82. 返答
「わたしの目に、イザムがどう映ってるか、って?」
ほぼ鏡に映ったとおりに決まってるけど……絶対そういう意味じゃないよね。
「今の状況をどう思ってるかってことだよ」
「今の?」
つまり、今ここにいる私たちのこと、を?
「あ~、くそ、こういうの自分で言いたくないんだけど、お前の目に映ってる俺って、世間一般的に言ったらかっこいい方だろ? 特に、今は作ってないんだし」
そういう意味なら、顔は珍しいくらい整ってるけど、何を今さらそんなこと。
質問の意味がつかめない。
とりあえず頷く。
「で、今は夜で、あたりには人気がなくて、お前は俺の腕の中なわけだけど、ちょっとは、その、……ときめいたりとか、しないわけ?」
「ああ、そういう……意味か」
「仮にもこっちで一度はキスしたし、あれからもハグしたり、してるだろ? なんか思うところはないの?」
そう言いながら抱きしめる腕が、ちょっとだけきつくなった。
むむむ。
「ええ、と。今なら、ちょっと、困っては、いるよ? それに時々身の置き場がないというか、恥ずかしいかなってときもあるし。でも、婚約者の設定だし、嫌なわけじゃないし、慣れた方がいいんだろうなっていうのもあるし、なにしろ相手がイザムだし?」
警戒しすぎるのも、ダメかなって。
「その最後の、何?」
「最後のって?」
「なにしろ、相手が俺ってやつ」
「そういう相手じゃないってこと? 警戒しなくていいって言ったでしょ? だから努力はしてる」
だから攻撃もしてない。
「……言ったけど、そういう意味じゃない」
は~、と盛大なため息とともに体に回されていた腕の力が抜けた。
「けっこう頑張ったつもりだったんだけどな~」
そう呟いて空を仰がれた。
「イザムはいつもがんばってると思うけど、何の話?」
「……いや、何でもない……でももうちょっと、こうしててもいい?」
額の上に頬を乗せてちょっと擦り付ける。
「いいよ? また落ちつかなくなった?」
「ん、そんなとこ」
そのまましばらく沈黙を過ごした。イザムの身体から力が抜けているせいか、緊張感がまるでなくて人肌の感じが心地いい。耳に響いてくる心臓の音も穏やかだ。
「あのー、イザム?」
「んー?」
気の抜けた返事が頭の上から降ってくる。
「次は、断ってもいい?」
「何をー?」
全く心当たりがないらしい言い方。
「……イザムを、誘いたいって言われたら。ダメだって、言っていい?」
「なんだ、それか。いいよ」
何のためらいもないそのままの言い方にものすごくほっとして息を吐いた。
よかった。
安心する気持ちがイザムの体の熱と一緒にじんわりと染みてきて、なんだか泣きそうだ。イザムがちゃんと、ここにいることが嬉しい。いなくなっちゃわない。大丈夫だ。
ちょっとだけ、胸もとに頬を摺り寄せて背中に腕をまわしてみた。
「……どした?」
なんて答えたらいいんだろう。どうしたんだろう。言葉が見つからなくて、目をつむって小さく首を振った。
よかったな~、って思う。
「大丈夫――ここにいるよ」
そう言って、不安を追い払うようにポンポンと背中をたたいてから髪の毛を撫でてくれる。この感じ……前もあった。いつのことかは、思い出せないけど。目をつむったまま、記憶をたどる。前にもこうやって、ちゃんとここにいることを確認したことがある。たぶん忘れちゃった記憶の中で。
「あいり?」
そう、そうやって呼んで。
「うん」
わたしが顔を上げて。
そうすると、ちゅ、ってキスしてくれる――。
記憶のままに唇に柔らかい温かさが触れた。
そう、そんな感じで――って、そんな、感じで?
ぱっと目を開けたら、目の前のイザムと目があった。超至近距離で。
「今、キス……」
「した」
だよね、うん。気のせいとかじゃなく、でも。
「なん、で?」
「心細そうだったから」
そうだね。確かに、イザムがいなくなっちゃいそうで、不安な感じになってた。それに。
「あの、前にも、した?」
そんなことがあったような、そんな気がすごくした。
「うん。――それも忘れてた? そうなんだろうなとは思ってたけど」
仕方ないなあって感じの、気の抜けた声。
「うん……たぶん忘れてた」
そんないい加減なわたしの返事なのに、ふっと笑った顔は優しかった。
「もう一回、する?」
「え?」
なんでもう一回?
「『もいっかいして』ってよく言われたから、どうかなって思って」
そう言われた途端に、かーっと一気に顔に熱が上がってきた。
「うそ、わたし、そんなこと言った? 言ったの? 本当に?」
そんな記憶はない。まったくない。だけど、たぶん言った。だってこんなに落ちつかない気持ちになる。
ニコニコ嬉しそうに見つめられて、ますます顔が熱くなる。暗いからイザムにはわからないとは思うけど、たぶん耳も真っ赤になってると思う。
「あの、ごめん、えっと、その、ちょっと、離してくれる?」
さっきまでゆるゆるだったイザムの腕が、いつの間にかまたしっかり体に回されている。
「いや、せっかくだからもうちょっと、このまま――それよりもう一回、しなくていいの?」
「しなくていいよ! そんな、もう一回なんて」
「……『たりないよ』っていつも言ってたのに?」
顔をのぞき込もうとしないで欲しい。ぜったい真っ赤だ。
「うそ! いや、覚えてないけど、え? 言ったの? わたしが?」
右に左にと首を振って視線を避ける。
頭の中が混乱してる。わたし、そんなこと言った? うそ、言った? 言ったの? ってそればっかり繰り返してる。
そうだとしたらなんてことを。いや、覚えてないってことは小さかったんだし、たぶんあのハサミ周辺の記憶だし、セーフ、だよね。覚えてないし。うん。
「『いっしょにいて?』って言ってくれたら今日はこのまま、あの頃みたいに朝までずっと一緒に寝ることにしてもいいんだけど――その様子だとさすがに、それを期待するのはダメかな」
おもしろそうに笑ってるけど、なに、それ。
どうにかこの腕の中から抜け出したいんだけど、きつくはないのに、逃がしてくれない。
「もう、離して。頭爆発しそう」
精一杯腕を突っ張って距離を取ろうとすると、そのぶんだけ離れた距離を使って顔をのぞき込もうとする。
「そうそう、こういうやつ」
ますます楽しそうに言って、肩を引き寄せる。
「何? 今度は何の話?」
「本当はさっき、こういう反応を期待してた」
「さっき?」
何のこと――もう、本当に勘弁してほしい。頭が働かない。ついでに、幼かったとはいえ、キスを請求する台詞を堂々と口にしたことは忘れて欲しい。
「そう――アイリーン?」
「え?」
「かわいい」
やーめーてー!! 背中がこそばゆくて、ダッシュで逃げたい。
恥ずかしくて涙が出てきた。
「それ以上言ったら、蹴り飛ばして逃げる」
「じゃ、言わない。次の機会に取っておく――でも」
そこで言葉を切って、ゆっくり目を合わせる。
おもしろがっていた表情が消えて、また優しい顔になっていた。
「思い出してくれて嬉しい。俺にとってはすごく大事な思い出だから」




