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85. 心裏腹

 今、何時だろう。わたしはヴェッラに一時間くらいで戻るって言ったはずだ。まだ一時間は経ってないと思うけど、少なくても四十五分以上は経っていると思う。


「あの、わたし、行った方がいいみたい。ごめんなさい、失礼します」

「うん。機会があったら、またね」


 誰かさんの方も何かを感じたのか、引き止めることもなく手を振った。

 手を振り返して背を向けると走り出す。


 危ない、危ない。きっとイザムが起きて、わたしが抜けだしたことに気づいて心配してる――宿屋の目の前の丘の裏にいるんだけど。


 とりあえず宿が見えるところまで走って振りかえったら、さっきまでそこにいたはずの誰かさんの姿はどこにも見当たらず、春の早朝の太陽に照らされた草原が光っているばかりだった。


 ?


 まるで消えてしまったかのように気配もない――不思議な人だ。

 宿屋に向き直ってまた駆け出したところで、表の扉が開いて、イザムが走り出てきた。そのままこっちに走ってくる。


「どうしたの?」

「大丈夫か?」


 声が重なった。


「何が? 何かあったの?」


 走り寄って尋ねれば、わたしとその背後を見比べながら、「いや、ちょっと変な感じがして……それにアイリーンはいないって聞いたから探してたら、走ってきたから、何かあったのかと思って」と、いう返事。


「ちょっと散歩に……一時間くらいで戻るって、ヴェッラに聞かなかった?」


 そう確認したらなぜか目をそらして、ごにょごにょ言われた。耳が赤い?


「……それは聞いたけど、一人でうろつくとか、危ないし。誰かに追いかけられたりしたんじゃないんだな?」


 もう一度わたしの後ろを見やる。


「追いかけられたりはしてないけど……そうだったとしてもわたし、逃げ足速いよ?」


 シーフだし。丘の向こうまでなんて高々数百メートルだから、持ち前の瞬発力でダッシュすればあっという間に戻って来られる。


「でも、魔法を使われたら」

「これ、持ってるよ?」


 ポケットからドラゴンの鱗ネックレスを取りだして見せると、「ああ、それ持ってたんだ。よかった」 と、ようやく安心した顔をして付け加えた。


「じゃあなんで走ってきたの? 何かに襲われたのかと思った」


 なんで、とは心外な。


「最初は、イザムが探してるってわかったから、早く帰った方がいいのかと思って急いでたんだけど、イザムが出てきて、わたしが見えてからも歩かないで走ってきたから、何かあったのかと思って」

「なんだ」


 気が抜けたようなその言い方に、ふっと緊張が緩んだ。特に何かあったというわけではないらしい。


「問題ないなら、帰って朝ごはんにしようか。でも、走ってきたし、髪の毛ひどいことになってるでしょ? ごはんの前に一回身支度したいかも」


 宿屋の方に歩きだそうとしたら、片手を取られてひきとめられた。


「あ~、歩きながらでもいいんだけど、ちょっと話したいんだ」

「何?」


 さっきの人に気づいていていたなら、あの人のことは何もわからないけど。って思ってたら、イザムがちょっとためらってから、口にしたのは。


「昨夜の――ことなんだけど」


 さっきの人のことじゃなかった。

 イザムも、心理的に落ち着かなかったとか、かな。


「いいけど、ちょっと難しいかもしれない」

「難しい?」

「うん。自分の頭の中がよくわからなくて、ちゃんと話せないかも――っていうか昨日いろいろ考えてみたら、自分のなかで結構矛盾してるところがあって」

「じゃ、とりあえずわかる範囲で?」

「うん。それなら――でも本当にぐちゃぐちゃだよ?」


 聞かれてもイザムが納得できるような答えが返せるとは思えない。だからこうやって外に出て身体を動かしたんだし。


「いいよ。現在地表示があるだけのマップでもないよりマシ――」イザムが肩をすくめた。「で、今でも、彼氏が欲しいとか、思ってないの?」

「昨日の今日だよ? ……思ってないよ」


 ちょっと驚いて聞き返した。


「なんだ……昨夜ので成長したかと思ったのに。手強いな」って呟いた。「じゃあ、俺のことはどう思ってるの?」


 目の前の相手をじっと見る。


「そこは変わってないよ。すごく大事な、友達」


 なるほどって感じに頷く。小さなため息付きで。


「そうだった――前も言われたんだった。でも、昨日のキスは嫌じゃなかったよね?」

「うん」

「また、してもいい?」

「……」


 そこだ。困ってしまう。


「じゃあ、俺が不安になったら、してくれる?」

「どうしても必要なら」

「ハグも?」

「うん――必要なら」

「俺がするのは?」


 そう聞かれて、返事がちゃんと出てこなかった。


「……それなんだけど、しないほうが、いいと思うんだ」

「なんで? ……やっぱり昨日の、嫌だった?」

「嫌じゃないよ。すごくほっとして、幸せだな~よかったな~って、思って……」


 昨日はそう思ったのに、言いながらなんだか寂しくなってくる。


「じゃあ、何がダメだと思ってるの?」

「……たぶんだけど、小さい頃の不安なら、それでよかったかもしれないけど、今はもう高校生なんだし、不安だから、寂しいからって、それだけでキスとかハグとかしちゃダメなんじゃないかって思う。昨日のキスは嫌じゃなかったし、すごく安心した。だけど、本当のわたしたちはつきあってないし、ここは現実じゃない。居心地の良さに慣れたらダメだと思う。むこうで勇に彼女ができたら、わたしはここで自分がやったことや、やってもらったことを後悔すると思う。わたしに彼氏ができても同じ。前も言ったと思うけど、ちゃんと顔を出せるようになって、現実で彼女、作りなよ」

 

 よくわからないけど、ここでのことを当たり前だと思っちゃいけない――そんな気がする。


「トラウマが根深いからそんなに簡単に顔は出せない――彼女なら愛梨がなってよ。それならキスしてもいいんだろ?」

「彼氏欲しくないって、それに友達だって、言ったよ」

「ああ、そっか――で、結局そこに戻って来るのか」


 そうなのだ。そこに戻る。


「それだけじゃないよ。そういう気持ちで好きじゃないのに、キスとかできるって、わたし変なんじゃないかな。節操ナシなのかって思ったら結構ショックで……」

「そこは変じゃないだろ?」


 即座に断言された。


「そう思う?」

「普通だろ?」

「そう? 本当にそう思う?」

「どんな子かなっていろいろ気になるのは普通だろ?」


 ……それってなんか。


「あー、えっと、イザム、それ違う。男子サイドの話にしないで。それから、そういうのって女子的に最低」

「あ、え、そっか……ごめん。でも気になるのは普通なんじゃないかって思っただけで、僕自身は別に誰かに何かしたわけじゃ――」

「わかってる。現実では女子とは距離を置いてるもんね――わたしはただ、自分がイザムだろうが誰だろうが恋愛対象として見たことがないのに、キスとかハグとかして違和感ないのがありえないんじゃないかって、そういう意味で言ったの」


 ダメダメだと思う。


「ああ、そういうやつか。じゃあ恋愛対象として見たらどう? どうぞ?」


 ぱっと両腕を広げていつでもどうぞの構えをされた。


 ……急にお手軽な感じになったな。


「どうぞ、って、試供品じゃあるまいし」

「お試しでいいよ? なんならキスもハグもご自由に試してくれていい――」

「よくないよ!」


 ますますダメな感じだ。


「本人がいいって言ってるのに」

「よくない――っていうか、前もこんなやり取りしなかった?」

「した。アイリーン、頭固~い」


 思いっきり下唇を突き出して、不満の表情。

 あきらかにわざとだし、笑わせようとしてくれてる。でも。


「よくない。イザムは大事な人だからこそ、よくないの」


 ちゃんと目を合わせてはっきり言う。


「わかってるけど、どっちにしろ現実で彼女なんてできそうにない――となればせっかくだからこっちでくらい疑似彼女体験させてもらった方が俺はずっと嬉しいし、それに」


 そこで切ってちょっと困ったように付け加えた。


「アイリーンを大事だって思えるほど、現実あっちに帰りやすくなるから、俺からの多少の接触は大目に見て欲しい」


 わたしの目を見返して、イザムも真面目に言う。


「どうしても嫌だっていうときは、そう言ってくれればいいから。無理強いはしないよ」


 そういえば、わたし、そのための存在だったんだっけ。いろいろ一杯過ぎて忘れてた。


「……ああ、そっか、そうだよね」


 イザムからキスされるとか、困るって思ったはずなのに、なんだかホッとしてしまった。そんな自分にとまどう。

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