夜道
煌々とした月が山並みを照らしていた。
遠くから狗の鳴く声がきこえる。星と月だけが、あぜ道に佇むわたしをじっと見ていた。
はて、何故わたしはこのような場所にいるのであろうか。
村長の家での会合の後、そのまま酒盛りが始まった以降の記憶がない。先程からひどく頭が痛いが、これは悪酔いするほど呑んだためであろうか。いやはや、酒には強い自信があったのだが。
そうこうしていると、びょう、と風が吹いた。
肌寒さを覚えたわたしは、今の格好がひどく薄着であることに気が付いた。未だ冬という程の寒さではないが、秋の夜は冷えるものである。このままでは凍死とまではいかないにしても、風邪をひいてしまうことは容易に想像できた。
うちに帰らねば。
そう思い、今わたしは村のどのあたりにいるのであろうかと辺りを見渡した。
知らない道である。
この村に生まれ育ち、そろそろ齢七十に差し掛かろうとしているわたし。そんなわたしが知らない道がそこにあった。前を向けど、来た道を振り返れども知らない道である。
酔った勢いで道を間違え、村の外に来てしまったかと思ったが、どうもそういうわけではないらしい。そもそもここらの村々の道はおおよそ熟知している。
仕方があるまい。わたしは来た道を戻ることにした。
幸いにも見える限りのそれはずぅっと一本道である。もしどこかで曲がれば水路か田んぼに落ちてしまうことであろう。どこまでも伸びる車の轍が、脇道が無いことを如実に示していた。
しばらく歩いていると、道脇に一人の男がいた。見たところ歳は五十ほどで、やせ細った身体をしている。月明かりの下でもわかるほど血色が悪い男である。
そんな不気味ななりの男が、なにやら悲し気な様相で座り込んでいる。近づいてみるとどうやらぶつぶつと独り言をつぶやいているようであった。
何をしているのかは見当もつかぬが、兎にも角にもひとである。ようやく道を聞く機会が訪れたのだ。
「すみません。この辺りはなんという場所なのですか」
わたしがそう声を掛けるも、男は一向に言葉を返さない。依然として座り込んだまま、ぶつぶつと独り言を呟いているばかりである。二、三度繰り返しても、何ら反応は帰ってこない。そもそもこちらに気づいてすらいない様子である。
わたしはしびれを切らし、男の肩に手を掛けた。
「なんだ、なにか答えてくれ」
そう言いかけた、その瞬間である。男はぎょろりとこちらの顔を覗き込み、次いで舐めるようにわたしの全身を見た。焦点の定まらない目が身体じゅうを這い回り、再び顔のあたりで止まる。男は見てわかるほどに慄きながら、震える口をゆっくりと開いた。
「お前もか!」
男はそう叫ぶと一目散に先の方へ駆けていった。呆気にとられるわたしを後目に、男はずんずん先へ進んでゆく。咄嗟に声が口をついて出た。
「待て!」
まだ道を聞いていない。ここは何処なのか、どうすればうちに帰れるのかを知れるまたとない機会なのである。
必死に追いかける。酒のせいか身体が妙に軽い。普段ならば到底出せないような速さで身体は前へ前へと進んでいった。しかし向こうもやせ細った身体からは考えられない速さで遠くへと進んでゆく。距離は一向に縮まらず、次第にだんだんと影が遠くなり、遂に見えなくなった。
影を見失ってからもしばらく追いかけていたが、やがて歩みは遅くなり、止まる。足は震え、息も絶え絶えである。全身が汗でびっしょりと濡れ、上気した身体から体温を奪いはじめていた。
去ってしまったものは仕方ない。再び来た道を戻るしかあるまい。そう自分に言い聞かせ、また元のようにあぜ道を歩き始めた。
そうして、先程の場所までたどり着いた。
ふと見ると、男が座り込んでいた辺りに何やら白い粒が落ちている。手に取ってよく見ると、どうやら錠剤のようだ。土にまみれ、とても飲めたものではない。とはいえ何かの手掛かりになるかもしれない。散らばっていたそれを拾い集め、ズボンのポケットにしまい込み、再び歩き始める。
……
…………
もう、随分歩いたであろうか。歩けど歩けど景色は変わらず、延々とあぜ道が続くばかりである。月の傾きだけが、時間が確実に進んでいることを伝えていた。
思い返せば、あの不気味な男以来誰にも会っていない。あの時きちんと話を聞けていればと、後悔が募るばかりである。一方不思議なことに、随分と歩いたはずであるが疲れは全くと言っていいほど感じない。喉も渇くことが無い。疲弊した精神と裏腹に、身体には活力が漲っているのである。
だんだんと、自らの状態すらも不気味に思えてきた。
一度休息をとろうと、あぜ道に腰を下ろした。上着を脱ぎ、汗をぬぐう。
ぼんやりと、水路の中を見つめた。
こんこんと流れる水。月明かりが反射する下では、暗くうねる水がどこまでも深く続いているように感じた。
ふと、違和感を覚える。ただ黒いだけではないような、なにか別の気味悪さをその水に感じたのだ。疲れているのだろうと頭を振り、ちらと上流の方を覗き見る。
そこには、わたしが居た。
水路のコンクリート、その角でざっくりと頭皮を切り裂かれ、おびただしい量の血を流し気絶している。血液はとくとくと水の中へ注ぎ込み、次の瞬間には流れに呑まれ消え去っていく。あまりに衝撃的な自分の姿にわたしは思わずあとずさり、驚きの声を上げる。座ったまま下がったために足がバタつき、危なく倒れそうになる。バランスをとるためについた手がぬるりとした感触を覚えた。今まで汗だと思っていたそれは、半ば血の混じった脳漿のようであった。よく見ればわたしの服は血に濡れ、月の光を反射してぬらぬらとした輝きを纏っている。
「――――――っ」
声にならない悲鳴を上げる。わたしは目の前が真っ暗になったような感覚に陥った。意識がすぅっと遠くなっていくのを感じる。
気を失う寸前、どこからかすすり泣く声がきこえた気がした。