十年前、雨の降る街、魔王と少女と、りんご
この街に住んでいたはずの魔族も皆居なくなってしまっていた。否、殺されてしまった。麻袋を縫って作ったローブで顔を隠し、この街の衛兵から逃げながら人混みの中へと紛れ込む。
人間たちの間では私は悪い意味での有名人。指名手配犯、賞金首とも言えよう。魔族は多くの人間を殺し、略奪を繰り返していたとされ、魔族を殺すことが正義となり、その首謀者である私を捕らえようと、殺そうと、自らの肉体を鍛え切磋琢磨する者も居るそうな。人間たちの間で、正しい歴史など、機能していなかった。
私が過去に見ていた、人生を謳歌し合う人間と魔族の異種族交流の面影は全くなく、ここにあるのは、反魔族、反異種族の思想が深々と根付いてしまった人間だけの世界だった。
人と肩をぶつけ合わせてしまっては怒りを向けられるよりも前に足早に去り、人の流れに逆らい、逃げるようにごみ溜めの路地裏へと足を運び、その場で崩れるように座り込んだ。空から降る涙と、影に溜まった小さく浅い湖が布越しに当たり、肌に張り付く不快感と冷たさが全身に感じられるも、今はそんなことを気にしている余裕などなかった。
「おに……ぃ……?」
か細く、僅かに掠れた、弱々しい声が路地裏の奥の闇から空耳のように聞こえてくる。初めは風が運んだ声だろうと一息零し、汚らしい地面に座って体を休めていると、大通りから聞こえる幾多数多の水溜まりを踏み散らす音とは全く別の、地を這い、全身を引きずり、こちらへ音だけを頼りに近づいてくる、人の形はしているものの、街行く人々とは全く違う、清潔感の欠けらも無い、服もシミや虫食いだらけで、擦り傷だらけの人間の幼女が闇の中から姿を現した。
「くそっ、人間が居たか……!」
すぐさま立ち上がり、地に伏したままでこちらの姿を認識しようとしない人間へ手のひらを向け、堕落の魔王としての力を行使しようと力を集める。
たった一人の人間が声を上げれば、次々と別の人間が集団を作る。私はそうやって同胞が殺されていくのを何度も見てきた。その度に自身の無力さを痛感した。だから、この場で、たとえそれが子供でも、殺してしまおうと考えていた。
「オニィ……?帰ってきたの……?どこにいるの……?」
幼女は腕の力だけで闇の中から全身を引きずり出す。足はもう使い物にならない程に痣と傷と汚れでボロボロになり、今すぐにでも自重で折れてしまいそうな程に細い腕、極めつけには、開かれていない目で、『オニィ』とやらを探していた。
こんな人間を殺してしまって満足感を得られるのだろうか、家族を失った虚しさを、こいつの『オニィ』とやらに味わわせていいのだろうか。そんな私の良心が訴えかける中、魔王としての責任が、理想像が邪魔をする。たとえこいつが子供であろうと、いつか大人になり、魔族を殺すだろう。であるならば、今のうちに殺し、『オニィ』に虚しさに苛まれてもらおう、と。
「オニィ……お腹空いたよ……ご飯欲しいよ」
できない。力が上手く流し込めない。魔王としての責務と、こいつの境遇と板挟みになり、私に涙を流させる。
手先が震え、私に近づく人間から一歩ずつ下がることしか出来ない。私はこいつに怯えている。何故なのかは自分でも分からない。人一人殺すことの出来ない私が魔王でいいのかという羞恥から目を背けたい思いと、この人間に過去の自分を重ね合わせてしまうこの状況に、何が正しいことなのか分からなくなってしまっていた。
「雨……降ってるね」
私の足を掴もうと伸ばした手に涙が零れ落ち、人間が妙に嬉しそうな声色で言う。
「やっと……水、飲めるね」
その時から、いいや、きっともっと前から、私の力の流動が止まり、意味もなく幼女に手を向けているだけの滑稽な姿になっていた。
目も見えず、肌感覚も鈍っている幼女の元へゆっくりと歩き、倒れ伏しているそいつのすぐ手が届くところに座り込む。幼女は音を頼りにその小さな手で私の足に触れ、雨の中で満開に咲く花のように顔を輝かせて寄ってきた。
「おかえり……オニィ……早かったね……ちゃんと待ってたよ」
私が伸ばした足の上に頭を乗せて安心する人間に、すぐさま否定することができず、頬擦りする幼女に、私は容易く拘束されてしまった。
「いい子で待ってたから……イイコイイコして……?」
幼女に言われるがまま、差し出された頭に手を乗せ、ゆっくりと左右に揺さぶる。幼女の顔はさらに明るくなり、気づけば私の体の上に座り、身を預けて来た。
「オニィ……優しい……」
何故だ、何故言えない。「私はお前のオニィではない」。このたった一言が言い出せない。それどころか、私はこの人間の頭を撫で続けている。この分からないが私を狂わせていく。
「くそ……なんで私はこんなことをしているんだ……!」
体の上に乗った幼女を、私は抱きしめている。こいつを殺さねばならないのに、私は魔王なのに、こいつは我々の敵となる人間になるのに、自分で自分が分からなくなってしまっている。こんな気持ちは初めてだった。
「オ……ニィ……くる……しいよ……」
「はっ……!すまない」
「寂しかったの……?」
寂しい?そんなはずがない。城を持ち、たくさんの同胞に囲まれ、食べ物もある。毎日領地の発展を目の当たりにしているのに、寂しいはずがない。それなのに、胸の奥でなにかが引っかかっている感覚がする。私はそれを取り除こうと動いてる。もしやこれが、「寂しい」なのだろうか。
「かもしれないな」
そこへ、足に二つ、コツンコツンとなにかが転がって来ては当たった。丸く、赤い、手の中で収まらないほどに僅かに大きな果実、それを手に取り、幼女の前に差し出した。
「お腹すいているんだったな、ほら、食え」
幼女は弱々しく両手で赤い果実を手に取り、その皮の感触を肌を滑らせて確かめる。そして、不思議がっていた表情が一転、雨の中で雨雲越しに輝く太陽のように、パァっと明るく見せた。
「りんごだ……!オニィありがとう……!」
雨に濡れ、地を転がって着いた砂利をものともせず、目の前の幼女はそれを手で払い、限界まで口を開けてりんごを頬張る。シャリシャリと瑞々しく音を立てて食べるそれを見て、もう一つのりんごを手に取ってまじまじと見つめる。真っ赤に熟した丸い果実、中には白い果肉……私も食べようかと口を開けたが、やけに美味しそうに食べる幼女を目の当たりにし、どうしても食べてみたいとは思いつつも、せっかく二つあるのだから、こいつのオニィのために残してやろうとその場に置いた。
「オニィ、食べないの?」
目が見えなくとも、音でわかるのだろう。幼女は半分も食べ終えていないところで口を止め、尋ねてきた。そんな幼女の問いにすぐには答えず、足の上から下ろして立ち上がった。
「あぁ、じゃぁな」
「やだ、行かないでよ!りんご、オニィの分がないなら私のあげるから!」
「……そのりんごはお前が食べていいぞ」
「やだ!待って!行かないで!」
もう十分夢は見させた。私もようやく決心がついた。路地裏の入口で立ち止まり、雨の中、幼女に振り向いて現実を突きつけた。
「すまなかった、人間。私はお前のオニィでは無い。さらばだ」
幼女の号哭が路地裏から響き渡る中、私は魔王としての責任を果たすべく、捨てられた魔族の死体を回収し、供養し、城へと戻って行った。
数日後、私はまたあの街を歩いていた。追われる身としてではなく、自らあの路地裏に向かって歩いていた。今日もまた、雨が降っている。
「オニィ……オニィ……いつ帰ってくるの」
路地裏の入口に立つや否や、あの幼女が寂しく帰りを待ちわびている。自分では起き上がれず、あの時のように地面に伏したまま、自由に身動きが取れずにいた。あの時置いたりんごは、全く手がつけられておらず、もう腐ってしまっていた。
「あ……オニィ……帰ってきたの……?」
幼女の前で腰を下ろし、すぐ近くにあった腐ったりんごを端に追いやる。
「……私はお前のオニィでは無い」
「じゃぁ……誰……?」
相変わらずボロボロの肢体を酷使して私から離れようとするも、目も見えず、うつ伏せになったまま腕に力が入れられない状態で、動けるはずもなく、そのまま動こうとしては倒れることを繰り返すだけだった。
「数日前、お前にりんごをあげた者……と言えばわかるか?」
「え……だって……あれは……オニィだったよ」
「お前がそう勘違いしていただけだ」
「なら……オニィは……どこ……?」
幼女の声が段々と震え、閉ざされためから大粒の涙が流れ始める。見えていないとわかっていながらも、私は首を横に振る。
「さぁな……ここしばらく、帰ってきていないんだろう」
「……帰ってきたよ!!」
「そいつはりんごを食べたのか?」
「え、えっと……た、食べた……」
「私がここに来た時は腐ったりんごが置いてあったが?」
「それは……」
どうやら自分に嘘をつくのが精一杯のようで、言い返すことが出来ず、その場で小さく泣きわめく。ここに居続けては衛生的に問題しかないため、仕方なく拾おうと、ボロボロの肢体を抱き上げ、抱きしめる形を取って立ち上がった。
「ど、どこ連れていくの!?やだ!下ろして!オニィ助けて!!」
腕の中で暴れるも、足は機能せず、腕も力が入らずに、顔に当たっても軽くぶつかる程度の痛み、体を捻って解放を試みるも、全身の傷口から痛みが走ったのか、それも叶わず抵抗が終わってしまった。
「やだ!オニィが帰ってくるまでここにいるから!!」
「ここ数日帰ってきてないんだろう!?お前餓死する気か!」
「食べ物なら……自分で盗ってくる!」
「その使い物にならない足でどうやって動くんだ!」
「オニィは……絶対帰ってくるもん……」
「……お前も、オニィも、家がないんだろう?きっと誰かに拾われたんだよ」
「オニィが……さらわれた……?」
「そういう言い方もできてしまうな……」
否定しきれず、半ば肯定してしまうと、幼女は私の腕の中でまたも大粒の涙を流し始め、胸に顔を埋める。そんな幼女に気の利いた言葉をかけることができるはずもなく、ただこいつが安心できること、頭を撫でてやることしかできなかった。
「お前が死んでしまってはオニィも悲しむだろう。一つ提案なのだが、オニィが見つかるまで、私のところで暮らさないか」
「それって……私を誘拐するってこと……?」
「なぜそう悪い意味で捉えるのだ……お前を拾って、お前の親代わりになってやる」
「オニィが見つかったら……」
「当然、帰してやる。それまでは、私が面倒を見る。わかったか?」
幼女は小さく胸の中で頷き、腕が首の後ろに回される。ただ添えられるように触れる感覚で、支えがなければすぐに落ちてしまいそうなほどの、雀の涙程の力でしがみつかれる。道行く大人が赤子を抱き抱えている姿を真似て、幼女の尻のしたに腕を置き、振動で落とさないように頭にも手を添える。体に全体重を任せる形で幼女は私に身を預け、胸の中で体温を感じ、安らかな寝息を立て始めた。
「……すまない、少し寄り道をさせてくれ」
街を抜け、向かった先は……世界図書館。そこは世界中の全ての情報の原点が集い、管理している。三つある世界機関のうちの一つだ。
「ヴィオリ、いたら返事してくないか」
図書館の扉を抜けると、入口から唐突に始まる本棚の迷路、なぜこのような配置にしてしまったのかと心底呆れながら司書であるあの男の名を呼ぶ。
「いるよー司書机から動かないからゆっくり歩いてきていいよー」
能天気で流暢な男の声が奥から響き渡る。この時ほど翼が欲しいと思ったことはなく、フロアの中心にある司書机に向かって歩く。
本棚の迷路を抜け、円形のスペースに置かれた司書机に座って本を読んでいる男の前で立ち止まり、存在を気づかせようと机を軽く蹴る。
「おやおや、これはこれは、堕落の魔王様じゃありませんか、今日もまた戦争の本を借りに来たのかな?」
ヴィオリは人間の成りをしながらも、人間や私たち魔族とは無関係の存在。彼に限らず、世界機関に選ばれた人間は皆、外界との干渉が絶たれた生活を送ることとなってしまう。故に、私はこの人間に警戒する必要などなく、それどころかここの常連となっていた。
「いや、今日は違う」
肌を隠していたローブを脱ぎ、中で眠らせていた幼女を彼に見せる。姿を見せた途端、若干の軽蔑の目を向けられてしまった。
「いくら人間と魔族の関係が悪いからって人質は悪手だと思うよ?しかもこんな子供をだなんて」
「それくらい分かっている。誘拐ではない、捨て子だった所を拾ったんだ」
「……そういうことにしておこう……もしかしてだけど、その子の出生を知りたいのかな」
「その通りだ。頼めるか?」
ヴィオリはあからさまに大きくため息をこぼし、やれやれといった表情を向けた。
「確かに、個人情報を提供することもできるけど、この世界の生き物の情報ぜーんぶここで管理してるんだよ?人間や魔族はもちろん、ドラゴンや妖精、天使や悪魔といった幻想種、野生動物までもね!僕一人でやるのには面倒臭いんだよぉ!!」
「でも、頼まれたら断れないのだろう?」
「そうだよ!やるよ!!もう……個人情報特定するの本当に面倒臭いんだから……僕のことも考えてよ……本読みたいのに……」
冗談混じりに言ったのに対して、不貞腐れながらも机の引き出しの中から端末を取り出しては幾多のロックを外して画面をこちらに向ける。そこには、情報を入力する項目がいくつも表示されていた。
「これは?」
「他人の個人情報を知りたいのなら、まずは自分の最新情報を打ち込まないと明かせないんだよ」
「まぁ、なんら問題ない、素直に応じよう」
机の上で、ヴィオリの監視下で自分の名前、性別、年齢、血縁関係といった自分に関することを約二十項目にわたって入力し、端末を彼に返す。打ち込まれたものをじっくりと見渡し、改めて操作が行われた。
「嫌いなものは人間、か、相変わらずだね」
「あぁ、今この時も人間が同胞を殺していると思うと……憎たらしくてたまらん」
「でも、そんな魔王様が今や人間の子供について知りたがっているとは、何があったのかな」
「さっきも言ったのだが、こいつは捨て子でな、路地裏でオニィとやらと二人で過ごしてたようでな」
「オニィ……?あぁ、その子、兄がいるのか」
「何!?オニィって兄のことだったのか!?てっきりオニィという名の人間がいるのかと……」
兄妹というものを知らずに育ってきた私は「お兄」と言う呼び方を知らなかった。そんな些細なことに驚愕する私を見たヴィオリは手を止め、机を叩きながら一人で大笑いしていた。
「あっはっはっはっ!これは傑作だ!確かに、オニィって名前の人はいるかもしれないけど、大抵の場合は兄のことを指すんだよ!ほら、お兄ちゃんとか、お兄さんって言うだろう?そのお兄だよ!」
私たち以外に利用者がいないことをいいことに、一人で大笑いしながら腹を抑え、私の要件など蚊帳の外となってしまっているところで羞恥と怒りが入り交じり、幼女が私の胸の中で眠っているにも関わらず、机を勢いよく叩いてしまった。
「わ、笑いすぎだ!それよりも早く進めてくれないか!」
「だって……へっへっへっ、あまりにも意外すぎて……ダメだ、思い出すだけで笑っちゃうよ。ぷぷっハッハッハッげっほげほごほ」
「お、おい、大丈夫か?」
こういう時は背中を叩けば収まるのだと教わったが、近づこうとした時、ヴィオリに手のひらを向けられ、その場で制止させられてしまった。
「げっほげっほごぼっ」
「おい!ヴィオリ!」
「しーっ、静かにしてくれないか」
口を抑えていた手も、漏れ出て落ちた床も、彼の口から出た血によって赤く染められた。私が常連となった時に明かされた、病気によるものだった。
「あの子には気づかれたくないんだ」
「それって……あの天使族の?」
「そうだよ……僕はこのことについてアラリカに話すつもりはないんだ。だからあまり騒ぎ立てないでくれ」
「そ、そうか……すまなかった……」
「いいんだ……それより、その子の名前って分からないかな?」
「あーー……」
言われてみれば一度もこいつの名前を聞いていなかった。今は眠っているはずだが、この場で起こすこともできず、引き上げようとした時だった。
「名倉、紫代……それが私の名前……です」
「な……お前……起きていたのか」
「まぁこれだけ騒げば起きてしまうよね……っと、名倉紫代か……」
ヴィオリら神妙な面持ちをしながら端末と私の顔を交互に視線を送る。言いにくいものがあることはすぐに悟ることができた。
「すぅ……ごめんよミーアさん、その子には兄が一人いるということしか話せないんだ。どこの生まれとか、誰から生まれたのかは、残念ながら話せない。決まりだからね」
「そうか……兄の現在地は?」
「たとえ名前がわかったとしても調べるのは出来ないね……こればっかりは図書館じゃなくて、世界裁判所の管轄だから」
「なら……仕方ないな……世話になった」
「あぁちょっと待った」
大した成果を得ることができず、これ以上居座る理由もなく、帰ろうとしたところで呼び止められる。
「なんだ?」
「その子を魔族領に住まわせるのなら、人間の名前とは別の、魔族たちに受け入れてもらえるような名前を考えてあげた方がいいよ。その方が馴染みやすいだろうから」
「名前……か、わかった。感謝するよ」
「それじゃ、またのご来館をお待ちしております」
ヴィオリは椅子から立ち上がり、深深と頭を下げて私たちを見送る。入口に立ち、本棚の隙間から覗いてみると、私たちが出ていくまで、彼はずっと頭を下げていた。
「にしても……魔族向けの名前か……思ったよりパッと思いつかないものだな……」
「あの……魔王様……?」
「ん?あぁ、私のことはミーアでいい。それよりも、どうしたんだ?」
「私、大事な人の名前を忘れたくないから、その人と同じ名前にして欲しいの……」
「お前、もしかして」
「うん……お兄の名前、思い出せない……だから……私とお兄を一度助けてくれた別の人の名前を……」
「……わかった。その名前は?」
「ティナ……ティナ・アルプス」