんに妹がいただなんて」
アルプスが満面の笑みを私に向ける中、エルピスが後ろで手を組ませながら彼女に優しく微笑みかける。柔らかな視線を感じたアルプスは、そんな艶美な彼女を初めて直視し、顔を赤く染めながら私を再び見上げた。
「綺麗なお姉さんだね……お兄のお嫁さんなの?」
エルピスが表情をそのままに顔がどんどん赤く染まり、熱でも出ていそうな程に湯気が見え始める。体がフラフラしだしたと思えば、苦笑いを浮かべながら目をぐるぐると回しながらその場に座り込んでしまった。
「わ、私が……ラクイラさんのお嫁さん……ち、違うけど、そうなりたくないわけではなく、でも、密接な関係になってしまうと申し訳なく思いますし……何より、ラクイラさんには伊倉さんがいるではありませんか!それなのにこんな私がお嫁さんを名乗るなんて恥知らずにも程がありますよ!」
そんな独り言をブツブツと一喜一憂しながら呟く彼女に、アルプスは首を傾げながらも、そんなエルピスに期待の眼差しを向けていた。
「お兄のお嫁さんになるなら、私のお姉ちゃんになるのかな」
悶々とするエルピスの中に電撃が走ったかのようにピタリと止まり、アルプスと視線をぶつけ合わせる。
「ラクイラさんのお嫁さんになれば、私が……アルプスちゃんの姉に……?私に妹ができるのですか!?はうぅ……」
彼女のキャパシティがオーバーしたのか、先程よりも目をぐるぐると回し、頭から湯気を出しながらも嬉しそうに倒れ込んでしまった。慌てて近づくと小さく「えへへ」と変態チックに笑っていた。
「お兄、この人の名前教えてくれる?」
「カルミア・エルピス、私はエルピスって呼んでる」
アルプスは「ふぅん」とあまり好的な反応は見せなかったものの、彼女のすぐそばでしゃがみこみ、耳元に手を添えながら
「エルピスさんの変態、へーんたい。すぐに赤くなっちゃうざぁこ、雑魚」
などと侮辱的な言葉を彼女に浴びせながら弄び始めた。しかしどうやら彼女には効くらしく、惚けた表情で体をクネクネと波のようにうねらせ、別の生物が勝手に動かしているような、騎士団長という肩書きからは考えられぬほどの挙動で、兄妹を困惑させていた。
「お兄、この人大丈夫?」
「アルプスがやったんだろ……」
エルピスにどんな言葉をかけても正気に戻る様子はなく、アルプスが囁こうとする度に、その声が脳内で変換されるのか、熱っぽい吐息で自らの意思では到底できそうにないほどに体を暴れさせていた。
「人間、一つ聞きたいことがある」
アルプスに言葉を遮られてから、ショックからか黙り込んでいたミーアが、腕を組み何かを考え込んでいる姿勢で横目で睨むようにこちらを見つめていた。
「貴様が本当にアルプスの兄であるのならば、ラクイラという名は偽名だな?」
「あー、言わなかったか……そうだよ。伊倉の名前を貰ったんだ」
「本当の名を聞かせてもらおうか」
別に本名を明かしたくないわけではない。しかし、自ら本名を口にすると、あの二人の姿が目に浮かび、彼女らの時間に拘束された時を思い出してしまう。それに、アルプスのように、本名よりも、ラクイラという神様から命と同時に貰ったこの名を身に刻むよう大切にしたかった。
「名倉伊黎……これが私の本名だ」
名乗ると同時にミーアは大きく溜息をつきながら頭を抱え、「そうか……」となにか残念そうに呟いた。アルプスと顔を見合わせると、アルプスは私の名前に不満もなく、私と共に首を傾げる。
「貴様の力を見てな、もしやと疑ったんだ……信じたくなかったさ……だが貴様の名を聞いて確信した。そしてこれはアルプスにも関係する話になる」
「私にも?」
「あぁ……人間、存在の血族は知っているか」