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92. 帰宅準備

「え? 今から? そんなに急がなくても、わたしなら大丈夫だよ?」


 今すぐに帰りたい、っていう意味で言ったわけじゃないんだけど。そう思って聞いた。


「あっちの国に入ってからみんなと離れるより、王族のアルフがいるこっちの国にいる間に帰った方が心配事は少ない。帰ろう」


 そう言われれば、確かにこの国にいる間の方が安心だっていうのはわかる。


「それはそうだろうけど、三、四日で向こうのお城につくんでしょ? それからでもいいよ?」

「帰れるときに帰った方がいい。明日の夕方までなら、約二十四時間。時間もわかりやすいし」


 その言い方と、心配そうな表情に、それ以上は何も言わずに素直に頷いた。


「ヴェッラ、この服、今度戻る時まで借りっぱなしでも平気か? その間にあっちに帰る予定があるなら、ヴェッラがこっちに戻ったときにヴェッラのところに戻るはずだけど、ずっとこっちいるなら今度合流するときに返す」

「大丈夫、練習着はいっぱいあるから。持って行って」

「ありがと」

「ちゃんと戻って来てね。待ってる」


 ヴェッラが少し心細そうにそう言うと、タイガくんが安心させるようにヴェッラの手を握った。


「ヴェッラ、部屋の鍵は必ずかけてね。誰かわからない時はいきなりドアを開けたりしないでよ」

「うん。わかった。頑張る」

「大丈夫、僕が鍵がかかったことを確認してから寝るし、朝もヴェッラより早起きだから、ちゃんと起こします。がんばるから」


 タイガくんがそう請け合ってくれた。


 ……アレを起こすのか……がんばって。


 イザムが馬車の荷台に登って、箱の中から長い紐がついた赤、緑、青の石を取り出してそれぞれヴェッラとタイガくんとアルフさんに渡しながら、ちょっと呆れたように言う。


「そんなに感傷的にならなくても、明日の夕方には会えるよ」

「それもそうだね。こっちでできた初めての同性の友達だし、昨日から楽しいことばっかりだったから、さみしくなっちゃった」


 ヴェッラが笑って、わたしも笑う。


「わたしもだよ。こんなに遠慮なく話せる友達ができるなんてびっくりしてる。また明日」

「じゃあ、アルフ、頼むな。ヴェッラをひとりにするなよ。タイガ、女性のエスコートを覚えろよ。せっかくだからアルフに完璧なやつを教えてもらえ。……それでコツがわかったら俺に教えて」


 それを聞いたアルフさんが面白そうな顔になった。


「必要ならいつでもお教えしますが……必要ですか?」

「ああいうやつは俺たちは慣れてなくて、実際に目にすることもほとんどないから難しいんだ。だけど覚えといた方がいいかなってこの前――とにかく、今日はもう行くから、あとはよろしく。アイリーン? 行こう」

「うん、じゃ、またね」


 慌ただしく手を引かれて馬車を離れる。


「本当に平気?」


 顔をのぞき込まれて不思議な気分になった。走り終わってからずっと、大丈夫か聞かれる言葉ばかりかけられてる。どこかいつもと違うのだろうか。


「何が? 特に変わりないよ。息も整ったし」

「じゃあ一回領地の屋敷に帰る。ちょっと距離があるし、転移酔いするかもしれないから、ちゃんとつかまってて」

「了解」


 両手をイザムのローブの襟元に当ててから布ごと握る。肩を支えるイザムの手の感触。緑の光に包まれると、そこから先はおなじみの浮遊感と軽い眩暈だ。


「ついたよ。大丈夫?」


 イザムの声にそっと目を開ければ、灰色の石床。ベッドの支柱には彫刻。言われた通りの、領地のイザムの部屋だ。


「いつもと同じ、大丈夫だよ?……さっきから、何? ずいぶん心配性だね」

「うん、なんか、ちょっと……すぐ現実に帰れそう? それとも少し休憩する?」

「帰れそうだよ? あ、でもその前にみんなに会いたい。シルバーとイアゴがちゃんと元気でいるところが見たいの。ドラゴンを使い魔にしに行った後、一回も会ってないから一応――あ、イアゴはまだ里帰り中だっけ。クロちゃんとベルにも会ってからでもいい?」


 せっかくだから、顔を見てから帰りたい。


「イアゴも、会いたいなら呼ぶよ? 二十分もあれば飛んでくる」

「ううん、呼ばなくていい。邪魔したら悪いし」

「使い魔だし、こっちが主人だぞ?」

「そうかもしれないけど、たいした用もないのに会いたいってだけで一家団欒の場から呼ばれたら迷惑でしょ? 明日にはまた来て、そのあとはヴェッラたちと合流するんだから、そのうち会えるんだし」

「……俺はアイリーンに会いたいって呼ばれたらいつだって嬉しいけど。――夜中でも会いに行くから、会いたくなったら呼んで」


 いきなりそんなことを言われて、返事に詰まった。


 この前から、そうだ。小さい頃にキスした時のことを思い出して以来、突然思い出したように優しい言葉とか、行動とか、じっと見ていたりとか――。

 どういうつもりかわからなくて、ろくな返答ができないのに、顔だけ赤くなったのがわかる。


「……あの、ありがと」


 ようやくそれだけ言ったら、イザムは嬉しそうな顔になって、またわたしを観察するように見た。


「何?」

「ん、今のも前よりいい反応だな~って、やっぱり思い出したせいだよね、それ。前より俺のこと好きになってきてない? あ、今のすごく困った顔もかわいい」


 今度は急にからかいモードになってる。


「あの、とりあえず、みんなに会ってもいいかな」


 ニコニコ顔のイザムを直視できなくなって、斜め下の方を見ながら聞いた。


「それは、もちろん――でも、いつもはそんなふうにあいつらに会いたいなんて言わないよね――やっぱりちょっと不安定になってない?」


 声はご機嫌だけど、ちょっと眉が寄っている。


 小さく、チリーンというベルの音が鳴って、イザムの部屋のドアを抜けてシルバーが入ってきた。ボサボサに乱れた抜けかけの毛が、ところどころ焦げているけど、動きにおかしなところはない――よかった。

 元気そうな姿に力が抜けたのがわかる。自分で思っていたよりも緊張していたらしい。

 抱きついて、盛大にくしゃみをして、またしてもイザムに引きはがされた。


「だからシルバーは毛が生え変わってる途中だってこの前も――」

「いい、から。いいから。シルバー、元気? 大丈夫だよね? どこも痛くない?」


 金色の目をしっかり見て聞く。


「問題ない」


 いつもの美声が、やや呆れたような音を伴って返ってきた。


 ああ、よかった。


 ベルも入ってきて、シルバーを見てシャッと威嚇の音をたててイザムのベッドに飛び乗った。


「ベル? ベルは平気? どこも苦しくない?」


 シルバーから離れてベッドに駆け寄ると、ベルはゴロゴロと喉を鳴らしてベッドの上に転がった。顔の横や喉を撫でてやると、気持ちよさそうなゴロゴロが大きくなる。


 こっちも、大丈夫そう。


 はあ。よかった。


 いつ入って来たのか、クロちゃんがふわふわと飛び回ってベルの隣にポテリと降りた。


「クロちゃん、シュヴァルツさんは元気? 具合悪そうなところはない? ごめんねって伝えてくれる?」


 ふわふわした真っ黒い毛を指先でそっと撫でながら伝言をお願いする。

 身体全体でこくりと頷く仕草をしてくれた。いつものことながらすごくかわいい――変わりない。


 イアゴは里帰りだからいないし、もう一匹の解剖経験者であるフェストは、わたしたちが街の屋敷に出発するのに合わせて、ずいぶん大きくなった子どもたちを連れて山に帰ってしまった。だからここにはいない。他のみんなが大丈夫なんだから、大丈夫だと思うけど。


 思っていたより、ずっと、心細くなっていたみたいだ。


「アイリーン? これって何?」


 一人困惑顔のイザムをよそに、ほっと安堵の息を吐けば、一人だけ何かを察した顔をした顔のシルバーが、「ひどく心配せたようだが……」と言ってから、クロちゃんとベルとわたしの顔を見てから、さらにイザムを見てあきれ顔になった。


「主が話したのか? 俺たちなら誰も問題ないから、安心していい」

「本当に? あとになって夢に見たりしてない?」


 自分が解剖されるとか、絶対嫌だ。トラウマになるどころじゃないと思う。


「お前は見るのか? それは気の毒だな。当事者は誰もそれほど気にしていないと思うぞ」

「そうなの?」

「どいつもこいつも逃げ出さずに周辺に居ついているくらいだから、間違いない」


 根拠とともにはっきり言われて、安堵で泣きそうになった。


 よかった。


 シルバーが滅多に見られない狼スマイルを口の端に浮かべてから、そっと鼻先を押し当ててくれた。


「ほら、もう行け。主が困っている。そっちの方がよっぽど危険だ」

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