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97. たいしたことじゃないわけでもない

「え、わたしは聞きたいんだけど。全然覚えてないから」


 そんな勢いで止めなくてもいいのに。


「せっかく覚えてないんだから、そのまま忘れてて欲しいんだよ!」


 ごまかそうとするのは諦めたらしく、勇が忘れていて欲しいときっぱり言った。


「え? 愛梨ちゃん、覚えてないの?」

「はい、全く」


 全然、全く、なんにも覚えていない。


「それは――」

「母さん!」

「確かに、忘れていて欲しいっていう気持ちはちょっとわかるけど……」


 おばさんが気の毒そうな顔になって、勇を見た。


 そんなに酷い話なの?


「でも、さっさと話しちゃった方がいいんじゃない? 勇は嫌かもしれないけど、ずいぶん前のことだし、案ずるより産むが易し、って言うでしょ。忘れても構わないから忘れたんじゃないの?」


 よかった。おばさんはそこまで大事おおごとだとは思っていないみたい。「うちは大助かり」って言ってたし、気にしてるのは勇だけなのかも。


 でも、勇はそうは捉えていなかったみたいで、そのまましばらく黙り込んだ。


「話したら?」


 おばさんにそう促された勇が、手を拳に握った。


「……愛梨、俺を誘拐しようとした人のことも忘れてたんだよ」


 ぼそぼそと話す。


「ああ――梨沙子さんもそう言ってたけど、それもずいぶん前の話だし、それがどうしたの?」

「きれいさっぱり忘れてるなんて知らなかったから、あの時のこと話してて、それでわかったんだよ。あれだって愛梨は忘れても構わないから忘れたんじゃない。覚えていられないくらい怖かったんだ。思い出したときだって、すごく震えてた。ああいうのは、嫌なんだよ」


 おばさんがわたしを見る。少し申し訳なさそうな顔だ。


「そうだったの。でもあれは本当に怖かったから、思い出したならショックを受けて当然だと思うわ。

 でも、この話はそんなに怖くないでしょ? ちょっとショックだってだけで」


 おばさんはあくまでもたいしたことじゃないって感じで言う。


「そうだけど、あれはあのおばさんのせいだったから。――でもこれは違う。これは、俺のせいだから。またあんなふうになるの、嫌なんだよ」


 勇はそう言って口を噤んでしまった。


 つまり、勇が何かして、わたしが怒って、勇が反省して、おばさんが助かった、っていう流れで、何があったのかを話したら、また嫌われそうだってことか。


「勇? お母さんに言わせれば、誘拐されかかったことや、ストーカーにうろつかれたことの方がずっと酷い話だし、愛梨ちゃんだってもう高校生なんだから、ちゃんと理解してくれると思う。

 ランジェリーショップに連れて行って欲しいなんて言われて、行けない理由を冷静に説明してくれるくらい落ちついていられる子なんだし。

 またあの時みたいに嫌われたくない、って思うのはわかるけど、ちゃんと話せばもっと仲良くなれることだってあるんだから、物事はいい方を見たほうがいいの。特にあなたはかなり悲観的だから」

「だけど――」


「話したくないなら、聞かなくていいよ?」


 悲壮な顔に、そう口を開いていた。


「大嫌いって言ったらしいことは悪かったなって思うし、なんでそんなことを言っちゃったのかなって思うけど、おばさんの様子だと、そんなにたいしたことじゃないみたいだし。

 勇が思い出さなくていいって言ってるんだから、わたしなりに理由はあったんでしょ? 嫌われたくない、って思ってくれてるならそれはそれで嬉しいし――今さら勇を嫌いになるとも思えないけど」


 それにどうしても知りたくなったら、うちの親に聞くっていう手がまだあるしね。


「あら、優しい。でも、本当にたいしたことじゃないのよ。女の子には昆虫標本とかだって恐怖だろうから、嫌いっていうのは当然だし。でもさすがに高校生にもなれば割り切れるようになるものでしょう? それに今はやってないんだし」


 そう言われた勇は返事をしなかった。


 うん?

 昆虫標本? ……それは、むしろ異世界あっちでエスカレートさせてる分野じゃないのかな? あ、虫はあんまりやってないって言ってたから標的は違ってるけど。


 あっちではついこの間、好き勝手に生き物を解剖しまくって狂・サイエンティストな生活を楽しんでいたことが判明したばかりだ。そして確かに、それを知った時の――つまりさっきまでのわたしはけっこう動揺してた。


 そんなことを考えながら幼馴染を見つめた。


 勇の中身は小さい時から基本的に変わってないと思う。おばさんが今はやっていないと思っているなら、実際のところがバレてショックが大きいのはわたしよりおばさんの方だと――思う。

 異世界のことをおばさんに説明したりはしないけど、勇が返事をしなかったことで、おばさんは訝しむ顔になっていた。


 これは、まずい。


 沈黙の中に、ご飯が炊けた電子音が響いた。


 とりあえず会話の方向を修正しよう。


「あ~。えっと、生物標本系の話なら、わたし今でも確かにあんまり得意じゃないし、え~っと、ほらご飯の前だし、まあ、この話は気が向いたらまたいつかってことで、今日はやめておくのはどうかな~」


 お茶のカップを置いて立ち上がると、おばさんも「そうね、確かにご飯に会う話題じゃないし」と、賛成してくれた。


 ふ~。回避成功。


 おばさんに言われるままに、レタスの上にポテトサラダを乗せたり、ヨーグルトの上にさっき買ってきたブルーベリーを乗せたり、勇も食器を出したり飲み物を準備したりして、夕食になった。


 ~~~~~~


 食後も仲良く三人で片づけて、二階の勇の部屋に行った。

 学年末テストが近いし、勉強もしないといけないので、取り敢えずうちの親が帰って来てわたしが家に帰れるようになるまで、何をやるか、教科書を見ながら考えるってことで。


「さっき、ありがと」


 またベッドに座った勇がぼそっと言った。


「いいよ、あのくらい。今もたいして変わってない、ってわかったら、おばさんのショックが大きそうだったから」


 そのくらい、なんでもない。

 でも、勇はなんでもないとは思えていなかったみたいで、じっとわたしを見てから口を開いた。


「愛梨は?」

「え?」

「俺が変わってないの、嫌じゃない?」


 窺うようにそっとこっちを見る。

 それは、まあ、いろいろあったし考えることもある。

 でも、それが勇だし?


「勇が生き物相手に何をやってるのかを考えろって言われたら嫌だけど、勇本人が嫌なわけじゃ……それにもう十年変わってないんだから、その趣味は変わらないんじゃないの? 目の前に突き出されなくなっただけはるかにマシ――」


 そう言ったところで、何かが引っ掛かった。


「……今なんか嫌な感じがした……これって自力で思い出せるやつかも」


 とっかかりがあれば、そういえば、ってなりそうだ。


「え!? ちょっと、待って、それ、俺の方に心の準備がいる」


 勇が立ち上がってうろうろしはじめた。


「落ちついてよ。自分で思い出せるくらいなら別にたいしたことじゃないはず――」

「でも、わざわざ『大嫌い』って言われたいやつはいないだろ? それ、思い出さない方向に持っていけないのか?」


 そんなに嫌なの?


 心情的にはもう思い出さなくてもいいんだけど、なんだか、そこまで出かかっているような気がする。


「今だろうが帰ってからだろうが、たぶん思い出すと思う。だったら思い出しちゃったほうがいいんじゃない? とりあえず思い出しても大嫌い、は言わないようにするし――むしろ、自分で話してくれるとか、どう?」


 そう言ってから両手を口に当ててみた。これで唐突に言葉が出ることはないと思う。そもそも大嫌いとか、そんな子どもみたいな台詞、十六歳にもなってそうは口にしないけど。

 

 勇は、話してはくれないらしい。またベッドにもどって座って、立ち上がって、座る。落ちつかないな、もう。

 ちょっとさっきの会話を考えた。何が気にかかって思い出しそうな感じがしたのかって、確か話していたのは、生き物相手にやってることを考えるのは嫌だけど、勇が嫌なわけじゃないってことと――十年変わってないんだから、もう変わらないってやつと――目の前に突き出されなくなっただけマシって――ああ、最後のこれっぽい。


「やっぱり思い出せそう――帰った方がいい? 目の前で思い出されるのが嫌なら、今なら家で考えるって手もあるかも。どっちにしても『嫌い』はたぶん言わないよ?」


 ちょっと心配になってそう聞いてみる。


「思い出したときに一人にするのが心配だからいい。あと、とりあえずこれ持ってて」


 なぜか枕を渡された。


「枕? これを持ってればいいの?」

「ぶつけられるなら柔らかいものの方が安全だから」


 ……ずいぶん物騒だけどまあ、いいか。


「ええと、勇に何を見せられたことがあったっけ? 虫、はたくさん見せられたし、思い出したくもないけど、そんなに……カタツムリ、カエル、蛇……は気持ち悪かったけど、別に今さら大嫌いなんていうようなものじゃないし。両生類や爬虫類の骨格標本はきれいだった……あれが哺乳類だったら怖かったかな……そう思うと元気だとはいえホント、シルバーやベルを見なくて済んで助かった……」


 そこで、またひっかかった――ベルの名前で。哺乳類。白い生き物のことが頭をかすめた。

 白くて小さな、かわいい生き物。勇がクリスマスプレゼントにもらったあれは、ハツカネズミだ。まだ(・・)動いてる――。


 ま・だ・動いてる。


「勇、やばい、吐くかも」


 それだけ言って部屋から走り出た。

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