73. 現実の思い出
勇の部屋、パソコンの前に手をつないで並んで立っている。向こうに行ったときのままで、抱きしめたりしてない。でもなんとなく離れ難くてそのままじっとしていたら、不思議そうに勇が聞いた。
「どうしたの? 留守にしてる間に何かあった?」
さっきよりも短い顎までの髪、ジーンズに、パーカー。
ちゃんと本物の勇だ。
「ううん。そういうわけじゃなくて。すぐ帰るって言ったから、すごく急いでるのかと思って。ちょっと、置いて行かれそうかなって思っただけ」
首を振ってごまかした。
「なんだ。そんなこと。置いて行ったりしないよ。ほら、ちょっとあっちでがんばっちゃったから、魔導士のローブがボロボロでさ、MPも少なくなってたし直してる時間もなかったから、一回初期設定に戻そうと思っただけ。そっちも最初のカッコに戻っちゃうけど――すぐ戻れる?」
そう聞かれて、ちょっと戸惑った。
すぐ戻る――その後、どのくらいいる予定なんだろう。今週は異世界比率が高めだ。旅に出る前にもう一回現実に戻るのか、このまま行きっぱなしなのか、確認したほうがいいかもしれない。
「しばらく向こうにいるつもりなら、一回家に帰ってもいい? できるだけ早く戻って来るけど、あっちに行く前に何してたのか、日記を見て確認しておきたいかなって」
「いいよ。暗くなってきたし、一緒に行く」
そう言われて窓を見れば、外には夕闇が迫っていた。
そっか。今日は金曜日の夕方だった。
勇の後に続いて階段を下りていくと、おばさんが声をかけてきた。
「さっき来たばっかりなのに、帰るの? もっとゆっくりしていけばいいのに」
「いや、愛梨が忘れ物したっていうから取りに戻るだけ。すぐ戻るよ」
すらっと理由が出てくる。
勇は本当に異世界との行き来に慣れてるんだな、って思う。
「そうなの。ねえ愛梨ちゃん、久しぶりにうちでご飯食べて行かない? 今日、うちのお父さん、会社の人とご飯食べに行くから遅くなるんですって。息子と二人っきりだと会話が進まなくって……お家で梨沙子さんに聞いてみて? 帰りもちゃんと勇に送らせるから」
台所で冷蔵庫を覗きながら誘ってくれる。
「今日、俺を愛梨ん家まで何往復させる気?」
ここに来るときも迎えに来てくれた勇が聞く。
「いいじゃないの、すぐそこなんだから。どうせまた土日もゲームだとかなんだとか言って家の中にいるつもりなんでしょ? 二十回くらい往復したってたいした運動にもならないわよ」
朗らかにおばさんが笑う。その顔が、家に籠りっぱなしでも運動をしなくても、勇がいることが嬉しいって言ってる。
だからすこしきつい言葉も、言ってる言葉通りには聞こえない。すごく愛されてるんだな、って思う。
それなのに、現実に執着心がないなんて贅沢な。
うちの親子関係とは何かが根本的に違うんだよね、って思ってからふと、思い当たった。
もしかしておばさんは、勇がこの世界に執着がないってどこかで気づいてるのかもしれない。――だから一生懸命、大好きだよ、って伝えようとしているのかもしれない。
「ね、愛梨ちゃん、聞いてみて?」
最後に招待を受ける返事をしたのはいつだったか覚えていない。だけど、勇の現実世界でも、楽しいことを増やしたいな、って思った。
「はい。聞いてみます。ついでにたまにはお父さんとデートでもしたら、って言ってみます」
ありがたく受けさせてもらうことにしたら、おばさんが嬉しそうに笑った。
「あら~、いいわね、それ。勇、あんたもたまには愛梨ちゃんみたいに、お父さんとお母さんにデートとか勧めなさいよ」
「勧めなくても行ってきなよ。俺なら一人でも飯くらい作るし」
にこやかだったおばさんの顔がちょっと曇った。一人にしたくないんだと思う。
わたしは慌てて口を開いた。
「そのときは勇がうちに来たらいいじゃん。一緒にご飯食べればいいよ」
勇がちょっと驚いたように目を見張って、それから笑った。
「いいね。楽しみにしとく」
おばさんも「いいわね~、楽しそう」って言ってくれた。
うちまでの短い距離、パーカーのフードに顔は隠れていたけど、勇はずっとご機嫌だった。
リビングで読書中の母に、勇の家の夕ご飯に誘われた話をして、「金曜日なんだし、たまにはお父さんと二人で食事でもいったら? わたしなら後で勇が送ってくれるって」って言ってみる。
「そう? じゃあそうしよっかな。幸枝さんに、「ありがとう、よろしく」って伝えて。勇君、悪いけど頼むね」
さっさと本を閉じて携帯をつかむ。父に電話をかけるのだろう。
「今度おじさんとおばさんがデートの時は勇がうちでご飯だからね」って声をかけると、手でオッケーと返してきた。
このどうでもいい感じが、勇の家とまったく違う。
階段を登って自分の部屋に入る。
ドアを開ければそこはちゃんと自分の部屋で、ドアの内側に制服。机の横の棚にカバン。机の上には渡されたばかりの学年末テストの予定表。
「頭の中身、繋げるからちょっと待ってて」
後ろから付いてきた勇に声をかけて、机の引き出しから日記というか、記録簿みたいな扱いのノートを出して広げると、後ろから勇がひょいとのぞき込もうとした。
「ちょっと。たいしたことは書いてないけど、一応わたしの私生活の記録なんだから覗かないでよ」
「それってたとえばどんなこと? 何を確認したかったの?」
髪の毛でほぼ隠れた眉を片方上げて、窺うように聞く。
「別に普通の……ご飯に何を食べたとか、誰に会ったとか、何を見たとか話したとか、どんなニュースが流れたかとか、そんなことだよ。確認したかったのは、忘れちゃってることがないか。あと、このところ結構な頻度で向こうに行ってるから、こっちの現実味が減ってないかどうかも……。
ん。大丈夫みたい。勇の家でご飯の約束したって書いとこ。あと、近いうちにこっちで一緒にご飯って約束も」
走り書きを追加してノートを閉じた。
「おっけ。行こっか」
机の引き出しに戻して振りかえると、勇がまた嬉しそうな顔をしていた。
「何? 嬉しそうだね」
「俺もそういうの書こうかなって思って。楽しいことが待ってる、って感じ、いいね」
視線の先はノートが入った引き出しだ。
「じゃ、行く前にちゃんと書いておいて、今度帰ってきたらご飯食べながら、おばさんにデートはいつ頃がいいか聞いてみよう」
なんだか足取りも軽いまま勇の家に戻って、おばさんに夕ご飯をごちそうになる話をして、後で手伝いますって言ってから勇の部屋に行った。
勇がメモ帳に「ご飯の約束」って書いてパソコンの画面の縁に挟んだ。
「これでおっけ。行こっか」
差し出された手に手を乗せる。
「うん、行きましょっか」
さっき戻って来た時の深刻さとは裏腹に、わたしたちは笑顔で画面に向き合った。




